エジプト革命(読み)えじぷとかくめい

共同通信ニュース用語解説 「エジプト革命」の解説

エジプト革命

自然発生的な民主化要求デモが、約30年間続いたムバラク政権を退陣に追い込んだ政治的事件。2011年1月、チュニジアを発端とする中東民主化運動「アラブの春」がエジプトに波及し、反政府デモが全土に拡大。ムバラク氏は国内外の支持を失い同2月11日に辞任した。12年の大統領選挙で世俗的な民主勢力は得票を伸ばせず、イスラム組織「ムスリム同胞団」が勝利。13年のクーデターを経て、14年6月に軍出身のシシ氏が大統領に就任し、強権体制を築いた。(カイロ共同)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「エジプト革命」の意味・わかりやすい解説

エジプト革命
えじぷとかくめい

1952年7月23日、ナギブナセルらを指導者とする「自由将校団」はクーデターによって権力を掌握、ムハンマド・アリー王朝を打倒した。この前後から十数年間にわたるエジプトにおける変革過程をエジプト革命という。エジプト民衆は19世紀末以来、王制とイギリスの軍事支配の下で、封建的大土地所有制と外国人特権のもたらす搾取と差別に苦しみ、王制打倒と英軍事支配からの脱却はエジプト近代史を貫く民族的課題だった。第二次世界大戦後すでにエジプトでは、イギリス・エジプト軍事同盟条約(1936年締結)廃止を要求する国民運動や、大地主層・外資系大企業と対決する農民・労働者の闘争が高まりつつあった。クーデターで王制を打倒し、エジプト共和制を樹立した自由将校団は、革命推進の中核として、エジプト人の民族的自立、民主主義回復の役割を担っていた。

 ナギブが指導する革命委員会は、旧憲法の廃止、農地改革令、政党解散令を通じて旧支配勢力を排除しつつ社会改革事業に着手した。だが革命政府は当初、自由将校団内部の対立や欧米の軍事的外圧を前に絶えず革命挫折(ざせつ)の危機に直面せざるをえなかった。革命政権下で唯一合法化された宗教的社会運動団体で広範な大衆結集力を有するムスリム同胞団は、革命委員会内部へ強力な影響力を及ぼし、革命の方向をめぐり委員会の内部対立が深まった。1954年2月ムスリム同胞団はナセル暗殺を企てたが失敗、同胞団は解体され、ナギブは失脚した。これを境にナセルが革命の最高責任者となり、革命は新段階を迎えた。

 ナセルは、第一次農地改革や産業振興に取り組む一方、英軍完全撤退実現にこぎつけ、また欧米の軍事的締め付けに対し社会主義圏への接近や非同盟諸国との連帯強化で対抗した。1956年6月英軍撤退完了に続いて、翌7月ナセルは、最大の外資系企業であるスエズ運河国有化を宣言、エジプトの完全な自主独立を打ち出した。おりから全アラブ世界では民族運動が激化してきており、そうした情勢下でイギリス、フランス、イスラエルは10月、エジプトへの軍事侵攻を企てた(第二次中東戦争)。だが、エジプト国民の結束した抵抗と全アラブやアジア・アフリカ諸国民のエジプト支援の前に3国の侵攻は失敗、エジプトは政治的に勝利して完全な自主独立を達成した。57年アイゼンハワー・ドクトリンで始まったアラブ世界への米軍事介入に対しても、58年のエジプト・シリア合併、イラク革命ヨルダン・レバノン民衆の米英軍事介入阻止、さらには62年のイエメン革命(旧北イエメン)が相次いで生起し、全アラブの民族運動が相互に結び付いて展開し始めた。ナセルはアラブ人民の一体性(アラブ民族主義)を重視しエジプト革命を全アラブ民族解放運動の中核に位置づけることによって、革命の前進を図った。

 だがエジプトは、1960年代に入り、「社会主義」化と裏腹の官僚主義による民衆疎外や、シリアとの合併失敗(1961)が示すようなアラブ世界での大国主義的傾向を強め始めた。北イエメン内戦長期化(1962~67)と67年第三次中東戦争でエジプトの政治的・経済的危機は頂点に達し、革命はエジプト経済開発主義へ変節し始めた。

[藤田 進]

『中岡三益著『現代エジプト論』(『アジアを見る眼56』所収・1979・アジア経済研究所)』『江口朴郎・岡倉古志郎・鈴木正四監修『第三世界を知る2 中東の世界』(1984・大月書店)』

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改訂新版 世界大百科事典 「エジプト革命」の意味・わかりやすい解説

エジプト革命 (エジプトかくめい)

ナーセルサーダート等の自由将校団を中心として1952年7月におきたエジプトの独立運動。エジプトはすでに1922年に独立国となっていたが,この独立は植民地宗主国イギリスにより形式的に付与されたものにほかならず,軍事・外交権の欠除はもちろん,国内でやっと確立された立憲君主制も,エジプト人とは関係のない従来どおりのアルバニア出身のムハンマド・アリー朝を追認したものでしかなかった。しかもエジプトでは地主・小作関係のうえに綿花モノカルチャー経済が支配し,国民大衆は飢餓線上にあったといってよい。こうした実質的な植民地支配の下で,民族解放運動は民族ブルジョアジーの政党であるワフド党や,イスラムによるアラブ復興を唱えるムスリム同胞団等によって展開されたが,それらは権力闘争や第2次大戦中におけるイギリス軍への協力,あるいはテロ活動等によって大衆の支持を失っていった。自由将校団はこうした民族解放運動の分裂の中にあって,軍内部でひそかに力をたくわえた。彼らは当初外国の支配の排除のみを志向し,大戦中には独立のためにドイツ軍と接触することを試みたりしたが,1948年のパレスティナ戦争(第1次中東戦争)に参加することによって国内の政治にも目を開き,植民地支配を許している王制や腐敗した議会政治を否定するにいたった。反英闘争の中でおきた52年のカイロ焼打ち事件をきっかけに,無政府状態になったエジプトでクーデタをおこし(7月23日),〈人民の心からほとばしり出て,人民の希望にこたえる革命〉(ナーセル《革命の哲学》)をもくろみ,7月26日国王ファルークを追放し,翌年6月18日に共和国成立を宣言した。もっとも,ナーセルは当初無名であったため,国民に人気のあるナギーブMuḥammad Najīb(1901-84)を指導者としたが,土地改革や従来と同様の議会制復帰問題で彼と対立し,そのためナギーブを排除してナーセルの政権が安定するのは54年からである。このクーデタはオスマン帝国支配以来外国人の支配下にあったエジプトの政治が,初めてエジプト人自身によって握られ,非同盟・中立政策や,スエズ運河国有化,社会主義諸国への接近等,自主的な外交政策が展開されるようになった点,および土地改革や重工業化等にみられるように国家が経済過程に積極的に介入しながら急速な経済発展がもくろまれるようになった点で,エジプトの真の独立の起点をなしているといえよう。
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百科事典マイペディア 「エジプト革命」の意味・わかりやすい解説

エジプト革命【エジプトかくめい】

近代エジプトにおける独立運動。第2次大戦後エジプトではワフド党ムスリム同胞団などにより,英軍撤退や完全独立を要求する民族運動が高まった。1952年ナーセルナギーブらの指導する自由将校団がクーデタにより国王ファールーク1世を国外に追放,1953年エジプト共和国樹立を宣言した。
→関連項目アフリカエジプトエジプト(地域)サーダート

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「エジプト革命」の解説

エジプト革命(エジプトかくめい)

第一次世界大戦後,エジプトに対するイギリスの植民地支配に反対する民族独立運動が激化し,1919~21年ザグルールらを指導者とするワフド党は独立要求の大衆闘争を展開した。22年立憲君主制のエジプト王国が成立し,不完全ながら独立を達成した。第二次世界大戦後もイギリス軍の撤退など完全独立を要求する民族運動が強まり,52年ナセルナギブらを指導者とする自由将校団がクーデタを行い,国王ファルーク1世を国外に追放,王制を廃し,共和制を宣言して,エジプト革命を完成した。革命直後に農地改革法を公布するなどして成果をあげ,中東諸国における民族独立闘争の先駆となった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「エジプト革命」の意味・わかりやすい解説

エジプト革命
エジプトかくめい
Egyptian Revolution

1952年7月 23日の未明 G.A.ナセル中佐の率いる自由将校団がクーデターを起して国王ファールーク1世を追放したのち,エジプトに起った一連の政治,経済,社会改革をさす。 53年6月には共和制を宣言して当時国民に人気のあった M.ナギーブ中将を初代大統領にかつぎ出した。しかし,土地改革問題やムスリム同胞団の処遇をめぐってナセルとナギーブが対立,54年 11月にはナギーブが追放されてナセルの地位が確立した。この革命により,オスマン帝国の支配以来外国人の支配下におかれてきたエジプトの政治は初めてエジプト人自身によって握られ,非同盟中立政策やスエズ運河国有化,アスワン・ハイダム建設決定,土地改革や社会主義的経済政策の導入へとつながり,アラブ世界全体にきわめて大きな影響を与えた。 (→エジプト独立運動 )

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旺文社世界史事典 三訂版 「エジプト革命」の解説

エジプト革命
エジプトかくめい
Egyptian Revolution

1952年7月,ナセル・ナギブらを指導者とする自由将校団がエジプトの国政刷新を目的に行った革命
パレスチナ戦争の敗北を機にクーデタを起こし,国王ファルーク1世を追放した。翌1953年共和政を宣言し,ナギブが初代大統領となったが,翌年ナセルがナギブを追放して政権を握り,土地改革,既成政党の廃止,反植民地・非同盟外交などをつぎつぎに展開した。

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世界大百科事典(旧版)内のエジプト革命の言及

【ナーセル】より

…48年ころからひそかに結成された自由将校団Ḍubbāṭ al‐Aḥrārの中心人物となり,パレスティナ戦争のなかで真の戦線は国内の革命にあることを知った。52年7月エジプト革命において自由将校団を率いて指導的役割を果たし,54年ナギーブ大統領失脚後,首相兼革命軍事会議議長となり(56年大統領就任),名実ともに革命指導の最高責任者となった。ナーセルは腐敗した王政を倒したが,大衆の参加による革命ではなく,前衛による革命の形をとらざるをえなかった。…

※「エジプト革命」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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