ナセル(読み)なせる(その他表記)Gamāl Abd al-Nāir

精選版 日本国語大辞典 「ナセル」の意味・読み・例文・類語

ナセル

  1. ( Gamâl Abdel Nasser ガムール=アブデル━ ) エジプト軍人政治家ナギブとともに一九五二年クーデターを成功させ、五六年大統領に就任。五八年シリアとの併合によるアラブ連合共和国の最高指導者となる。チトーネールと結び非同盟主義外交政策を推進。スエズ戦争を経て、アジア・アフリカ諸国の指導者的地位について活躍、国内の社会主義的建設に尽力した。(一九一八‐七〇

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ナセル」の意味・わかりやすい解説

ナセル
なせる
Gamāl Abd al-Nāir
(1918―1970)

エジプトの軍人、政治家。大統領(在任1956~1970)。アシュート州の小都市ベニ・メルの生まれ。父は郵便局員。1937年王立士官学校に入学し、翌1938年卒業。スーダンに配属されたのち、士官学校教官となる。1948年のパレスチナ戦争(第一次中東戦争)に参加するなかで、国内支配階層の腐敗を感じ取り、国内変革の必要性をますます強く意識した。同戦争敗北後、おもに陸軍の青年将校からなる秘密組織、自由将校団の結成にあたり、中心的な役割を果たした。この運動の中心をなすナセルら将校は、士官学校同期生として共通の経験と感情で結ばれていた。彼らは、1930年代にエジプトで台頭しつつあった急進的な民族主義的、国家主義的、イスラム的傾向をもつ青年エジプト協会やムスリム同胞団などの運動に影響を受けながら育った世代であった。1952年7月、自由将校団によるクーデターは政権打倒に成功。名目的な指導者として擁立したナギブ将軍との間で政治的に対立するが、軍部および国民動員組織である民族解放戦線の掌握によってナギブを排除し、自己の権力基盤を固めた。1956年の新憲法のもとで大統領に選出されたのち、同年7月、スエズ運河国有化を実施した。続いて勃発(ぼっぱつ)したスエズ戦争を切り抜け、一躍アラブ世界の英雄的な存在となった。さらに1958年には、エジプトはシリアとの併合によりアラブ連合共和国となり、ナセルのアラブ統一、アラブ民族主義運動は頂点に達した。だが、1961年9月シリアがアラブ連合から離脱したのち、国内の社会主義建設に力を注いだ。1962年、国民憲章を作成するとともに、その実施機関としてアラブ社会主義連合を創設した。しかし、旧北イエメンで勃発した内戦に際して、共和派に肩入れして武力介入を行った。これは5年以上にわたり泥沼化することになり、エジプト経済への大きな負担となった。1967年の第三次中東戦争では、イスラエルにわずか6日で敗退し、エジプトは自国領土の一部シナイ半島を占領され、ナセルは国の内外で威信を失墜させた。敗戦が課す政治・経済・社会的苦境のなかで、国内再建のためには、パレスチナ問題を軍事的にではなく、政治的、外交的に解決する方向を望むようになった。そして1970年6月、アメリカのロジャーズ国務長官による中東和平案の受諾に踏み切った。まもなくヨルダンで起こった正規軍パレスチナ・ゲリラとの衝突事件を収拾するため活動していたが、そのさなかの9月28日、疲労で倒れ急死した。

[伊能武次]

『ナセル著、西野照太郎訳『革命の哲学』(1971・角川書店)』『M・H・ヘイカル著、朝日新聞外報部訳『ナセル』(1972・朝日新聞社)』『P. J. VatikiotisNasser and His Generation (1978, Croom Helm, London)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ナセル」の意味・わかりやすい解説

ナセル
Nasser, Gamal Abd al-

[生]1918.1.15. アレクサンドリア
[没]1970.9.28. カイロ
エジプトの軍人,政治家。郵便局員の子として生れ,陸軍士官学校を卒業。 1940年代初期 (一説には末期) 以来,自由将校団を結成し,中心人物となった。パレスチナ戦争後,軍隊内部に自由将校団を再組織し,革命の準備に着手。 52年7月軍部クーデターを指導してファールーク国王追放に成功し,アラブ社会主義社会の建設を目指した反帝,反封建革命を推進。 53年 M.ナギーブの大統領兼首相就任に伴い,副首相兼内相。 54年2月初め首相となったが,同月末のナギーブの大統領復帰により3月から再び副首相。同 11月ナギーブを追放,首相となり,56年6月施行された新憲法のもとで,国民投票により大統領に選出された。同7月スエズ運河国有化を宣言。汎アラブ主義の第一の指導者としてアラブ諸国の統合を唱道,58年2月シリアとの合邦によるアラブ連合共和国 (1961.9.解体) の成立に伴い,同国大統領となった。 67年6月の六日戦争 (第3次中東戦争) 後敗北の責任をとって辞意を表明したがいれられず撤回,留任した。 70年9月ヨルダン内戦の調停に努力,同協定調印の直後死亡した。国際的にはチトー,J.ネルーらとともに非同盟グループの形成,発展に努め,67年 10月にはカイロで第2回非同盟諸国首脳会議を主宰した。著書,『革命の哲学』 The Philosophy of the Revolution (54) 。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ナセル」の解説

ナセル
Jamāl ‘Abd al-Nāṣir

1918~70

エジプトの軍人,政治家。士官学校卒業後,第1次中東戦争に従軍。反英,反体制運動に身を投じ,自由将校団を組織。1952年エジプト革命によって王制を打倒した。56年大統領に就任(在任1956~70)。アラブ・ナショナリズムを基軸とするその政治思想はナセル主義と呼ばれる。55年のバンドン会議(アジア・アフリカ会議)で第三世界のリーダーとして認知される。56年にはスエズ運河の国有化を断行。第2次中東戦争(スエズ戦争)の政治的勝利によってアラブ世界における威信を高め,58年シリアと合併してアラブ連合を結成した。しかし,61年シリアが離脱,67年には第3次中東戦争に敗北するなど,しだいにその指導力にもかげりがさし,70年ヨルダン内戦の調停中に急死した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ナセル」の解説

ナセル
Jamāl 'Abdel-Nāsir

1918〜70
エジプトの第2代大統領(在任1956〜70)
アレクサンドリアに生まれ,パレスチナ戦争(1948)に参加して勇名をはせた。エジプト政界の腐敗をいきどおり,青年将校を中心とした自由将校団をつくり,1952年ナギブをたてて軍事クーデタを起こし,国王ファルーク1世を追放した。しかしナギブと意見が一致せず,1954年彼を失脚させて56年大統領となった。国内での土地改革,スエズ運河国有化宣言(1956),シリアとの合邦によるアラブ連合共和国の結成(1961年,シリア離脱),アスワン−ハイダムの建設などの内政面のほか,アラブ連盟盟主として非同盟主義外交を展開し,アラブの団結と反イスラエル闘争を指導,1967年の第3次中東戦争でイスラエルに大敗したが,彼の地位はゆるがなかった。イスラエルの占領地居すわりに対決しながら,ヨルダン内戦の処理に奔走するなかで急死した。

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20世紀西洋人名事典 「ナセル」の解説

ナセル
Jamāl ‘Abd al Nāṣir


1918.1.15 - 1970.9.29
エジプトの政治家,軍人。
元・エジプト大統領。
ベニ・メル生まれ。
陸軍士官学校[’38年]卒,陸軍大学卒。
別名Gamal Abdul Nasser,Gamāl Abd al Nāṣir,Camel Abdel Nasser。
自由将校団の指導者として1952年クーデターを起こしエジプト革命を成功させ、最高指導者となる。’54年新憲法のもとで大統領。同年7月スエズ運河の国有化を実施。’58年シリアとの合邦によりアラブ連合が成立しアラブ連合大統領就任。’67年第三次中東戦争でイスラエルに敗退。その後ヨルダン内戦をめぐるPLOとヨルダン政府の関係回復に務めた。著書「革命の哲学」(’71年)。

出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報

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