羊毛その他の獣毛を原料とする織物。動物の体毛のうち空洞のないものをヘアhair,空洞のある柔らかいものをウールwoolと呼び,羊毛を主体とするウールを糸として織ったものをいう。毛糸には梳毛糸(そもうし)(長さが平均して5cm以上の良質羊毛から短い繊維を取り除き,平行にそろえてひきのばし,撚りをかけて表面をなめらかにしたもの)と紡毛糸(ぼうもうし)(短い羊毛や梳毛の工程ですき落とされたノイルと称する短いくず毛などを混ぜ合わせたもの)があり,それぞれ織られたものを梳毛織物(ウーステッドworsted),紡毛織物(ウールンwoolen)と呼ぶ。梳毛織物は表面がなめらかで光沢があり,組織がはっきりと見えて薄手のものが多い。サージ,ギャバジン,ウールジョーゼットなどがこれにあたる。紡毛織物は,光沢がなく起毛するため表面が毛羽立ち,組織の見えないものが多く地厚で,ウールブロードクロス,メルトン,フラノ,フランネル,ツイード,サクソニーなどがある。
→羊毛
軽くて暖かく吸湿性のある毛織物は,綿,絹,麻織物などとならんで衣料その他に古くから用いられてきた。古代にあっては農耕民族は麻類を,遊牧民族は獣毛を紡織し,あるいは縮充させフェルトとして用いた。古代エジプト人は亜麻を清浄,毛織物を不浄とした。古来西南アジアでは優良な細羊毛を産し,シリア砂漠の古代都市パルミラなどから,単純な意匠を施した細羊毛の織物が発見されている。また,南シベリアのパジリク古墳群からは,西アジア産の綴織(つづれおり)のカーペットおよびもうせん(毛氈)(紀元前5~前4世紀)が出土している。ギリシアの詩人ホメロスは羊皮や羊毛の紡織をうたい,ギリシア彫刻によると羊を飼っていたことがわかる。かつてギリシアの植民地であった黒海北東岸の遺跡から前4~前3世紀の綴錦(つづれにしき)が出土している。それは鴨文あるいは草花文を横にならべた織文である。またギリシアの陶画中に機織を描いたものがあり,模様や機構から綴錦を織る機であることがわかる。ギリシアのキトンやペプロス,ローマのトガ,トゥニカなども毛織物だったし,北ヨーロッパの青銅器時代前期の遺跡からも男女の衣服が出土している。エジプトのコプト裂(きれ)中の2~4世紀のグレコ・ロマン時代の死衣には写実性に富む雄麗な人物像や動植物が織られており,これによってギリシアやローマの工芸織物がうかがえる。コプト裂中にはササン朝末期の錦とともに,細羊毛糸の錦がまれに含まれているが,この織技は中国で創始され,イスラム教徒の勢力下にあったシチリアからイタリアの諸都市に伝わった。紋織物はそれ以来,綴錦,ししゅうなどの法とともに,ヨーロッパ工芸織物の主流となった。スペインを征服したムーア人がメリノ種を移殖するまでは,ヨーロッパの毛織物は厚地であった。
東洋においては,中央アジア,トルクメニスタンのアナウの第1文化層から,羊の骨とともに紡錘車が出土して,前3500-前3000年ころに羊毛を紡ぎ,織っていたことが認められている。また中国では青海省都蘭県の新石器時代の遺跡から毛織物が出土している。モンゴルのノイン・ウラから前1世紀ころの粗毛と細毛の綴織が出土したが,ししゅうが施され,また草花文を織った綴錦も出ている。4世紀の半ばころ以前に廃址となった楼蘭からも細羊毛製の綴錦が出ている。ことに立毛の緞通(だんつう)の断片,ギリシア的容姿をした人物像の綴錦の断片などは,M.A.スタインによって発見された特色ある遺物である。これらの綴錦および無文の綴織などは,中央アジアのタリム砂漠の南路に沿うダンダン・ウィリクから出土した蚕種伝説図に描かれている織機で織ったらしく,その機型は水平枠型機で綴錦を織るに適している。後漢時代のものとしては,新疆民豊県出土の毛織錦,じゅうたん(添毛のカーペット)が残る。これらの毛織物は中国の古書に種々の名称で呼ばれ,南北朝,唐代の出土例は豊富にある。正倉院には唐や新羅(しらぎ)産と思われる有文の花氈(かせん),無文の色氈が蔵されている。唐では立毛の緞通をも珍重していたらしい。北方草原地帯から起こった遼,金,元の諸族は羊毛製の氈罽(せんけい)に深い愛着を示し,《大元氈罽工物記》,明の宋応星の《天工開物》などに詳記してある。
執筆者:太田 英蔵+小笠原 小枝
古代およびそれ以前の毛織物の断片がイギリスやラインラントで発見されており,毛織物は家庭で自家消費用に古くから生産されていた。またイギリスでは紀元後2,3世紀に毛織物を大陸へ輸出しており,8世紀にも商品生産化のようすを知ることができる。しかし,毛織物工業が重要な産業として登場するのは中世の北イタリアとフランドル地方においてである。これらの地域の毛織物工業は都市工業として発達し,北イタリアではフィレンツェがその中心であった。ここではアルテarteと呼ばれるギルドが組織され,羊毛をイギリスから輸入して高級毛織物を生産し,ベネチアの商人を通じて東地中海方面へ輸出された。フィレンツェの毛織物工業は13世紀末から14世紀初頭に最盛期に達したが,外国毛織物工業との競争,東方市場の混乱によって衰退していった。一方,フランドルではブリュージュが中心で,イギリス羊毛を輸入して毛織物を生産し,中・東欧へ輸出して13,14世紀に繁栄した。しかしイギリス産の安い未仕上織物が輸入されはじめるとブリュージュも衰え,アントワープがその仕上業と貿易の中心となり15,16世紀に栄えた。
近世には,毛織物工業は各国の盛衰を決定する重要産業となった。スペイン,オランダ,フランス等の国で興隆したが,結局イギリス毛織物工業が他を圧し,産業革命を成し遂げるのである。イギリスは中世には後進的で原料の羊毛輸出国であったが,14世紀中ごろから毛織物の製造を伸ばし,15世紀後半には毛織物輸出国となった。この国の毛織物工業は農村工業としての性格が強く,15,16世紀にはロンドンを除く多くの都市の衰退を引き起こした。このような農村工業の展開が,イギリス毛織物工業の自由な発展と安価なコストの基礎となり,他国のそれを圧倒する重要な要因となった。実際,オランダは17世紀にライデンなどの都市毛織物工業が繁栄したが,結局イギリスとの競争に敗れて没落し,フランスもイギリスには及ばなかったのである。しかし農村工業は紡糸・織布業を基本としていたため,イギリスでも仕上業はいくつかの都市に依存し,輸出もロンドンを通じて行わざるをえなかった。イギリスの毛織物工業は,西部,東部,北部(ヨークシャー)の三大中心地をもっていた。このうちまず西部では織元の大規模な問屋制支配がみられ,17世紀前半まで未仕上織の生産地帯として中心的位置を占めた。東部は新種の薄手の毛織物(ウーステッド)の生産地帯として17世紀に発展し,ノリッジ市と周辺農村にマニュファクチュアや問屋制度をくりひろげた。北部は小生産者が多かったが,18世紀に入って急速に発展した。産業革命は18世紀末よりこの北部=ヨークシャーで始まり,19世紀にはリーズなどの新興工業都市で工場制度による毛織物の大量生産が行われたのである。
執筆者:坂巻 清
中世末期まで日本人にとって羊は空想の動物であり,毛皮は日本において武具などを除いて一般衣服にはあまり用いられなかった。しかし16世紀半ば以降,南蛮船によってもたらされた羊毛の布地(毛織物)に触れた日本人は,それが羊毛だという意識をいっさいもたずに,ただ従来の衣料の素材にはない優れた質感や特性を知って,毛織物に深い憧憬の念を抱くようになった(以来,明治大正に至っても,羊の毛でつくられた毛織物という認識は一般にはまったくなかった)。初めて日本にもたらされたヨーロッパ産の毛織物は,1555年(弘治1)に来航したポルトガル政府官許の貿易船が舶載したラシャ(羅紗)であるが,その後もラシャやその中の最高級品〈猩々緋(しようじようひ)〉などが,以後日本との貿易を円滑にするために藩主たちへ献上されつづけた。たとえばゴア総督の使節は,徳川家康に金糸でししゅうした〈羅紗十端〉を献上している。なかでも〈猩々緋〉(猩々皮とも書く)は〈羅紗ノ中デ其ノ絳色(もみいろ)ノモノ〉(《和漢三才図会》)をいい,毛織物のなかで最上級のものとされた。目のさめるようにあざやかな濃い緋色のもうせんであった。織田信長や豊臣秀吉はこれを猩々羽織(陣羽織)にして愛用し,その高価さと稀少価値から,これを自分の権威の象徴とした。淀屋という商人が買い占めた〈猩々皮二千反〉をはじめとする毛織物が幕府に没収された,という例もある。
鎖国後もオランダの船はラシャなどを持ち込んでいたが,陣羽織から変形したラシャの羽織は,ラシャの合羽とともに上級武家の専用するところとなって江戸中期まで広く使われた。一般人の着用はたびたびの禁令で禁止されていたにもかかわらず,富裕町人や中級武士などはラシャの合羽や羽織を着用しつづけた。ラシャのほかに,江戸中期ごろから,〈コローン・ラッセン〉という,ラシャより地合薄く少し荒い布地がオランダから相当量輸入され,日本人はこれをラセイタ(羅世板)と称して,ぜいたくな合羽や羽織の素材として(色は赤,黒,緑,青)明治中期まで一般に広く愛用した。またこれらとならんで,グロフ・グレインgrof-greinという粗く粗末な羊毛布地が,前2者よりはるかに安価に大量に輸入され,日本語ではゴロフクレンまたはゴロフクリン(呉絽服連,呉羅服綸,呉絽福林)と称され,とくに幕末・維新前後には毛織物の8割にも及ぶ膨大な輸入量に達し,明治30年ころまで羽織,合羽,帯地,打掛,袋物などの素材として庶民一般に広く愛用された。《好色一代男》では,金にあかして服飾に凝った世之介を描写して〈羽織は呉絽服連〉とその贅(ぜい)を形容している。やがてゴロフクレンは,粗い布地で黒いものを〈黒ゴロ〉と呼んで主として関東で使われ,明るい染色のものは〈色フク〉とか〈フクリン〉と称して主として関西で愛用された。フクリンは一段と優れたという形容にも使われ,〈傾城にふくりんかけた御奉公〉(《柳多留》)などの川柳も生まれた。
幕末から明治前期にかけて,薄地でしなやかで精緻なうえにきわめて安価な平織羊毛布地のモスリンがラシャの2倍以上も輸入され,これを唐縮緬(とうちりめん)と呼んで着物や帯や袴(はかま)の布地として広く愛用された。関西や業界では古くからモスリンと呼んでいたが,明治30年代から関東ではメリンスと呼んだ。明治前期,国内で無地のモスリン地に友禅染を施す技術が開発され,1896年(明治29)ごろからは原毛だけを輸入して国産モスリンの生産が飛躍的に増大した。
執筆者:山根 章弘
明治初期には,軍服や警察・官庁の制服など官需の高まりによって毛織物の輸入は巨額になり,日本の輸入総額の20%程度を占めていた。そこで政府は外貨の節減をはかるため,勧業寮の井上省三をドイツに派遣して生産技術を学ばせ,1879年から官営(内務省勧農局所管)千住製絨(せいじゆう)所の操業を開始し,井上が所長に就任した。千住製絨所は88年陸軍省直轄となるまで,その技術を一般に公開し,民間企業の勃興を促し続けた(同製絨所はその後陸軍製絨厰南千住工場となり,第2次大戦後の1945年大和毛織に払下げ前提で貸与され,48年払い下げられた)。その後,日清・日露の両戦争による軍需の急増もあって,大阪毛織,日本毛織,毛斯倫紡織,東京モスリン紡織(のちの大東紡織)といった民間毛織物企業の創立が相次いだ。こうして1900年代の初めには,羊毛輸入関税の引下げや毛織物輸入関税の引上げなどにも助けられ,日本の毛織物工業はいちおう軌道にのった。しかし当時の毛織物工業は軍服を主体とする紡毛織布しか生産しておらず,その技術も幼稚であった。日露戦争後は友禅加工技術の向上によって和服用モスリン(メリンス)の需要が激増し,東洋モスリンをはじめ多くのモスリン企業が新設された。これら企業の新工場では力織機の普及が進んで国内のモスリン生産は著しく増加し,第1次大戦(1914-18)直前には輸入モスリンを駆逐するほどになった。モスリンの流行によって和服用セル(セルジス)の需要も高まり,愛知県の尾西地方でセル生産が盛んになった(〈尾西織物〉の項参照)。ついで第1次大戦中はヨーロッパからの毛織物輸入が途絶えたうえ,ロシアからの軍需用服地の大量注文もあって,毛織物工業はいっそう発展した。ところが大戦の終息とともに反動的不況に陥り,企業の整理や集中が進められ,1920年にはカルテル組織である日本羊毛工業会が設立されるまでになった。
昭和に入ると毛織物工業の需要構造が一変した。これは,1923年の関東大震災を契機に大衆の衣料慣習が和服から洋服へと転換したため,毛織物工業の需要も和服用モスリン・セルから洋服地へと代わったことによる。洋服地の生産拡大ペースは速く,32年に輸出が始まり,37年には日本はイギリス,ドイツ,イタリアに次いで世界第4位の毛織物輸出国となった。こうした洋服地の生産を支えたのは尾西地方の中小毛織物企業である。尾西地方の毛織物生産額は,大東紡織,日本毛織,栗原紡織(のちの大同毛織)といった大手企業の工場進出もあって,第2次大戦前には国内毛織物生産額の60%前後を占めていた。第2次大戦によって,日本の毛織物工業は壊滅的な打撃を受けたが,戦後はいちはやく立ち直り,生産額では1957年,輸出額では60年に戦前のピークを超えた。しかし70年代に入ると自主規制等によって輸出にブレーキがかかり,70年代後半からは他の織物工業と同様,不況期に突入した。化繊や合繊に押されて毛織物のシェアが低下しているため(繊維生産に占める毛糸の比率は1970年9%,81年6%),不況は長引いている。なお,毛糸生産コストの6割近くを占める原毛は全量を輸入に頼り,うち9割がオーストラリアからである。オーストラリア原毛価格は農民保護のためAWC(オーストラリア羊毛公社)があらかじめ定めた価格帯以下では買い介入することがあるため,その価格は下方硬直的である。
執筆者:網干 清一
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おもにメンヨウからとった羊毛からつくられた毛織物をさすが、ほかにラクダ科の動物の毛、ウサギの毛、トナカイの毛などの獣毛類や、あるいはそれらの毛を混紡または交織した織物をも含めた総称として使われる。
毛織物は、繊維の種類によって大きく梳毛(そもう)織物と紡毛(ぼうもう)織物に分けられ、原糸の種類、紡績の方法、仕上げ加工(整理)などによって、細分化され、名称がつけられている。また、梳毛・紡毛の区別なく、用途によって服地、オーバー地、芯地(しんじ)、ズボン地などと分けることもある。
梳毛織物と紡毛織物では、それぞれの構成糸によって製造工程が異なっている。織布工程では大差がないが、仕上げ工程(整理)では紡毛織物に縮絨(しゅくじゅう)・起毛が施される。縮絨はせっけん液に織物を押し付けて織物を縮ませ、組織を緻密(ちみつ)にし、幅をそろえ、厚地にする作業で、起毛は、織物の表面の毛羽をかきたて、布面を柔らかくするものである。したがって、織物の組織は起毛によって隠れ、毛織物独特の柔らかな風合いを醸し出すことができる。この起毛には加工方法によって、メルトン仕上げ、ビーバー仕上げ、ナップ仕上げなどがある。
代表的な毛織物としては、梳毛織物に、サージ、ポーラ、ギャバジン、モスリン、セル、トロピカルなどがあり、紡毛織物には、メルトン、フランネル、ドスキン、ベロア、ツイードなどがある。この織物の寸法は、とくに一般の洋服生地では、普通145~147センチメートル幅で、これをダブル幅といい、この半分の幅のものをシングル幅といっている。長さは梳毛織物では50ヤード(45.7メートル)、紡毛織物では30ヤード(27.5メートル)であったが、最近では50メートルまたは30メートルに変わりつつある。
毛織物の特性としては、伸縮性があり、弾性に富んでいることと、吸湿性があること、染色性がよいこと、などの特徴をもっている。しかし欠点として、ときにより洗濯によって縮むことがあり、また害虫によって冒されやすいので、防縮加工(ロンドン・シュランク)や防虫加工が施されるなど、欠点が解消されつつある。そして織物の品質は、日本産業規格(JIS(ジス))の「織物及び編物の生地試験方法」(JIS L1096)などにより規定され、保証されている。
毛織物は遊牧民族のメンヨウ飼育と関連し、家畜動物の毛皮使用から織物生産へと発展した。生産はメソポタミア地方から各地へ拡大されたが、西欧では、中世にはフランドル地方および、フィレンツェが著名であり、やがて戦争のため、フランドル地方から移住した織匠たちによって、イギリスに毛織物工業確立の基礎がつくられた。
日本では、原料のメンヨウが気候上から飼育が困難であるため、ほとんどが輸入でまかなわれた。初めて毛織物がもたらされたのは239年のことで、魏(ぎ)の明帝から倭(わ)の女王に絳地縐粟罽(こうじしゅうぞくけい)10張を賜与されたことが、『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』にみえている。
奈良時代には、中国から多くの織氈(おりかも)が輸入され、正倉院にも一部所蔵されているが、このような輸入に刺激され、下野(しもつけ)国(栃木県)で国産されたとする説もある。
近世初頭から南蛮貿易によってトロメン(兜羅綿)、ラセイタ(羅背板)、羅紗(らしゃ)、ゴロ(呉呂)などがもたらされ、武将の陣羽織や火事装束などに使われた。このような情勢から、近世から明治初期にかけて、毛織物製造を原毛の段階から行おうとする試みがなされたが、いずれも成功しなかった。近代羊毛工業は、輸入毛織物の増加と、陸海軍の制服地として、羅紗、セルが必要になり、1879年(明治12)東京の千住(せんじゅ)に官営千住製絨所(せいじゅうしょ)が設立された。これはすべて軍需用にあてられたので、別に民需用としての生産は、1887年ごろから東京毛糸紡績会社などの設立によって開始された。
日露戦争の結果、軍需の台頭や、羊毛輸入税の撤廃などもあって、新設工場が続々と各地につくられ、近代的産業として、羊毛工業が確立していった。第一次世界大戦中には、毛織物輸入の途絶、戦争景気に伴う消費の増加からさらに発展を遂げ、昭和初期の不況期には過剰生産となって現れた。第二次世界大戦中には原毛の輸入が絶え、生産も縮小せざるをえなかったが、戦後には復興が順調に進み、早くも1952年(昭和27)には毛糸生産が戦前の水準に達し、1959年には戦前最高の織物生産高を超えるに至った。しかし一方、発展を遂げつつあった合成繊維との間に繊維間競合を引き起こした。そのため生産は減少傾向にある。
生産は、原毛を主としてオーストラリアやニュージーランドなどから輸入しているが、輸入量は年間約2250万キログラム(2005、中間製品の羊毛トップを含む)に達し、これにより国内生産が行われている。国内における原毛生産はごくわずかである。毛織物の生産は年間約7082万平方メートル、そのうち梳毛織物の生産は約6180万平方メートル(いずれも2006年)に達している。
織物生産地は、発展の経過からみて、地域的に集中化の傾向があった。明治後期にモスリン製造から始まった愛知県一宮(いちのみや)市を中心とする尾西(びさい)地方が主要な毛織物生産地帯を形成しており、また大阪府泉大津(いずみおおつ)を中心として毛布が生産されている。それに加えて、従来の絹織物生産地において、ウール和服地を生産するようになった。
用途としては、ヨーロッパでは、綿織物が安価で大衆的衣料として供給されるようになるまでは、ほとんどの衣料が毛織物であったが、やがて、毛・綿・麻などの繊維種類によって衣料分野を分担することになった。ところが合成繊維の発達によって、毛織物の分野は蚕食され、毛織物は不要とされるようにみえたが、天然繊維本来の特性が認められ、衣料としての根強い利用がなされている。また、毛布、カーペットとしても用途が広い。
[角山幸洋]
『政治経済研究所編『日本羊毛工業史』(1960・東洋経済新報社)』▽『山根章弘著『羊毛文化物語』(1979・講談社)』
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…風通(ふうつう)などがこれである。また二重織の変化したものに,地組織の経糸,緯糸とは別の経または緯糸をいっしょに織り込んだ織物で,添毛織物あるいはパイル織といわれるものがある。別糸で輪奈(わな)を作ったり,製織後その別糸の表面にナイフを入れてけばだたせたタオルやべっちん,ビロードなどがこれである。…
…織物の製造に従事する職人。用いる材料によって,また織り方によって職種や職人のあり方は歴史的地域的に多様であり,〈織物〉〈絹織物〉〈毛織物〉〈綿織物〉などの項目も参照されたい。また日本の古代・中世の高級織物の織成に従事した〈織手(おりて)〉については別に独立項目がある。…
…44年(弘化1)には中島郡・海部郡42ヵ村368戸で1429桁の織機があり,問屋職・問屋仲買職・織屋職・賃稼などに至る広範な分業に支えられ,織屋のなかにはマニュファクチュアとみられる生産形態をもつものもあった。 明治末年からの毛織物業への転換は大正期に入って本格化し,第1次大戦後の1921年には転換を完了し,23年の毛織物生産額は2645万3000円で,この地方の総生産額の7割を示すに至り,日本最大の毛織物生産地帯となった。1912年ごろから力織機の導入が始まり,20年の中島郡における使用比率は51.2%,24年には90%台を示し,また大正期の着尺セル生産は28年から洋服用セルへと転換していった。…
…こうして,フランドル伯は同時にフランス国王とドイツ国王との封臣であり,イングランドとも羊毛の輸入を軸として緊密な関係を結び,ヨーロッパ政治において独特な地位を確保していた。 中世におけるフランドル伯領発展の最大の基礎は,ヨーロッパ随一の毛織物工業と都市の発展である。紀元1000年前後から,開墾が進み農業生産が拡充するに応じ,また伯の主導によって定期市設置や都市建設が進められ,多数の都市が形成された。…
…しかし西ヨーロッパが開拓した北アフリカ市場は出超であり,西スーダンの金がヨーロッパに流入した。13,14世紀になると,西側はフランドル産およびイタリア産の毛織物という強力な輸出商品を開拓し,レバント貿易の基本的形態が成立した。その結果,レバント貿易の数量はかつてないほどの水準に到達した。…
※「毛織物」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
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