改訂新版 世界大百科事典 「コンスタンティヌス1世」の意味・わかりやすい解説
コンスタンティヌス[1世]
Constantinus Ⅰ, Flavius Valerius
生没年:280ころ-337
ローマ皇帝。在位,副帝306-310年ころ,正帝310ころ-337年。大帝と呼ばれる。はじめてキリスト教を公認した皇帝。モエシア(今のブルガリア)のナイッススの生れ。父はコンスタンティウス1世,母はヘレナ。父が副帝としてブリタニア,ガリアを支配しているときには正帝ディオクレティアヌスの宮廷におかれた。東の副帝ガレリウスに従ってペルシア遠征に加わり,戦功をあげた。305年ガレリウスが正帝となるに及んでコンスタンティヌスはその宮廷に人質としてとどめられる形となった。しかし西方正帝となったコンスタンティウスが息子の返還を請うたので,コンスタンティヌスはガレリウスの許可を待たずに,ブリタニアの父のところへ急行した。ピクト人を破ったのちにコンスタンティウスは没し(306),軍隊はコンスタンティヌスを正帝として推戴した。これに対しガレリウスは彼を副帝としか認めず,西の正帝には輩下のセウェルスを任命した。306年秋ローマ市でマクセンティウスが蜂起してのち帝国は混迷の度を深めてゆく。マクセンティウスの父で引退の身のマクシミアヌスが復位を宣言してコンスタンティヌスに接近し,娘ファウスタを彼の妻とし,マクシミアヌス父子との結びつきは一時強まった。308年ガレリウスはリキニウスを正帝とし,依然として副帝の地位に据えおかれたコンスタンティヌスは同じ境遇の東方副帝マクシミヌス・ダイアとともにこの措置に不快の念を示し,おそらく310年中には自ら正帝と称するにいたった。そしてこの間彼はライン国境でフランク,アラマンニ人を撃退し,さらにマクセンティウスと不和になってガリアに逃れてきていたマクシミアヌスをマッシリアで殺し,マクセンティウスとも敵対関係に入ってゆく。
さて311年のガレリウスの死後,帝国には4人の皇帝が競いたつことになるが,コンスタンティヌスはリキニウスと,一方マクセンティウスはマクシミヌス・ダイアと,それぞれ結んで対抗した。312年秋イタリアに侵入したコンスタンティヌスは,ローマ市北方のミルウィウス橋に迎え撃ったマクセンティウスを全軍2000もろともティベリス(テベレ)川に追い落として滅ぼし,ローマに入城した。この戦いに際して彼は中空にキリストの頭文字の組合せ(あるいは)の幻と,〈汝これにて勝て〉との文字を見たという。この,ラクタンティウス,エウセビオスの伝える挿話はしばしば彼のキリスト教への改宗の要因とされている。元老院から歓呼して迎えられたコンスタンティヌスは第一正帝たることを宣明し,東方のマクシミヌス・ダイアには彼が再開していたキリスト教徒迫害をやめるよう勧告した。ついでミラノでリキニウスと会して妹コンスタンティアを彼の妻とし,他方キリスト教問題を議して,その公認と宗教自由の原則を決定した。313年夏リキニウスはマクシミヌス・ダイアを小アジアで敗死させ,ニコメディアで上記内容の寛容令を発した(いわゆる〈ミラノ勅令〉)。こうして2人の皇帝がのこったが,両者の対立が深まり,コンスタンティヌスは324年リキニウスを処刑してついに単独の支配者となった。その後彼は長子クリスプス,妻ファウスタを陰謀の疑いで誅殺するなどしたが,皇帝としては国境の不安を解消し,平和を確立してすぐれた行政手腕を発揮し,ディオクレティアヌスの改革を引き継いで帝国の再建をなしとげ,これまでのローマ帝国とは異なる専制君主政国家(ドミナトゥス)を確立させていった。
彼はまず軍政と民政の区別をいっそう明確にし,新たに皇帝直轄の野戦機動軍を設けて優遇し,ゲルマン人兵士,将校をも増やして帝国の軍事力を整備強化した。一方かつての親衛隊長は官職名はそのままに行政・裁判の枢要な役職となり,そのほか皇帝官房,法律,財務,文書など行政上の諸官職が新設され,中央集権的な政府組織が整えられていった。皇帝権力の絶対性が強調され,高官や側近からなる枢密顧問会議は彼の前では起立して開かれねばならなくなった。またキリスト教は皇帝権力をイデオロギー的に支える宗教として重視されることになり,コンスタンティヌスを,神の恩寵を一身にうけ,神の代理人として統治する崇高なる君主ととらえる,キリスト教的〈神寵帝理念〉をうち出したのは教会史家エウセビオスであった。
以上の諸施策は新首都コンスタンティノポリスにおいて推進された(330遷都)。すでに3世紀からローマ市の首都としての意味は失われており,人口のうえからも文化・経済上の理由からも帝国の中心は東方ギリシア世界に傾いていた。コンスタンティヌスが小アジアのビュザンティオンに新都を建設したのは,このような趨勢を踏まえて理解されるべきであり,また東方ペルシアの脅威への配慮と,伝統宗教の根強いローマから離れてキリスト教を中心とした新都の建設をめざしたことも考えられる。コンスタンティノポリスはすべてにおいてローマと同格とされ,元老院が設置され,市民には穀物配給などで特権が与えられた。そしてコンスタンティヌスは宮殿その他の公共建築,大教会などでこの新都を飾った。彼は親しい者たちに官職や元老院議員の地位を与えるなどして,位階的な官職貴族層を育成し,官位や名誉称号や法的特権などで階層的に連なる身分秩序が確立してゆき,コロヌスの土地緊縛令が示すように,社会身分,職業の固定化,世襲化が進められていった。彼は経済面では放漫な政策をとり,コンスタンティノポリスを中心に東方都市は貨幣経済を繁栄させたが,政府は増税をくり返さざるをえず,良質のソリドゥス金貨を発行したものの,物価騰貴,役人の腐敗は防げなかった。主として帝国西方における貨幣経済の不振,税の物納化,大土地所有貴族の都市からの離脱・自立化などはいっそう進み,東西の相違はいよいよ明瞭になっていったのである。
以上のように,コンスタンティヌスはローマ帝国の変質を精力的にすすめたが,彼を支え,あるいは彼が利用したイデオロギーとしてのキリスト教の意味については古来多くの論議がある。一般には彼は史上最初にキリスト教に改宗した皇帝として,キリスト教史上刮目(かつもく)すべき位置を与えられ,ローマ帝国の劇的転換の立役者とされているが,古くはブルクハルトのように彼を冷徹で計算高い政治家ととらえて,彼はキリスト教を統治の道具としたにすぎぬとする主張もあった。おそらく彼はミルウィウス橋の幻伝説が示すごとき劇的改心を経験したのではなく,3世紀来唯一神的傾向を強めてきた新プラトン主義の存在や,皇帝の,あるいは軍隊における太陽神崇拝の進展を背景に,比較的抵抗なくキリスト教の唯一絶対神を受容することができたと思われる。また登位後の内乱の中でキリスト教迫害帝に対抗する意味からも寛容を標榜する必要があったこと,ラクタンティウスのごとき文人キリスト者,側近が影響を及ぼしたことも想定される。いずれにせよ権力を強めてゆく中で,特に帝国東方において多数を占め,たび重なる迫害でも完全には屈服させえないキリスト教徒を敵にまわすことの不利を彼が悟ったことは十分想像できる。エウセビオスはその点を衝いて,キリスト教を帝国支配のイデオロギーとする考えをコンスタンティヌスに示唆したのである。彼は公的碑文・文書での表現や貨幣の刻文においては伝統の神々の名を用い,伝統的な大神官職にもついたが,一方で新都に教会を建て,教会に手厚い財政的援助を与え,聖職者を保護した。神学論争にも耳を傾け,アフリカのドナティズム紛争の調停を試み,アリウス主義とカトリックとの対立に関しては325年ニカエア公会議を主宰して信条統一を指導した。彼によってキリスト教が新しい一歩を踏み出したことは事実であり,特に東方における皇帝の教会支配権の端緒すらその政策には見いだされるといえる。しかし彼自身は死の床で,異端とされたアリウス派の洗礼をうけた。
→イスタンブール →キリスト教 →ローマ
執筆者:松本 宣郎
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