イギリスの保守党政治家。現実的な保守主義者で,ロマン的保守主義者のディズレーリと好対照をなす。ランカシャーの出身。父は当代屈指の綿業家で下院議員でもあった。ハロー校を経て1808年にオックスフォード大学を最優秀の成績で卒業,翌年,直ちに下院議員となり,トーリー党に属した。10-12年,陸相リバプールの下で陸軍次官兼植民次官を務め,これが機縁となって,長期リバプール政権(1812-27)下でアイルランド事務相(1812-18)と内相(1822-27)の重責を果たした。またこの間19年には,下院委員会の委員長として,銀行券の兌換再開(イギリスはナポレオン戦争中,銀行券の兌換を停止していた)を答申し,経済通の一面を示した。28-30年,ウェリントン内閣の下で再度内相を務めロンドン警視庁(スコットランド・ヤード)を設立,この間,D.オーコンネルの指導するアイルランド分離運動に直面し,それまで反対してきたカトリック解放法(カトリック教徒への公職開放)をみずからの手で実現せねばならないはめとなった(1829)。34年,国王の指名によって第1次ピール内閣を組織したが,100日余りで野に下った。
1830年のグレー(ホイッグ党)内閣の成立と32年の第1次選挙法改正以来,時代の趨勢はトーリー=保守党からホイッグ=自由党へと大きく傾きつつあったが,彼は野党の保守党をよくまとめ,41年政権に復帰し,第2次ピール内閣(1841-46)を組織した。もともと彼は,経済の面では自由主義的で,自由貿易政策を支持してきており,政権につくや,関税引下げ政策をよりいっそう拡大した。その一方では,保守党党首として地主階級の伝統的な政治支配を国制の基礎とみなし,穀物の保護関税を定めた穀物法には賛成であった。しかし,反穀物法同盟を先頭に自由貿易運動が急激に高まるなかで45年のアイルランド大飢饉に直面したとき,彼は,社会全体の福利の実現という見地から,穀物法反対の立場に態度を一変させ,46年,ディズレーリを先頭とする党内右派の猛反対に抗してみずからの手で穀物法廃止法案を下院に上程し,自由党の支持を得て同法案を成立させた。この大英断によって保守党は分裂し,以後70年代にいたるまで弱体化を余儀なくされたが,イギリス自由貿易の大勢はここに確定し,19世紀中葉の自由主義の黄金時代がもたらされた。このことのゆえに,また1829年の〈カトリック解放〉の実現のゆえに,ピールについては,従来,自由主義者,保守主義者,はては裏切者の評価までなされてきたが,今日では,時勢に明敏な,責任感の強い現実的な保守主義者という高い評価が一般に定着している。46年以降,保守党から分裂したピール派を率いたが,50年に落馬が原因で死亡。なおピール派の中には,後の自由党指導者グラッドストンが含まれていた。
執筆者:村岡 健次
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アメリカ独立期の肖像画家、科学者、発明家、博物館創設者。アナポリス出身。馬具作り、銀細工、時計修理業などのあと絵画を学び、1767年ロンドンでB・ウェストについて修業。1769年には中部植民地の肖像画家として活動しており、1772年ジョージ・ワシントン将軍の全身像を描いている。肖像画と標本による自然史博物館をフィラデルフィアに開設した1786年以降は、博物誌的な研究に熱中し、マストドン(第三紀中期に栄えた巨ゾウ)を発掘して絵にも描いた。画家一族としても知られ、弟のジェイムズJames Peale(1749―1831)をはじめ、子供のラファエルRaphael Peale(1774―1825)、レンブラントRembrandt Peale(1778―1860)、ルーベンスRubens Peale(1784―1865)、ティツィアーノTitian Peale(1799―1885)などがいる。
[桑原住雄]
イギリスの政治家。ランカシャーに生まれる。曽祖父(そうそふ)は紡績業者として成功、父はトーリー派に属する国会議員であり、産業革命期に産業資本家から支配階級へと上昇した典型的な家族の一員として育った。ハロー校、オックスフォード大学を経て、1809年、21歳で国会議員となり、アイルランド事務相(1812~1818)、内相(1822~1827、1828~1830)などを歴任。さらに1834~1835年、1841~1846年には首相を務めるなど、19世紀前半のイギリスを代表する政治家として活躍した。政治的にはトーリー党に属し、基本的には保守的立場を代表していたが、カトリック解放、財政改革、警察制度の改革、穀物法の廃止、工場法の制定など、この時期の政治的、社会的改革に重要な役割を果たした。1850年7月2日、落馬がもとで死亡した。
[岡本充弘]
ベルギーの司祭、人道主義者。ディナンに生まれる。18歳のとき、ユイのラ・サルト・ドミニコ修道院に入る。ローマのアンジェリコ・カレジオで学び、1934年聖職を授かり、1936年神学博士となる。ユイの修道院に戻り、社会学と倫理学を教えた。1938年から家族友愛事業と子供青空教室を始めたが、第二次世界大戦が始まり、ベルギーがドイツ軍の侵攻を受けると、従軍司祭としてレジスタンスに参加した。大戦後は「難民救済」という名の機関を設立、さらに難民が安心して生活するために七つの「ヨーロッパ村」をつくった。これらはヨーロッパ各国に広まり、国際的慈善団体に発展した。1958年に長年の難民救済活動が認められ、ノーベル平和賞を受賞した。受賞後も活動を積極的に展開し、1959年に国際的友愛組織「世界に開く心」を、1960年にユイで平和大学を、1962年東パキスタン(現バングラデシュ)と1969年インドに国際協力によるコミュニティ「平和の島」を設立した。
[編集部]
イギリスの劇作家。オックスフォード大学に学んだいわゆる大学才人派(ユニバーシテイ・ウイツツ)の1人。『パリスの糾弾』(1581ころ)はイギリス最初の牧歌劇の一つとされ、そのほか『ダビデとバテシバの恋』(1587ころ)、『アルカザーの戦い』(1589ころ)、『老婆のおしゃべり』(1590ころ)、『エドワード1世』(1591)など、神話、聖書、歴史などに取材した、叙情的な詩句にあふれる多くの作品を残した。
[村上淑郎]
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1788~1850
イギリスの政治家。ランカシャーの綿業経営者の家に生まれ,1809年トーリ党所属下院議員となり,22~27年,28~30年内相として結社禁止法の廃止,警察制度の整備など多くの改革を行った。その後首相(在任1834~35,41~46)となり,46年穀物法廃止を断行。保守党の分裂を招いたが,近代的な保守党の誕生に貢献した。
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…第1が懺悔・回心,第2が律法遵守,第3が隠遁と独居,第4が清貧と禁欲,第5が心との戦い,第6が神への絶対的信頼である。修行者は導師(ムルシドmurshid,ピールpīr)の指導を受けながら,これらの階梯を一つ一つ昇っていく。こうして倫理的な面での準備ができると,いっさいの雑行や雑念を去り,ひたすら神の名を唱えて思念を神に集中するジクルの段階に進む。…
…この目標の達成のためには師の指導が不可欠と考えられた。そして導師(シャイフ,ピールpīrと呼ばれる)を中心とするスーフィーのグループがつくられるようになった。このような初期のグループとしては,有名なものにイラク派と呼ばれるジュナイドに由来するグループと,ホラーサーン派と呼ばれるビスターミーのグループがある。…
…リビアのサヌーシー派,西アフリカのティジャーニー教団,スーダンのマフディー派の乱などにその現れがみられる。 このタリーカの内部構造は,シャイフとかピールpīrと呼ばれる師匠と,ムリードmurīdと呼ばれる弟子たちからなっていた。タリーカのシャイフと教団の創立者である聖者との間には,シルシラsilsilaと呼ばれる系図がつくられ,教団の長の職は多くは世襲の形をとった。…
…語義的には〈イマームの末裔〉の意味であるが,通常,イマームの子孫もしくはそう信じられた人物を埋葬した,イラン全域に見られる聖祠のこと。シーア派イスラムの,とくに女性にかかわる信仰生活は,イマームザーデあるいはそれと類似の機能をもつピールpīr(聖者祠),あるいはカダムガーqadamgāh(足跡祠),ジヤーラトガー(巡礼祠)などを中心に営まれているといっても過言でない。テヘラン南方郊外のシャー・アブドル・アジーム,シーラーズのシャー・チェラーグのように,広く全土から巡礼者を集める立派な建造物を伴う著名なものから,村外れの墓地に立つ小さなもの,あるいは山腹に単に石を積んだだけのもの(普通ピールと呼称)まで,その形態はさまざまである。…
…
[イギリス]
産業革命が生んだ工場制度は生産力の飛躍的発展をもたらしたが,他面,児童や婦人の長時間労働,事故の多発,〈工場熱〉(18世紀末の紡績工場を襲った原因不明の熱病)の流行,風紀の乱れなど,さまざまの社会問題をひきおこした。このためイギリスでは1802年,人道主義の立場を代表するロバート・ピールの提案によって,綿工場で働く児童労働を保護する〈徒弟健康風紀法Health and Morals of Apprentice Act〉が制定された。世界最初の工場立法である。…
…1603年以後,イングランドとスコットランドは1人の王の統治下(同君連合)となり,さらに1707年両国は合同したため,この屋敷は不要となり,政府所管となった。 1829年,R.ピール内相のもとではじめて首都警察(すなわちロンドン警視庁)が設けられたとき,この建物を本拠とした。表玄関側の通りがホワイトホール・プレース,裏側の通りがスコットランド・ヤードと呼ばれていたが,なぜか裏通りの名のほうが有名となり,以後警視庁の別名となってしまった。…
…40年代最大の政治問題は穀物法廃止,すなわち穀物貿易を自由化するかしないかという問題であったが,農業の利害に強く執着したディズレーリは廃止に反対であった。だが,時の保守党党首R.ピールは,このころマンチェスター派の自由貿易論者に改宗しており,こうして両者は真正面から対立するにいたった。ディズレーリは,彼の代表的な政治小説《コニングズビー》(1844)を著してピールを非難・攻撃する一方,党内に〈青年イングランド党〉という小会派をおこした。…
…1844年7月制定のイングランド銀行特許(更新)法Bank Charter Actのことで,時の首相R.ピールにちなんでピール銀行法と通称されている。ピール銀行条令ともいわれる。…
…なお集権的な内務・警察機構や常備軍の発達が微弱だったことから,過激な対抗運動に対して実力弾圧の余地が少なく,かつ相対的に富裕で開明された貴族・地主には,買収や譲歩などの政治性の濃い対応余地の大きかったことが,保守党に柔軟な漸進主義を許容する土譲となった。 発生の直接起源は,選挙法改正要求に代表されるような改革運動の急進化のみならず,これに反発して過剰な現状維持に走る頑迷派トーリーにも対抗するため,E.バークの保守的政治哲学やフランスから輸入された〈保守の党parti conservateur〉の概念をよりどころに,R.ピールが中心となりトーリー党が保守党に再編された1834年にさかのぼる(もっともそれ以降もトーリーという呼称は保守党と同義で頻繁に用いられる)。46年の穀物法撤廃を契機に,ピールら党中枢議員と一般議員・農村支持層との対立が激化し,非ピール派の党本体は一時〈保護主義党Protectionist Party〉を名のって翌年の総選挙以降分裂が表面化する(非ピール派に近代保守党の起源を求める有力な見解もある)。…
※「ピール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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