翻訳|Cuzco
南アメリカ中西部、ペルー中南部の都市。クスコ州の州都。ウルバンバ川の上流、アンデス山脈の標高3399メートルの高原盆地に位置する。人口27万8590(1998)、44万8124(2018推計)。かつてのインカ帝国の首都で、インカ帝国時代の遺跡が各所にみられ、ペルー最大の観光都市である。市街地は1983年に世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。また、南部ペルー山岳地帯の商業中心地で、盆地内で栽培される農・畜産物の集散地となっている。住民の大部分は先住民(ケチュア人)で、手工業的な綿・毛織物や皮革加工品が生産される。市街はインカ時代の建物の土台の上にスペイン風の建物を建てたもので、インカ風とスペイン風の折衷された建築様式である。曲がりくねった石畳の街路と赤みを帯びた淡い褐色の瓦(かわら)屋根、白や黄や桃色の漆食(しっくい)壁の家、がっちりと積まれた石壁の家など趣(おもむき)のある町並みが続く。インカ帝国の太陽神殿跡に建てられたドミニコ会修道院など、30近いカトリック寺院、礼拝堂、修道院がある。毎年6月24日のインカの祭典「インティライミ(太陽の祭り)」には、世界各地から多くの観光客が訪れる。交通は主としてリマからの空路が利用される。
[山本正三]
伝説によれば、古い時代、クスコ盆地にはサワセラ、アンタサヤ、グァヤなどの先住民族が住んでいたが、13世紀ごろインカ人がここに侵入して太陽神殿を築いたという。インカ人は、一説によればティティカカ湖から、一説によればクスコ南東のパカリ・タンプの洞窟(どうくつ)から出現し、その長であるマンコ・カパックが、女きょうだいのママ・オクヨを妃としてクスコに王朝を開いたとされているが、この初代の王から始まって、第8代のビラコチャ・インカまではすべて伝説上の人物であり、その時代のクスコについて、はっきりしたことはわからない。第9代パチャクティは、諸史料を総合して、実在したと確定できる最初のインカ(王)であり、彼のもとで、1430年代ごろからインカによる征服と拡大が始まり、それとともにクスコにおける太陽神殿の改築が始まって、市街整備や宮殿の新築が行われたと伝えられる。クスコ市都市計画の中心は、現在のアルマス広場の位置にあったワカイ・パタ、クシ・パタの二つの広場であった。インカの王は、死亡後もミイラとして保存され、生前の従者、臣下はすべて生者であるかのようにミイラに仕えたため、新しい王は、自らの家臣団と新宮殿をつくらねばならなかった。現在、アルマス広場の周りにある大部分の建物の基底部は、インカ時代の石壁をそのまま残しており、そのそれぞれがどの王のものか、16世紀記録者の証言に基づいていちおう比定されている。もっとも保存状態がよいのは、太陽神殿の石壁を基礎として建てられたドミニコ会修道院に向かってアルマス広場から通じているロレート通りの左右の石壁であり、修道院に向かって左が太陽の処女の宮殿、右が第11代インカ、ワイナ・カパックの宮殿のものとされている。ドミニコ会修道院の外壁の一部は、太陽神殿の湾曲した石壁を保存し、内部には付属小神殿の一部が残存する。
ワカイ・パタの北の斜面にはマンコ・カパックの居城と称せられるコルカンパタ城の前面が残っており、さらにその上の丘の頂上には、巨石を組み合わせてつくられたサクサワマン砦(とりで)の遺跡がある。クスコ市の郊外には、このほか、ケンコ、タンプマチャイ、プカプカラなどのインカ期の遺跡が多く、また北方のウルバンバ川渓谷に沿って、ピサク、ユカイ、ウルバンバ、オリャンタイタンボなどの遺跡が並び、その奥の深い谷間には、マチュ・ピチュをはじめとして、スペイン征服以後インカの逃亡者たちが拠(よ)った集落や神殿の遺跡がある。また、旧インカ道に沿って、リマタンボ(タラワシ)、パウカルタンボなどに関所跡の遺構があるほか、クスコ南東のサン・ペドロ・デ・カチャには、アドベれんがと石でつくった創造神ビラコチャの神殿が残っている。
以上のインカ期の建物の基礎を利用してつくられたクスコのスペイン植民地時代初期の宗教建築としては、上記ドミニコ会のそれのほかに、カテドラル教会、イエズス会、フランシスコ会、ラ・メルセ会の修道院など、植民地バロック様式の代表的な作品が多い。
[増田義郎]
ペルー南部の同名県の県都。人口30万5039(2003)。アンデスの東山脈と中央山脈の間を北流するビルカノータ川のつくる谷にあり,標高3500m。インカ帝国の首都であった所で,現在は,観光都市としても著名。インカ帝国は1533年F.ピサロによって征服されたが,新しい市街は,この古いインカの都市の上に建設されている。かつては,市街は石壁で取り巻かれていたが,現在もその一部が残り,街路は狭く,インカ時代の石畳の道や石壁,アーチがいたるところに見られる。スペイン植民地時代の建築物は,アルマス広場を中心に,サン・クリストバル教会,サント・ドミンゴ修道院など数多い。この町はまた,ペルー南部の商業の中心地であり,付近の羊毛,皮革,アマゾン流域のカカオ,ゴムなどの集散地である。市内には毛織物,綿織物,皮革製品,セッケン,ビール,清涼飲料,鋳物などの工業がみられる。また1672年建設のサン・マルコス大学がある。クスコからチチカカ湖畔のプーノを経て,アレキパに鉄道が通じるほか,道路はアンデス山脈中を北上して,ラ・オロヤに至り,そこから首都リマに通じている。またリマ~クスコ間には定期航空路もある。
執筆者:田嶋 久
インカ帝国の首都クスコは,行政センターとして機能を果たす神殿,宮殿,貴族の館などの建物が広場,街路によって整然と配置され,排水施設も完備していた。市街地は南東に開く狭い谷の谷頭に位置する。征服当時描かれた絵図には丘陵裾部に初代の王マンコ・カパクの宮殿が描かれ,その南に一段低く展開する町並みは東・西・南3方に城壁をめぐらし,各辺の隅と中央に楼門を置いている。約1km2にわたる市街地の描写は粗く,不正確であるが,ほぼ中央,現在のアルマス広場あたりにワカイ・パタ(喜びの広場)がある。南門近くには,特有の弧状の石壁をもち金銀財宝で飾られたと伝えられるコリカンチャ(太陽の神殿)があって,インカ式石積みの石壁で有名なロレート通りがそれらを結んでいる。広場の東にはビラコチャ・インカの宮殿が,そして東門に通ずるワトゥンルミヨックに12角で接する切石で有名な石壁がある。市街を望む背後の丘陵上にはサクサイワマンの砦があり,鋸歯状の21の突起があり出入口をもつ石壁が,北に面して3段のひな壇状に約300mにわたって続く。それには重さ200tを超える石灰岩の巨石が組み込まれている。段上には三重円の石壁で築かれたムユク・マルカの塔と呼ばれる特殊な建物跡があり,市の北辺を堅く守る。やや東に離れて,高さ6mの尖頭状の巨石とそれを囲む半円形の座席状の石壁をもつ聖域ケンコ遺跡が,またウルバンバ谷に通ずる東への道約7kmにはインカの水浴場タンボマチャイ遺跡がある。
→インカ文明
執筆者:松沢 亜生
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ペルー南部高地の海抜3400mの盆地にある都市。インカ文明の発祥地であり,インカ(タワンティンスーユ)帝国の首都であった。計画都市的な性格が強く,中心部に当時の整然とした遺構が多数残っている。スペイン植民地時代には南部高地の統治の中心拠点であり,トゥパック・アマル2世の反乱後の1787年には,アウディエンシアが設けられた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…ペルー南部高原にあるクスコを宇宙の中心とさだめ,15世紀から16世紀初めにかけて,アンデス一帯に大帝国をうちたてた南アメリカのインディオの創造した高文明。最大の版図は,北はコロンビア南部パストのアンカスマユ川から,南はチリ中部マウレ川に至る全長4000kmに及ぶ海岸地帯と高原,内陸部は東をアマゾン熱帯密林に接し,ボリビア,北部アルゼンチンを含む約300万km2にも及ぶ。…
…新約聖書《ルカによる福音書》2章にシリア総督クレニオが行った最初の人口調査の話があるが,これはシリア州の一地方ユダヤが大地のへそなので,ここから調査をすることになったのである。また,インカの首都クスコの名は〈世界のへそ〉という意で,インカ族はみずからの住むこの地を中心と思っていた。 プラトンは《饗宴(シュンポシオン)》の中で,人間にはもと男女,男男,女女の3種があって,それぞれ2体が合体した姿だったが,ゼウスの命を受けたアポロンが1体ずつに切り離した。…
※「クスコ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
働き手が自分の働きたい時間に合わせて短時間・単発の仕事に就くこと。「スポットワーク」とも呼ばれる。単発の仕事を請け負う働き方「ギグワーク」のうち、雇用契約を結んで働く形態を指す場合が多い。働き手と企...
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