グラッドストン(その他表記)William Ewart Gladstone

デジタル大辞泉 「グラッドストン」の意味・読み・例文・類語

グラッドストン(William Ewart Gladstone)

[1809~1898]英国の政治家自由党の党首として四度内閣を組織し、保守党ディズレーリとともに二大政党による議会政治を推進。選挙法改正やアイルランド問題の解決など自由主義的改革を実現。

グラッドストン(Gladstone)

オーストラリア、クイーンズランド州東部の港湾都市ブリスベーンの北西約530キロメートルに位置する。石炭、アルミなどの鉱産物や農産物の積出港として発展。グレートバリアリーフの観光起点の一つであり、ヘロン島フェリーで結ばれる。グラッドストーン

グラッドストン(Gladstone)

内部が二つに分かれた長方形の小さな旅行かばん。英国の政治家グラッドストンが愛用したところから。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「グラッドストン」の意味・わかりやすい解説

グラッドストン
William Ewart Gladstone
生没年:1809-98

19世紀のイギリス自由主義を代表する最大の政治家。西インドに奴隷制農場を営むリバプールの大貿易商の子に生まれ,イートン校を経て1832年にオックスフォード大学を卒業。同年,第1次選挙法改正後最初の選挙に保守党から当選,以後95年にいたるまで下院議員をつとめた。敬虔なキリスト教徒で,政治家としても生涯キリスト者の信念にもとづいて行動したが,とくに青年時代は,熱烈なトーリー国教主義者で,38年に《国家と教会との関係》を著し,国家と英国国教会の不可分性を力説した。また奴隷制廃止の問題においても,奴隷の即時的な解放には反対するなど,20代にいたるまでは,まったくのトーリー保守主義者であった。

 政治家として万事に卓越した彼の才能は,保守党党首R.ピールによっていち早く認められた。1834年に第1次ピール内閣(1834-35)の大蔵政務次官,ついで第2次ピール内閣(1841-46)の通商政務次官をつとめ,自由貿易政策を立案した。彼の自由主義者への転身は,この経済政策の策定を通じて始まったといえる。45年,植民大臣となり,46年,穀物法の廃止に際してこれを支持,ピールと行動をともにし分裂した保守党を離れた。52年,自由党とピール派が連立して成立したアバディーン内閣(1852-55)に蔵相として入閣,翌53年,自由主義的な画期的予算案を成立させ,財政家としての名声を博した。57年,第2次アヘン戦争アロー号事件)に際し,平和主義の立場からパーマストン砲艦外交を厳しく非難したものの,59年にはついに自由党に入党,同時にパーマストン内閣(1859-65)の蔵相となり,関税引下げ政策の徹底,英仏通商条約の締結(1860)によってイギリスの自由貿易政策を完成の域へともたらした。そして65年にパーマストンが死に,67年にラッセルが引退したあとは,名実ともに自由党の第一人者として認められ,68年,第2次選挙法改正後最初の選挙に大勝して首相となった(第1次グラッドストン内閣,1868-74)。

 このころの彼は,宗教問題においても自由主義者になっており,その立場からまずアイルランド国教会を廃止(1869),ついで初等教育法(1870),公務員試験制度の確立(1871),陸軍士官買官制の禁止(1871),秘密投票法の施行(1872)等懸案の諸改革を実行して,いわゆる自由主義の黄金時代を築いた。その後74年の総選挙では,保守党ディズレーリの帝国主義キャンペーンの前に敗北を喫し,一時自由党党首の座を引退する。76年にブルガリア人の4月蜂起に対するトルコ政府の大量虐殺事件が起こり,ディズレーリ内閣が放任の態度でのぞむと,キリスト者の義憤に燃えて反ディズレーリの猛攻に転じ,80年に第2次グラッドストン内閣(1880-85)を成立させて第3次選挙法改正(1884)を実現した。

 しかし,このころから時代の風潮は帝国主義へと向かって進み,彼の古典的な自由主義は,その中で,しだいに運用が困難となった。80年代以降,激しさを加えたアイルランド問題の解決をはかるべく,この島に自治を与えようとした。だが,彼の主張は,帝国の利害を重んずるチェンバレン一派を党内に生み出し,86年,彼が提出したアイルランド自治法案を契機に自由党は分裂して,第3次グラッドストン内閣の崩壊を招いた。ついで第4次グラッドストン内閣(1892-94)において再提出された同法案も上院で否決され,晩年の悲願は成らなかった。94年,ドイツに対抗するための軍事費増額を平和主義者の立場から認めることができず首相を辞任,翌95年,政界からも引退した。自由,節約,平和を旨とする彼の古典的な自由主義は,帝国主義の時代についに適応することができなかったといえよう。彼は3,4時間の睡眠で体力を回復してしまう精力絶倫の人間で,政治家であるとともにギリシア・ラテンの古典学にも長じ,ホメロスの研究家としても知られた。98年,癌で死去,ウェストミンスター・アベーに葬られた。
執筆者:


グラッドストン
Gladstone

オーストラリア,クイーンズランド州中部の工業・港湾都市。人口2万3000(1991)。ブリズベーンの北西530km(道路距離)にあり,1960年代以来の鉱業開発に伴い急成長した。モウラやブラックウォーターなどの炭田を後背地に持ち,石炭輸出港および火力発電所がある。またアルミナ精錬所があり,同州北部のウェーパ産のボーキサイトを精錬する。港湾取扱量は同州最大である。1854年開基。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「グラッドストン」の意味・わかりやすい解説

グラッドストン

ディズレーリとともに英国議会政治の黄金時代を代表する政治家。初め保守党に属し,1833年下院議員となり,1843年以後商務総裁,植民相を歴任。穀物法廃止に際して首相ピールを支持し,自由党に接近。3度蔵相(1852年―1855年,1859年―1865年,1865年―1866年)となり自由貿易,減税政策を推進し,財政家として名をあげた。1867年自由党党首となり4度組閣。1868年―1874年第1次内閣ではアイルランド国教を廃止し,教育・軍隊・司法制度を改革,第1次アイルランド土地法・秘密投票法などを成立させた。総選挙に敗れ引退したのち,選挙区のミドロージアンでディズレーリの帝国主義を批判して政権を獲得。1880年―1885年第2次内閣では第3次選挙法改正を断行。第3次(1886年)・第4次(1892年―1894年)内閣ではアイルランド自治法案の成立に努力したが失敗して政界から引退した。
→関連項目自由党(英国)ビクトリア[女王]ラッセル

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「グラッドストン」の意味・わかりやすい解説

グラッドストン
Gladstone, William Ewart

[生]1809.12.29. リバプール
[没]1898.5.19. ウェールズ,ハーデン
イギリスの政治家。4度にわたって首相をつとめた。オックスフォード大学に学び,1832年下院議員となる。最初はトーリー党に所属したが,のちピール派としてトーリー党を離脱。 52~55年アバディーン連立内閣の蔵相,59~65年第2次パーマストン内閣の蔵相,65~66年ラッセル内閣の蔵相などをつとめ,自由党 (ホイッグ党) 下院指導者となった。 67年末ラッセルの引退後,党の最高指導者となり,以後保守党のディズレーリ,ソールズベリー (侯) と交互に政権を担当する典型的な二大政党政治を展開した。 68~74年の第1次グラッドストン内閣は,69年アイルランド国教会制廃止法,70年第1次アイルランド土地法,フォースター教育法,71年労働組合法,72年無記名投票法などの改革立法を成立させた。総選挙に敗れいったん引退したのち,ミッドロージアンの選挙区でディズレーリの帝国主義政策を非難する有名なキャンペーンを行い,80年総選挙で勝利。 85年までの第2次内閣では,1881年第2次アイルランド土地法,84年「第3次選挙法改正法案」を成立させた。 86年の第3次内閣はアイルランド自治法案を提出して敗れ,短命に終った。 92~94年の第4次内閣において再度提出された同法案も上院で否決され,60年以上にわたる政治生活から引退した。

グラッドストン
Gladstone

オーストラリア,クイーンズランド州中部東岸,ロックハンプトンの南東 131kmにある港町。名称はイギリスの政治家 W. E.グラッドストンに由来。石炭の主要積出港の一つで,おもに日本へ輸出される。大規模な火力発電所がある。ウェイパからのボーキサイトによるアルミナ精錬所があり,タスマニア州のベルベイおよび海外へ輸出される。港の出入貨物量は同州最大。人口2万 4205 (1991推計) 。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「グラッドストン」の解説

グラッドストン
William Ewart Gladstone

1809~98

イギリスの議会政治の黄金時代を代表する政治家,首相(在任1868~74,80~85,86,92~94)。リヴァプールの豪商の家に生まれ,オクスフォード大学の出身。1833年保守党所属の下院議員となり,穀物法廃止でピールを支持して保守党を離れ,自由党に参加。52年以降3度蔵相を務め,自由貿易の推進,減税政策によって財政家として名をあげた。67年自由党党首となり4度組閣。第1次内閣ではアイルランドの国教制度の廃止,秘密投票法などを成立させたほか,教育,軍事,司法の改革を行った。74年総選挙に敗れ下野。ディズレーリ帝国主義政策を激しく批判して,政権を再度獲得し,第2次内閣では第3次選挙法改正を実現させたが,第3次内閣でアイルランドの自治をめぐって党の分裂を招いた。94年アイルランド自治法案が否決され,政界から引退。爵位を固辞して「大平民」で通した。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「グラッドストン」の解説

グラッドストン
William Ewart Gladstone

1809〜98
イギリスの政治家
初め保守党に属していたが,1847年自由党に転じ,52年蔵相,68年首相となる。以後4回にわたり組閣し,ディズレーリの率いる保守党と対抗しながら自由主義的政策を実行し,選挙法改正(1884年,農業労働者への選挙権)やアイルランド問題の解決(1870,81年のアイルランド土地法)に努力した。対外的には平和主義外交を唱えたが,帝国主義的時流には抗しきれず,1881年アフガニスタンを保護国化し,82年アラービー=パシャの乱を鎮圧し,エジプトを事実上支配下に置いた。著書に『ホメロス研究』(1858)などがある。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のグラッドストンの言及

【自由党】より

…50,60年代の自由党は,自由貿易主義の旗の下に,今や完全に保守党を圧倒したが,党の最高指導者は,なおホイッグ貴族のJ.ラッセルとパーマストンであった。だが,65年にパーマストンが死に,67年にW.E.グラッドストンが党首に就任するに及んで党の性格は一新され,党勢の伸張もその極点に達した。68年から74年にかけての第1次グラッドストン内閣の時代は,古典的自由主義体制の黄金時代で,自由貿易は完成の域に達し,自由と節約は国民全体の信条となった。…

※「グラッドストン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android