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クレタ島 クレタとうCrete

翻訳|Crete

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

クレタ島
クレタとう
Crete

現代ギリシア語ではクリティ Kríti,古代ギリシア語ではクレテ Krētē,クレタはラテン語に由来する言い方,Creteは英語。ギリシア,エーゲ海最大の島。ペロポニソス半島南東端の南約 100kmの地点から東へ約 250kmにわたり細長く延び,地中海からエーゲ海を分ける。中心都市イラクリオンハニア。大部分が山地で,最高峰は中部のイディ山 (2456m) 。北西部のハニア,南部のメサラなどにわずかに平野が開ける。地中海性気候で,冬でも本土に比べて温暖。年降水量約 500mmで,特に夏は乾燥する。前三千年紀末以降この島を中心にクレタ (ミノア) 文明と呼ばれる高度の青銅器文化が発達,前二千年紀中頃までにはキクラデス諸島,ギリシア本土に伝播。クノッソス宮殿をはじめとするこの文明に属する多数の建築物や,フレスコ画,彫像,金細工などが現在発掘されており,その文化水準の高さをうかがうことができる。古典期には政治,経済の中心は本土に移ったが,美術,交易などで繁栄。前 67年ローマ領。4~12世紀ビザンチン帝国に属したが,しばしばアラブ人に占領された。 13世紀以降 17世紀なかばまでベネチア領。その後オスマン帝国領となったが,その支配に対して 1821年,66年,78年反乱が起き,97年内乱を経て列強の介入により自治を与えられ,1913年クレタ出身のギリシア首相ベニゼロスの政権下でギリシアに合体。現在,主産業は農業で,オリーブ,ブドウ,柑橘類,イナゴマメなどを本土に移出,自給用の穀類,野菜なども栽培される。主要工業は食品,建設資材で,ほかに陶器,繊維,石鹸などが製造されるが,いずれも小規模。島内にはクノッソスのほかフェストス,マリア,アイアトリアダなどの遺跡があり,近年観光業が急速に発展。面積 8259km2。人口 53万 6980 (1991推計) 。

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デジタル大辞泉の解説

クレタ‐とう〔‐タウ〕【クレタ島】

Kriti/〈英〉Creta》エーゲ海南部の島。ギリシャ最大の島で、オリーブ・ぶどうなどを栽培。エーゲ文明中心地クリート島

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

クレタ島
くれたとう
Krti

地中海東部、エーゲ海の南部に横たわるギリシア領最大の島。長さ254キロメートル、幅10~56キロメートル、面積8263平方キロメートル。クレタCretaは古称で、現代ギリシア語はクリティ、別称カンディアCandia。行政上はカニア、レティムノン、イラクリオン、ラシティオンの4県からなる。周辺の島々を含む4県の人口合計は60万1159(2001)。中心都市はイラクリオン。ほかにカニア、レティムノンなどの都市がある。島の3分の2は不毛な岩場で、入り組んだ海岸線に険しい山が切り立ち、北側には天然の良港スーダ湾をはじめ、いくつかの湾がある。石灰岩質の山系が東西に並び、東からディクティ山(2148メートル)、イダ山(2456メートル)、レフカ山(2452メートル)などがそびえる。気候はきわめて温暖で、比較的乾燥しており、とくに高原地域は保養地として最適である。平均気温は1月12.2℃、8月26.3℃、年19℃。降雨は冬季に限られ、年降水量500~620ミリメートルである。最大の平地は中央南部のメサラ平野で、島の穀倉地帯となっている。土地はさほど肥沃(ひよく)ではないが、オリーブ、オリーブ油、ぶどう酒、干しぶどう、柑橘(かんきつ)類、バナナ、アーモンドなどのナッツ類、および多くの畜産物を産する。工業は未発達で、イラクリオンのシトロン酒製造など食品加工業が中心である。商業活動は北部の港での輸出入に限られる。
 1970年代以降は観光業が著しく発展している。クレタ島は古代ギリシア文明の先駆けをなしたエーゲ文明が繁栄し、また、クノッソス宮殿をはじめとする遺跡が豊富にある。これらが島を訪れる観光客の対象となっている。カンディアという名称はイスラム教徒の占領(823)以来のもので、イラクリオン市の旧称として用いられ、その名称が島全体をさすようになった。[真下とも子]

歴史

人間生活の最初の痕跡(こんせき)は紀元前六千年紀の新石器時代にさかのぼるが、初期青銅器時代(前3000~前2000ころ)に移って、穀物栽培の定着とオリーブを主とする果樹栽培の開始によって社会発展の契機がもたらされた。メサラ平野に広範に分布するトロス墓群や、東クレタのモクロス島墳墓群の豊かな副葬品、そしてバシリキ、ミルトスの集落遺跡にその繁栄と氏族的共同生活の一端がうかがわれる。キクラデス文化圏からの影響は全島に及んでいるが、アヤ・フォティアとフルニ(アルハネス)の墳墓群にとくにそれが顕著である。前代の発展を基礎に中期青銅器時代(前2000~前1600ころ)の初期から宮殿時代を迎えた。クノッソス、ファイストス、マリア、そして東端のカト・ザクロスにも壮大な宮殿が建立され、後期青銅期時代(前1600~前1100ころ)の初期には地方的拠点も営まれて繁栄の絶頂にあったが、前15世紀なかばに、クノッソス宮殿を唯一の例外として、すべての文化的拠点が炎上倒壊した。一部にはこの破壊をティラ(サントリン)島の火山噴火に伴う自然災害によって説明しようとする人もいるが、前16世紀からすでにエーゲ海に進出しつつあったギリシア本土のミケーネ人一派がクレタ社会に浸透し、前15世紀なかばにクノッソス王権を簒奪(さんだつ)して自らの王朝を樹立したことに伴う政治的、社会的変動と関連するできごととみることもできる。クノッソス宮殿は前14世紀初めに焼失放棄されるが、そこに大量出土した線文字B粘土板文書は、同宮殿の最終王朝がギリシア語を公用語とする勢力であったことを証明している。線文字Aは未解読なので、本来的なクレタ先史文明の担い手の人種的帰属は不明のままである。
 歴史時代にはクレタ島はドーリス系ギリシア人が支配的住民となり、多数の小ポリスが併存した。共同食事、隷農制などスパルタに類似した社会体制にたって、コスモイを高官とする貴族政が広く行われた。古典期にはギリシア国際政治のらち外にとどまった。前67年ローマに征服され、のちビザンティン帝国に属したが、823年から961年の間はイスラム教徒の占領下にあった。13世紀初め、第4回十字軍の直後にジェノバ人の占領を経てベネチア人の掌中に移り、4世紀半に及ぶ長期の支配が続いたが、17世紀なかばからオスマン・トルコ帝国の侵攻が始まり、1669年首都カンディアが陥落してトルコの支配が確立した。ギリシア独立戦争(1821~29)当時からクレタ住民の蜂起(ほうき)が相次いだが、19世紀なかばからはギリシア帰属を求める民族主義的な反乱に発展して、列強の介入を招いた。トルコ当局の譲歩によってギリシア正教徒住民の自治権が伸張し、1913年のロンドン条約でギリシア帰属が実現された。第二次世界大戦中はドイツ軍の占領を受けたが、1945年解放された。[馬場恵二]

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