エニセイ碑文
えにせいひぶん
南シベリアのエニセイ川上流および西北モンゴルで発見された古代トルコ語碑文。5~9世紀にこの地方に居住したキルギス民族の地方的支配者の墓碑(ごく少数は岩壁にも刻まれている)で、短文が多く、死者自身が自らの生前の功績を述べ、自分の死を悲しむという独特の形式をとっている。この形式は、死者(死霊)がシャーマンの口を通じて一人称で語る伝統に由来するものと思われる。突厥(とっけつ)文字で記されているが、オルホン碑文のそれと字体を異にするものがあるのは、主として地域的差異に基づくのであろう。現在100片以上みつかっているが、新しいものが続々発見されつつある。
[護 雅夫]
『護雅夫著『古代トルコ民族史研究Ⅰ』(1967・山川出版社)』
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エニセイ碑文
エニセイひぶん
Enisei inscriptions
南シベリア,エニセイ川上流域,北西モンゴル高原で発見されたルーン文字に似た突厥文字の碑文。現在約 70を数えるが,次々に新しく発見されつつある。大部分は,突厥の北方にいたキルギス民族の王侯たちの墓誌銘である。これと同じ文字で書かれたオルホン碑文が 1893年デンマークの V.トムセンにより解読された。最古のチュルク語資料。
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世界大百科事典(旧版)内のエニセイ碑文の言及
【キルギス族】より
…6世紀半ばごろ,突厥(とつくつ)第一帝国の3代木杆可汗の弟,地頭可汗に併合され,急速にトルコ化が進行したもようである。突厥文字を使っていわゆるエニセイ碑文を残したものもキルギス族であった([突厥碑文])。8世紀初め,彼らは突厥第二帝国の2代可汗黙綴によって討たれたが,この間の事情はキョル・テギンKöl Tegin碑文などの突厥碑文によってもqïrqïzの名と共に知られる。…
【突厥碑文】より
…突厥文字で刻まれた碑文はほかにも,ウイグル帝国時代のものや,エニセイ川上流で発見された小さな碑文群があるが,これらをも突厥碑文ということがある。エニセイ川の碑文は一般にはエニセイ碑文と呼ばれ,先のビルゲ・ハガン碑文などに与えられたオルホン碑文という別名と区別される。しかしエニセイ碑文の碑面の作成年代に関しては,これをオルホン碑文より古いとする説と新しいとする説の2通りがある。…
※「エニセイ碑文」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」