ソビエト映画(読み)ソビエトえいが

改訂新版 世界大百科事典 「ソビエト映画」の意味・わかりやすい解説

ソビエト映画 (ソビエトえいが)

映画史的にいえば,帝政時代からケレンスキーの臨時政府治下にかけての映画は〈ロシア映画〉であり,十月革命以後の映画が〈ソビエト(ソ連)映画〉である。1894年,モスクワ大学の2人の物理学教授の発明した機械による映画が学会で公開されたという説もあるが,ロシアと映画のかかわりは,96年5月,フランスのルイ・リュミエールの派遣したカメラマンモスクワで皇帝ニコライ2世の戴冠式を撮影したのが始まりで,同じ月にロシア最初の映画館がペテルブルグに建てられ,イギリス,アメリカ,フランスの映画会社が支社を設置して映画市場を支配し,映画製作が始まったのは1907年になってからとされる。ロシア映画は,舞台劇の実写や,フランス映画やドイツ映画の影響を受けてトルストイ,ドストエフスキー,プーシキンツルゲーネフなどの小説をもとにした〈文芸もの〉が主流であった。このようにソ連が帝政ロシアから受け継いだ映画的遺産はきわめて貧弱であったが,革命の初期から映画がもっとも重要な芸術であると認めていたレーニンは,19年8月,映画産業のすべてを国有化する布告に署名し,内戦の初めから〈フロニカ(記録映画,ニュース映画)〉あるいは〈アギトカ(扇動映画)〉とよばれる軍事的,政治的な啓蒙短編映画(のちに開拓されて長編記録映画となり,イギリスのドキュメンタリー映画の母胎ともなった)がつくられ始めた。また,19年10月には世界最初の国立映画学校がモスクワで開校された。

その後ソビエト映画は,社会主義的建設と同じように平たんではない道をたどったが,1921年から24年にかけての〈ネップ(新経済政策)〉の期間中に経済的な基礎を築き,外国映画の輸入も盛んになり,とくにドイツやアメリカの作品から技術的な刺激を受けた。そして,プドフキンエイゼンシテインによって〈社会主義芸術としての映画〉が創造され,育成される。監督であり映画理論家でもあるクレショフL.V.Kuleshov(1899-1970)とともにプドフキンとエイゼンシテインは,D.W.グリフィスチャップリンをはじめ,アメリカ映画の技術や手法を分析した結果を〈唯物弁証法〉的に理論化してモンタージュ理論を提唱した。サイレント映画史を飾るエイゼンシテイン監督《戦艦ポチョムキン》(1925),プドフキン監督《母》(1926)がつくられ,エイゼンシテインの革命10周年記念映画《十月》(1928),プドフキンの《アジアの嵐》(1928)が続き,さらに社会主義的建設を啓蒙宣伝するエイゼンシテイン監督《全線(古きものと新しきもの)》(1929),ウクライナのドブジェンコA.P.Dovzhenko(1894-1956)監督の農業集団化を描いた《大地》(1930)などの作品がつくられた。

 28年,ソビエトではまだ1本のトーキーもつくられていなかったが,エイゼンシテイン,プドフキン,アレクサンドロフG.V.Aleksandrov(1903-83)の3人の監督が連名で〈トーキーに関する宣言〉を発表して,映像と音のモンタージュ,その対位法的処理が新しいトーキー芸術の道であると唱えた。最初のトーキーは,エックN.V.Ekk(1902-59)監督が浮浪児の救済と教化を描いた《人生案内》(1931)である。トーキーがつくり始められたときと社会主義的建設が推進された時期とが重なり合い,30年代のソビエト映画は社会主義リアリズムを最高の課題にかかげ,1927年から始まった5ヵ年計画の達成をテーマとしたエルムレルF.M.ErmlerとユトケビチS.I.Yutkevich共同監督の《呼応計画》(1932),ワシリエフ兄弟監督の内戦の英雄的叙事詩ともいうべき《チャパーエフ》(1934),白軍との戦闘における水兵の英雄的なたたかいを描いたジガンE.L.Dzigan監督の《われらクロンシタットより》(1936)などが新しいリアリズムの代表作である。ソビエト映画は特定の個人ではなく集団を主人公として描いてきたが,ロンムM.I.Romm(1901-71)監督は,十月革命の歴史的な道程のなかのレーニンを人間的にとらえて《十月のレーニン》(1937),続いて《一九一八年のレーニン》(1939)をつくった。

1941年,ソビエトはドイツの侵略によって最大の危機を迎えたが,この〈大祖国戦争〉のなかでワルラーモフL.Varlamov監督の《スターリングラード》(1943)をはじめ国民の士気を高める記録映画がつくられ,また,ワシレフスカヤの小説をドンスコイM.S.Donskoi(1897-1981)監督が映画化した《戦火の大地》(1944),祖国防衛戦争における18歳のパルチザンの少女を描いたアルンシタムL.O.Arnshtam監督の《ゾーヤ》(1944)などがつくられた。44年,戦争は勝利に終わったが,〈悪い遺産〉といわれた〈スターリン主義〉とともに,とくに巨匠たちの間に形式主義的な政治主義あるいは芸術至上主義が生まれ,エイゼンシテインの《イワン雷帝》(1944)やプドフキンの《ナヒーモフ提督》(1946)はその〈偏向〉が批判されて改作させられた。こうして映画芸術家に課された自己批判によって新しい前進が始まり,戦争の傷跡の克服を描いたプイリエフI.A.Pyr'ev(1901-68)監督の色彩音楽映画《シベリア物語》(1947),ゲラーシモフS.Gerasimov監督の《若き親衛隊》(1948)などがつくられた。

1953年のスターリンの死後における映画界の〈雪どけ〉現象は,チュフライG.N.Chukhrai(1921-2001)監督《女狙撃兵マリュートカ》(1956),《誓いの休暇》(1959),カラトーゾフM.K.Kalatozov(1903-73)監督《戦争と貞操》(1957),《送られなかった手紙》(1960)などに代表され,主題と形式の分裂や図式化が指摘されたりもしたが,国際的に高く評価された。文芸映画の隆盛も顕著な傾向で,ボンダルチュクS.G.Bondarchuk(1920-94)監督の四部作《戦争と平和》(1966-67),ザルヒA.G.Zarkhi(1908- )監督《アンナ・カレーニナ》(1968),プイリエフ監督《カラマーゾフの兄弟》(1969),そのほかロシア文学の古典的名作が映画化され,コージンツェフG.M.Kozintsev(1905-73)監督《ハムレット》(1964),《リア王》(1972)などシェークスピアの古典を〈忠実に〉映画化した作品もある。

 帝政や革命を経験した戦前の作家とは世代の異なる新しい監督も登場し,国立映画学校出身のタルコフスキーA.Tarkovskii(1932-86)監督の処女作《僕の村は戦場だった》(1962)はベネチア映画祭で金獅子賞を受賞し,15世紀ロシアの修道士をリアルに描いた第2作《アンドレイ・ルブリョフ》(1966)は71年まで公開を禁止されたが,第3作《惑星ソラリス》(1972)はカンヌ映画祭で審査員特別賞を受賞した。戦前派の監督も新しい作品を発表し,ロンムは《一年の九日》(1962)で,ユトケビチは《ポーランドのレーニン》(1966)で健在ぶりを示した。

 1960年代の末から国際的な合作映画の計画がすすめられ,イタリアとの合作によるボンダルチュク監督《ワーテルロー》(1970),キューバとの合作によるカラトーゾフ監督《怒りのキューバ》(1963-66),インドとの合作によるアレクサンドル・ズグリジ監督《黒い山》(1971),アメリカとの合作によるジョージ・キューカー監督《青い鳥》(1976)などがつくられた。

 15の民族共和国から構成されたソ連には43の撮影所があったが,19の撮影所が劇映画,24の撮影所が記録映画を製作していた。なかでも,《国境の町》(1933)のボリス・バルネット,《火の鳥》(1965)のセルゲイ・パラジャノフといった作品や作家を輩出しているウクライナや,シェンゲラーヤ父子,オタル・イオセリアーニ(《落葉》1966)らを擁したグルジアなどでの映画活動が知られている。製作の分散化傾向が進んだため,70年代末にはソビエト映画の約50%がこれらの共和国で製作され,ソビエト全体で年間平均約140本の劇場用長編映画と90本のテレビ映画が製作されていたという。
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