ロシア・ソ連邦の作曲家,ピアノ奏者。裕福な農業技師の家に一人息子として生まれた。ピアニストの母親に音楽の手ほどきを受け,幼少時から天才を発揮した。作曲家R.M.グリエールの個人指導を受け,1904年ペテルブルグ音楽院に入学。その保守的な学風にはなじめなかったが,N.Ya.ミヤスコフスキーやB.V.アサフィエフとの交遊と〈現代音楽の夕べ〉での活動を通して,当時のロシア音楽界の最も優れた部分を吸収した。09年作曲科を卒業してピアノ科に移り,A.N.エシポワの下で一流のピアニストとしての訓練を与えられた。14年自作の《第1ピアノ協奏曲》を弾いて,ピアノ科の最高の栄誉であるルビンシテイン賞を得て卒業。ロンドンに旅行してディアギレフと知り合い,ストラビンスキーの舞台音楽に接した。この時期,バレエ曲《アラとロリー(スキタイ組曲)》や《道化師》(1915),オペラ《賭博者》,《古典交響曲》(1917),ピアノ曲集《あてこすり》や《つかのまの幻影》など,初期の名作が次々と生まれた。
十月革命後の1918年ソビエト政府から許可を得て,極東から日本を経てアメリカに渡った。アメリカではむしろピアニストとして認められ,作品に対する評価はままならなかった。シカゴでオペラ《三つのオレンジへの恋》の初演(1921)をなんとか成功させたが,アメリカには見切りをつけて,22年ヨーロッパへ本拠を移した。23年スペイン人の歌手リーナ・ルベラと結婚,2人の息子をもうけた。同年ソ連から公式の招待を受けたが,実際に訪問するのは27年以後で,32年には真剣に帰国を考えるようになった。36年春家族を連れて最終的にソ連に復帰した。欧米での作曲活動は主としてロシアで着想したものの完成や改訂で費やされていたが,最も苦心したのはオペラ《炎の天使》であった。この上演は困難で,その素材は《第3交響曲》に利用された。ディアギレフとの関係で,バレエ曲《鋼鉄の歩み》(1925)や《放蕩息子》(1928)が生まれ,後者の素材で《第4交響曲》が作曲された。また映画音楽《キージェ中尉》(1933。34年交響組曲に改編された),バレエ曲《ロミオとジュリエット》(1936),音楽童話《ピーターと狼》(1936)などがあるが,これらはすでにソビエト的なわかりやすい作品である。
36年ソ連でプロコフィエフを待ち受けていたのは,ショスタコービチのオペラに対する《プラウダ》の批判に象徴される厳しい文化政策であった。38年を最後に欧米への旅行も許されなくなった。第2次大戦に入り,妻リーナはスパイ容疑を受けて(のちには逮捕されて強制収容所に入れられた)家庭は崩壊した。第2の妻とされる(正式には結婚しなかった)ミーラ・メンデリソンと知り合ったのもその原因の一つである。ミーラはその後の病気がちなプロコフィエフの生活を支えた。ソ連では,オペラ《セミョーン・コトコ》(1939),《修道院での結婚》《戦争と平和》《真実の人間の物語》,バレエ曲《シンデレラ》(1944),《石の花》(1949),映画音楽《アレクサンドル・ネフスキー》(1938)など大規模な劇作品が多い。そのほかにも,《第5~第7交響曲》《第6~第9ピアノ・ソナタ》などあらゆる分野に多くの作品を残した。プロコフィエフには世紀末的な主観性とか細密画の世界は無縁である。とくに初期には,しばしば複雑な音響を用いることもあったが,彼は本質的に健康で,いたずらっぽい笑いに満ちた古典主義的な作曲家であったといえる。
執筆者:森田 稔
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ロシアの作曲家。4月23日、ウクライナのエカテリノスラフ県ソンツォフスカ村の裕福で教養高い家庭に生まれる。母の影響で早くから音楽に親しみ、11歳のころには二つのオペラを書き上げるまでになった。革命前夜の不穏な状況のもとで1904~14年ペテルブルグ音楽院に学び、リャードフ、リムスキー・コルサコフらに作曲・理論、エシポワにピアノ、N・チェレプニンに指揮を師事するかたわら、アサフィエフやミャスコフスキーと親交を結んだ。また「現代音楽の夕べ」のグループに加わり、当時の国内外の前衛作品から大きな影響を受けて、ピアノ協奏曲第一番(1911~12)、同第二番(1912~13)ほか多数を作曲、08年には自作を演奏してピアニストとしてもデビューした。ディアギレフに依頼されたバレエ『アラとロリー』(1914~15。のちに『スキタイ組曲』に改編)や『古典交響曲』(1916~17)を発表したのち、18年、革命に揺れる祖国を離れ、日本経由でアメリカに亡命した。
滞米時代にはピアノ協奏曲第三番(1917~21)、オペラ『三つのオレンジへの恋』(1919)など大作を手がけたが、卓越した演奏家としては評価されながらも作品の大胆な語法が理解されず、1922年ヨーロッパに戻った。パリを拠点に各地で演奏活動を行うかたわら創作を続け、33年再三にわたる当時のソ連当局の要請を受け入れて祖国に復帰。社会主義リアリズムの路線に沿ってバレエ『ロミオとジュリエット』(1935~36)、子供のための交響的物語『ピーターと狼(おおかみ)』(1936)、映画音楽『アレクサンドル・ネフスキー』(1938)、交響曲第五番(1944)などの名作を書き上げた。第二次世界大戦後オペラ『戦争と平和』(1941~43、改訂1946~52)をはじめ一連の作品がジダーノフ批判の対象となり、その非難を受け入れてさらに諸作を発表。53年3月5日、スターリンの死と同じ日に、あらゆる分野に多数の作品を残してモスクワに没した。
作風は、不協和音を多用した激しく辛辣(しんらつ)な書法から、しだいに新古典主義的な様式に変化、ソ連復帰後には平易で叙情的な表現が優勢を占めている。
[益山典子]
『園部四郎・西牟田久雄訳『プロコフィエフ自伝・評論』(1964・音楽之友社)』▽『井上頼豊著『プロコフィエフ』(1968・音楽之友社)』▽『M・R・ホフマン著、清水正和訳『プロコフィエフ』(1971・音楽之友社)』
ソ連の詩人。ラドガ湖畔の漁村に生まれる。初期の詩集『真昼』(1931)、『クラースヌイエ・ゾーリ街』(1931)などは、北部ロシア民話のモチーフによったもの。ほかに国内戦、農村集団化などに関するロマンチックで革命的な作品がある。さらに独ソ戦をテーマとした叙事詩『ロシア』(1944)により叙情性と叙事性を結合した独自の詩風を確立し、詩集『旅への招待』(1960)によりレーニン賞を受賞。その後も、思索性と人間観照にあふれた多くの作品を書いている。
[草鹿外吉]
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出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報
1891~1953
ソ連の作曲家。ロシア革命を避け日本,アメリカ,フランスに移住したが,1936年帰国し,民族的色彩の濃い抒情的な作品を発表しつづけた。「古典交響曲」などがある。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…J.S.バッハ以来とだえていたポリフォニックな書法を要求する無伴奏ソナタが,イザイエやバルトーク,ヒンデミットの手によって自由な新しい表現の場として復活する一方,従来のソナタや協奏曲では,印象派の語法と古典主義との融合を示すドビュッシー晩年のソナタ(1917)以来,バイオリンの演奏技術を作曲家独自の書法に従わせる傾向が強まった。20世紀の代表的なバイオリン協奏曲としては,十二音技法に基づきながらもバイオリンの調性的色彩を生かすことに成功したA.ベルクの協奏曲(1935)や抒情性と多彩なリズムを結びつけたS.S.プロコフィエフの二つの協奏曲(1917,35),さまざまな語法実験をみごとに統一させたバルトークの《協奏曲第2番》(1938)などを挙げることができる。
[日本のバイオリン]
日本にバイオリンが導入されたのは明治時代にさかのぼる。…
…ソ連邦の作曲家プロコフィエフが自国の子どもたちのために作詞・作曲した音楽童話(作品67)。1936年作曲,同年5月モスクワの児童劇場で初演された。…
※「プロコフィエフ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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