ピール(読み)ぴーる(英語表記)Charles Wilson Peale

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ピール」の意味・わかりやすい解説

ピール(Charles Wilson Peale)
ぴーる
Charles Wilson Peale
(1741―1827)

アメリカ独立期の肖像画家、科学者、発明家、博物館創設者。アナポリス出身。馬具作り、銀細工、時計修理業などのあと絵画を学び、1767年ロンドンでB・ウェストについて修業。1769年には中部植民地の肖像画家として活動しており、1772年ジョージ・ワシントン将軍の全身像を描いている。肖像画と標本による自然史博物館をフィラデルフィアに開設した1786年以降は、博物誌的な研究に熱中し、マストドン(第三紀中期に栄えた巨ゾウ)を発掘して絵にも描いた。画家一族としても知られ、弟のジェイムズJames Peale(1749―1831)をはじめ、子供のラファエルRaphael Peale(1774―1825)、レンブラントRembrandt Peale(1778―1860)、ルーベンスRubens Peale(1784―1865)、ティツィアーノTitian Peale(1799―1885)などがいる。

桑原住雄



ピール(Sir Robert Peel)
ぴーる
Sir Robert Peel
(1788―1850)

イギリスの政治家。ランカシャーに生まれる。曽祖父(そうそふ)は紡績業者として成功、父はトーリー派に属する国会議員であり、産業革命期に産業資本家から支配階級へと上昇した典型的な家族の一員として育った。ハロー校オックスフォード大学を経て、1809年、21歳で国会議員となり、アイルランド事務相(1812~1818)、内相(1822~1827、1828~1830)などを歴任。さらに1834~1835年、1841~1846年には首相を務めるなど、19世紀前半のイギリスを代表する政治家として活躍した。政治的にはトーリー党に属し、基本的には保守的立場を代表していたが、カトリック解放、財政改革、警察制度の改革、穀物法の廃止、工場法の制定など、この時期の政治的、社会的改革に重要な役割を果たした。1850年7月2日、落馬がもとで死亡した。

[岡本充弘]


ピール(Georges Charles Clement Ghislain Pire)
ぴーる
Georges Charles Clement Ghislain Pire
(1910―1969)

ベルギーの司祭、人道主義者。ディナンに生まれる。18歳のとき、ユイのラ・サルト・ドミニコ修道院に入る。ローマのアンジェリコ・カレジオで学び、1934年聖職を授かり、1936年神学博士となる。ユイの修道院に戻り、社会学と倫理学を教えた。1938年から家族友愛事業と子供青空教室を始めたが、第二次世界大戦が始まり、ベルギーがドイツ軍の侵攻を受けると、従軍司祭としてレジスタンスに参加した。大戦後は「難民救済」という名の機関を設立、さらに難民が安心して生活するために七つの「ヨーロッパ村」をつくった。これらはヨーロッパ各国に広まり、国際的慈善団体に発展した。1958年に長年の難民救済活動が認められ、ノーベル平和賞を受賞した。受賞後も活動を積極的に展開し、1959年に国際的友愛組織「世界に開く心」を、1960年にユイで平和大学を、1962年東パキスタン(現バングラデシュ)と1969年インドに国際協力によるコミュニティ「平和の島」を設立した。

[編集部]


ピール(George Peele)
ぴーる
George Peele
(1556?―1596)

イギリスの劇作家。オックスフォード大学に学んだいわゆる大学才人派(ユニバーシテイ・ウイツツ)の1人。『パリスの糾弾』(1581ころ)はイギリス最初の牧歌劇の一つとされ、そのほか『ダビデとバテシバの恋』(1587ころ)、『アルカザーの戦い』(1589ころ)、『老婆のおしゃべり』(1590ころ)、『エドワード1世』(1591)など、神話、聖書、歴史などに取材した、叙情的な詩句にあふれる多くの作品を残した。

[村上淑郎]


ピール(砂糖漬けの果皮)
ぴーる
peel

柑橘(かんきつ)類の皮の砂糖漬けのことを一般にピールとよんでいる。candied peel(砂糖漬けの果皮)の略語である。レモンピールオレンジピールなどがある。用途はフルーツケーキやクッキーなどの菓子材料である。むき取った皮の形を整え、砂糖液で煮上げて乾燥させる。表面に砂糖の結晶を生じさせたものはクリスタルとよんでいる。

[河野友美・大滝 緑]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ピール」の意味・わかりやすい解説

ピール
Peel, Sir Robert

[生]1788.2.5. ランカシャー,ベリー
[没]1850.7.2. ロンドン
イギリスの政治家。オックスフォード大学を出て,1809年 21歳で下院議員,トーリー党所属。 10~12年陸軍および植民地次官,12~18年アイルランド相。アイルランドに対しては,カトリック教徒解放運動を鎮圧し,アイルランド警察隊を創設するなど,強硬策を行う反面,17年の飢饉の際は,救済用積立基金と穀物分配制度の実施によって危機を切抜けた。その後,リバプール,ウェリントン両内閣の内相 (1822~27,28~30) として,刑法改正,ロンドン警視庁の設置,審査法の廃止 (28) ,カトリック教徒解放法の発布 (29) などを実現させた。 34年保守党首領として内閣を組織,タムワース宣言を発して保守党の方針を示したが,議会の多数を得られずに翌年瓦解。 41年再度組閣。任期中ピール銀行条例を制定,さらに最大の課題であった穀物法撤廃法案を可決成立させた (46) 。このとき保守党内部の強い抵抗を受け,内閣を辞職。保守党は分裂。 50年落馬により死去。

ピール
Peele, George

[生]1556頃.ロンドン
[没]1596頃.ロンドン
イギリスの劇作家,詩人。オックスフォード出身の「大学出の才人」の一人。在学中から抒情詩人として名高く,牧歌劇,歴史劇,メロドラマ,悲劇,民話劇,野外劇と多方面に活躍。 1581年エリザベス女王の前で上演された牧歌的仮面劇『パリスの審判』 The Arraignment of Paris (1584) 以外はすべて公共劇場のために書いたもの。『アルカザールの戦い』 The Battle of Alcazar (94) ,『エドワード1世』 Edward I (93) ,風刺喜劇『老妻物語』 The Old Wives Tale (95) ,悲劇『ダビデ王とバテシバ』 The Love of King David and Fair Bethsabe (99) など。

ピール
Pire, Dominique Georges

[生]1910.2.10. ディナント
[没]1969.1.30. ルーバン
ベルギーのドミニコ会士。 1937~47年ラ・サルトの神学校で教えつつ貧民救済活動に従事。第2次世界大戦中は抵抗運動に参加。戦後難民問題と取組み,49年から救助機関を各地に設立し,「友愛の対話」による積極的平和の実現に努めた。ベルギーのホイに青年教育のための「マハトマ・ガンジー平和機構」 (のちの平和大学) を創立。 62年からパキスタン,インドで国際的共同体計画「平和の島」を実現した。ヨーロッパの難民救済によって 58年のノーベル平和賞を受賞。著書に『平和建設』 Bâtir la paixがある。

ピール
Peale, Charles Willson

[生]1741.4.15. メリーランド,クイーンアンズ
[没]1827.2.22. フィラデルフィア
アメリカの画家。初め馬具製造,時計屋,銀細工屋。 1766年からロンドンで絵を学び肖像画家となったが,アメリカに戻り 76年にフィラデルフィアに定住。 G.ワシントンなど多くの有名人の肖像画を描いた。彼の 17人の子供のうち5人の息子は画家となり,弟のジェームスも画家として知られた。その息子と4人の娘もいずれも画家となり写実的技法で多くの肖像画,静物画を描いた。

ピール
Peale, Rembrandt

[生]1778.2.22. ペンシルバニア,バックスカウンティ
[没]1860.10.3. フィラデルフィア
アメリカの画家。 C.W.ピールの子で,1803年にロンドンのロイヤル・アカデミーに入学。 08~10年にはパリでナポレオンの宮廷画家となり,14年に帰米してボルティモアにピール美術館を創設。 22年以後ニューヨーク,ボストンなどで肖像画家として活躍。兄のラファエル (1774~1825) も静物画を得意とする画家であった。

ピール
Piles, Roger de

[生]1635. クラムシー
[没]1709.4.5. パリ
フランスの画家,文筆家。外交官として各地で美術作品に触れ,絵画における自然模倣を強調。美術アカデミーを中心とする色彩 (ルーベンス) 派と素描 (プーサン) 派の論争で,前者の指導的役割をになってル・ブランと対立し,18世紀のロココ的世界を導いた。主著『原理に基づく絵画論』 Cours de peinture par principes (1708) 。

ピール
pīr

ペルシア語で「老人」の意。中世ペルシア語の pīr (年老いた) に由来する。アラビア語のシャイフとほぼ同義。一般にイランでは,種々の共同体内の「長老」をさし,特に宗教団体,宗派の長や創設者など精神的指導者に対する敬称として用いられた。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報