イギリスの政治家。富裕な商人の息子としてリバプールに生まれ、イートン校からオックスフォード大学に進む。下院議員の父の影響を受けて政治家の道を選び、1832年末、保守党所属の下院議員に選出され、雄弁をもってすぐに頭角を現し、ピール保守党内閣で植民次官などを務めた。1839年大地主グリン家の娘と結婚し、地主貴族階級の一員となる。1841年ピールがふたたび首相になると商務院副総裁(1843年から総裁)として関税の大幅な引下げを実施し、自由貿易政策を推進、1845年には植民相となった。穀物法撤廃をめぐって保守党が分裂した際にはピールに従い、1852年に自由党・ピール派の連立内閣の蔵相となった。遺産相続税の強化、所得税の段階的廃止、緊縮財政を目ざす大胆な財政改革案を提出したが、クリミア戦争中の1855年に下野した。翌1856年、第二次パーマストン自由党内閣の蔵相となり、1865年には下院自由党の指導者も兼ね、第二次選挙法改正を提案したが、保守党に敗れた。1867年J・ラッセルにかわって党首となり、翌1868年の総選挙に勝って政権を奪回して初めて首相となった。以後自由党と保守党とが政権を交互に担当する古典的政党政治が現出した。
第一次内閣(1868~1874)は自由主義的な施策を次々と打ち出し、アイルランド国教廃止法、アイルランド土地法、フォスター教育法、秘密投票法などを成立させた。1874年の総選挙で敗れ、いったん引退したが、保守党の好戦的な東方政策を批判して復帰、1879年にはスコットランドのミッドロージアン選挙区で遊説を行った。1880年の選挙で勝利を得て第二次内閣(1880~1885)を組織し、第三次選挙法改正を実現したが、この内閣はアイルランド、エジプトなどイギリス帝国各地の紛争や、自由党内部の対立に苦しんだ。
1886年に三たび首相となり、アイルランド自治法案を提出したが、同法案はJ・チェンバレンら自由党の一部と保守党の反対を受けて否決された。同年の総選挙で敗れて下野したのち、急進的な改革綱領を受け入れ、1892年の総選挙に勝って四度目の首相に返り咲いた(1892~1894)。しかしアイルランド自治法案は再度否決され、辞任。晩年はフリントシャーのハワーデンに暮らし、1898年5月19日死去した。彼は、19世紀を代表する自由主義的な政治家で、真摯(しんし)な理想主義者であった。なお、1855年からの野党時代に、ホメロスに関する著作を発表(1858)している。
[青木 康]
『尾鍋輝彦著『グラッドストン』(1971・清水書院)』▽『神川信彦著『グラッドストン』上下(潮新書)』
オーストラリア、クイーンズランド州中部東岸にある港湾、工業都市。ブリズベンの北西、道路で530キロメートルの距離にある。人口2万6835(2001)。1960年代以降、同州の鉱産資源開発に伴って急速に成長した。モウラ、ブラックウォーターなどの炭田を控えた石炭輸出港。アルミナ精錬所があり、ウェイパからのボーキサイトを精錬する。港湾取扱量(約1500万トン)は同州最大。グレート・バリア・リーフの観光基地の一つである。1854年入植。
[谷内 達]
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