日本大百科全書(ニッポニカ) 「イラク革命」の意味・わかりやすい解説
イラク革命
いらくかくめい
1958年7月14日イラクで起きた軍人クーデター。ハーシム王制を打倒し、共和制を樹立した。イラク革命の意義は、王制を打倒したことにより、イギリス軍事支配と封建的色彩の強い非民主主義的国家体制とを瓦解(がかい)させたことに求められよう。第一次世界大戦後の1922年にイギリスの委任統治国として、32年からはハーシム王国としてイラクは出発したが、一貫してイギリスの中東での軍事的・経済的拠点の役割を担ってきた。モスル、キルクーク、バスラの石油資源(アングロ・イラク石油会社の支配)と、インド・ルートの中間点であるペルシア湾のバスラ基地とは、イギリス中東支配の生命線であった。イラクの国境線画定にあたり、クルド人自治が犠牲とされ、またハーシム王朝自体がイギリスの画策で強引に持ち込まれたため、イラクの多数派であるイスラム教シーア派住民の意志も無視され、そのため独立時から抵抗が絶えなかった。王制は、王族と有力部族支配層の占める軍、議会(筆頭に親英政治家ヌーリー・アッサイード)を基盤に、非民主的体制を形づくり、対外的にはイギリスの権益を保障することにより体制の安定を求めてきた。また、欧米の軍事ブロックの一環として形成され、中東の民族運動抑圧を目ざしたバグダード条約(1955締結)の中心的役割を果たしていた。エジプト革命の影響の下で、民族運動の高揚がみられた中東諸国のなかで、イラクは反革命の拠点となっていたのである。
クーデターの成功によってイラクはバグダード条約を脱退、アラブ民族運動の一翼を担うことになった。クーデターの指導者カセム准将(首相)は社会改革を重視し、1958年9月土地改革に着手した。だが一方でカセム首相はクルド人の自決要求を軽視し、61年クルド人の反乱にみまわれた。さらに同年、独立を迎えたクウェートに対しその併合を企てるなど、民族主義的傾向をのぞかせた。またクーデター後まもなく、革命指導部内の対立も表面化した。アラブ統一の原則にたつバース党勢力がエジプト・イラク合併を唱えるのに対し、カセム政権は共産党勢力を支えに、アラブ内でのイラクの自主路線を崩さず、対立は権力闘争化した。
両者の抗争は63年、アレフらバース党勢力によるクーデターに発展、カセム首相の処刑、左翼勢力の大量粛清という事態になった。イラクの自決、民主主義の課題を担っていたイラク革命像は、この時点からバース党独裁色の強いイラク官僚国家の姿へと変貌(へんぼう)した。
[藤田 進]