19世紀のイギリス自由主義を代表する最大の政治家。西インドに奴隷制農場を営むリバプールの大貿易商の子に生まれ,イートン校を経て1832年にオックスフォード大学を卒業。同年,第1次選挙法改正後最初の選挙に保守党から当選,以後95年にいたるまで下院議員をつとめた。敬虔なキリスト教徒で,政治家としても生涯キリスト者の信念にもとづいて行動したが,とくに青年時代は,熱烈なトーリー国教主義者で,38年に《国家と教会との関係》を著し,国家と英国国教会の不可分性を力説した。また奴隷制廃止の問題においても,奴隷の即時的な解放には反対するなど,20代にいたるまでは,まったくのトーリー保守主義者であった。
政治家として万事に卓越した彼の才能は,保守党党首R.ピールによっていち早く認められた。1834年に第1次ピール内閣(1834-35)の大蔵政務次官,ついで第2次ピール内閣(1841-46)の通商政務次官をつとめ,自由貿易政策を立案した。彼の自由主義者への転身は,この経済政策の策定を通じて始まったといえる。45年,植民大臣となり,46年,穀物法の廃止に際してこれを支持,ピールと行動をともにし分裂した保守党を離れた。52年,自由党とピール派が連立して成立したアバディーン内閣(1852-55)に蔵相として入閣,翌53年,自由主義的な画期的予算案を成立させ,財政家としての名声を博した。57年,第2次アヘン戦争(アロー号事件)に際し,平和主義の立場からパーマストンの砲艦外交を厳しく非難したものの,59年にはついに自由党に入党,同時にパーマストン内閣(1859-65)の蔵相となり,関税引下げ政策の徹底,英仏通商条約の締結(1860)によってイギリスの自由貿易政策を完成の域へともたらした。そして65年にパーマストンが死に,67年にラッセルが引退したあとは,名実ともに自由党の第一人者として認められ,68年,第2次選挙法改正後最初の選挙に大勝して首相となった(第1次グラッドストン内閣,1868-74)。
このころの彼は,宗教問題においても自由主義者になっており,その立場からまずアイルランド国教会を廃止(1869),ついで初等教育法(1870),公務員試験制度の確立(1871),陸軍士官買官制の禁止(1871),秘密投票法の施行(1872)等懸案の諸改革を実行して,いわゆる自由主義の黄金時代を築いた。その後74年の総選挙では,保守党ディズレーリの帝国主義キャンペーンの前に敗北を喫し,一時自由党党首の座を引退する。76年にブルガリア人の4月蜂起に対するトルコ政府の大量虐殺事件が起こり,ディズレーリ内閣が放任の態度でのぞむと,キリスト者の義憤に燃えて反ディズレーリの猛攻に転じ,80年に第2次グラッドストン内閣(1880-85)を成立させて第3次選挙法改正(1884)を実現した。
しかし,このころから時代の風潮は帝国主義へと向かって進み,彼の古典的な自由主義は,その中で,しだいに運用が困難となった。80年代以降,激しさを加えたアイルランド問題の解決をはかるべく,この島に自治を与えようとした。だが,彼の主張は,帝国の利害を重んずるチェンバレン一派を党内に生み出し,86年,彼が提出したアイルランド自治法案を契機に自由党は分裂して,第3次グラッドストン内閣の崩壊を招いた。ついで第4次グラッドストン内閣(1892-94)において再提出された同法案も上院で否決され,晩年の悲願は成らなかった。94年,ドイツに対抗するための軍事費増額を平和主義者の立場から認めることができず首相を辞任,翌95年,政界からも引退した。自由,節約,平和を旨とする彼の古典的な自由主義は,帝国主義の時代についに適応することができなかったといえよう。彼は3,4時間の睡眠で体力を回復してしまう精力絶倫の人間で,政治家であるとともにギリシア・ラテンの古典学にも長じ,ホメロスの研究家としても知られた。98年,癌で死去,ウェストミンスター・アベーに葬られた。
執筆者:村岡 健次
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1809~98
イギリスの議会政治の黄金時代を代表する政治家,首相(在任1868~74,80~85,86,92~94)。リヴァプールの豪商の家に生まれ,オクスフォード大学の出身。1833年保守党所属の下院議員となり,穀物法廃止でピールを支持して保守党を離れ,自由党に参加。52年以降3度蔵相を務め,自由貿易の推進,減税政策によって財政家として名をあげた。67年自由党党首となり4度組閣。第1次内閣ではアイルランドの国教制度の廃止,秘密投票法などを成立させたほか,教育,軍事,司法の改革を行った。74年総選挙に敗れ下野。ディズレーリの帝国主義政策を激しく批判して,政権を再度獲得し,第2次内閣では第3次選挙法改正を実現させたが,第3次内閣でアイルランドの自治をめぐって党の分裂を招いた。94年アイルランド自治法案が否決され,政界から引退。爵位を固辞して「大平民」で通した。
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…50,60年代の自由党は,自由貿易主義の旗の下に,今や完全に保守党を圧倒したが,党の最高指導者は,なおホイッグ貴族のJ.ラッセルとパーマストンであった。だが,65年にパーマストンが死に,67年にW.E.グラッドストンが党首に就任するに及んで党の性格は一新され,党勢の伸張もその極点に達した。68年から74年にかけての第1次グラッドストン内閣の時代は,古典的自由主義体制の黄金時代で,自由貿易は完成の域に達し,自由と節約は国民全体の信条となった。…
※「グラッドストン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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