改訂新版 世界大百科事典 「エイゼンシテイン」の意味・わかりやすい解説
エイゼンシテイン
Sergei Mikhailovich Eizenshtein
生没年:1898-1948
モンタージュ理論とその実践である映画史上不朽の名作《戦艦ポチョムキン》によって知られるソ連の映画監督,理論家。チャップリンと並んで世界映画史上の〈天才〉,あるいは〈巨人〉といわれ,多彩な才能がレオナルド・ダ・ビンチにもたとえられたが,ソ連の政治状況の中で映画監督としては〈形式主義者〉としてきびしい批判を浴び,実作活動もままならず(実際,名声の割りには作品の数は少なく,25年間に自分の手で完成した作品はわずか6本である),その間に執筆活動に挺身し,理論家として映画芸術の発展に寄与する豊かな遺産を残している。
ユダヤ系ドイツ人を父にラトビアのリガに生まれる。V.メイエルホリドに師事して演劇を学び,1923年,クレショフの〈映画実験工房〉で映画を学んだ。同年,アレクサンドル・オストロフスキー作《どんな賢人にも抜かりがある》をみずからの演出・美術で上演するにあたり,初めて短編フィルム《グルーモフの日記》を撮って劇中に挿入した。24年,F.ラングの《マブゼ博士》(1922)のロシア語版編集の監修に携わり,学生時代からとくにD.W.グリフィス作品を通じて知っていた〈編集〉の効果をさらに深く学ぶ。演劇の限界を自覚して映画に転じ,初めての長編《ストライキ》(1924)で経験豊かなカメラマン,ティッセEdouard Tissé(1897-1961)と組み,生涯にわたる協力がここから始まった。《ストライキ》はソビエト国内よりも国外で高く評価され,また次に中央委員会から委託されて撮った《戦艦ポチョムキン》(1925)は国の内外の観客大衆に熱狂的な好評で迎えられ,ソビエト映画の存在を世界に示すとともに世界映画史を飾る記念碑的作品となった。しかし,グレゴリー・アレクサンドロフと共同で監督した革命10周年記念映画《十月》(1927)は,製作中にトロツキー解任などの政変があって一部修正を強いられ,公開が遅れる。中断していた農業の社会主義化を描く《全線》も完成したものの,スターリンの批判によって公式の農業政策をとり入れたものに改変を命じられ,《古きものと新しきもの》と改題されて29年にようやく公開の運びとなる。その年エイゼンシテインはティッセとアレクサンドロフを伴ってヨーロッパへ出発し,世界映画史に特記されるローザンヌの〈国際アバンギャルド映画会議〉に出席。その後,招かれてハリウッドへ渡り,ドライサー原作の《アメリカの悲劇》,サンドラールの《黄金》を原作にした《サッターの黄金》の2作品の製作を準備し,どちらもシナリオ,演出メモまで書かれながら実現しなかった(前者はスタンバーグ監督が《アメリカの悲劇》(1931),後者はクルーズ監督が《黄金》(1936)として映画化することになる)。またアプトン・シンクレアの出資でメキシコの過去と現在を描く《メキシコ万歳》を撮影するが,シンクレア側と意見が対立し(当時,スターリンがシンクレアに〈エイゼンシテインは同志たちの信頼を失い,祖国に離反した脱走者と考えられている〉という電報を打った事実が発見されている),32年,未完成のネガを残して帰国。このネガをもとにソル・レッサーの《メキシコの雷鳴》(1933)とエイゼンシテインの伝記を書いたマリー・シートンの《太陽の中の時》(1939)がアメリカでつくられたが,その後ネガはソ連に返却され,アレクサンドロフの再編集による〈公式版〉が79年にソ連で公開された。帰国したエイゼンシテインは,スターリン個人崇拝と官僚的芸術指導が浸透した体制のもとで,社会主義リアリズムから逸脱した〈形式主義者〉と攻撃され,新作の企画が相次いで拒否され,彼の情熱は映画学校での教育に向けられた。
37年,ツルゲーネフの小説をもとにつくられた農村映画《ベージン草原》は,映画局長ボリス・シュミヤツキーによって《プラウダ》紙上で攻撃されて未公開に終わり,エイゼンシテインは自己批判を強いられるが,シュミヤツキーの解任後,ナチス・ドイツの脅威に対して士気を高揚するためにつくられた歴史映画《アレクサンドル・ネフスキー》(1938)は,エイゼンシテインに対する批判・非難をはらいのけてレーニン勲章を授与される。40年にソ連最大の撮影所モスフィルムの芸術部門の指導者に任命され,《イワン雷帝》第1部(1944)を完成するが,間接的なスターリン批判になっているとされ上映を禁止された第2部(1946)の改作中,50歳の誕生日を迎えてまもなく心臓発作で死亡。第2部は彼の死後10年たった58年にやっと公開された。
エイゼンシテインの理論の中心的なテーマは,〈芸術は衝突(葛藤(かつとう))である〉ということであり,映画芸術の基礎といわれる〈モンタージュ〉について,映画製作術の教科書的な映画技術論的段階から芸術論的段階へ発展させた。ソ連ではまだトーキーが製作されていなかった1928年に,V.プドフキン,アレクサンドロフと連名で〈トーキーに関する宣言〉を発表したことも業績の一つである。多くの著作は,ソ連で《エイゼンシテイン選集》6巻にまとめられている。
執筆者:柏倉 昌美
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報