日本大百科全書(ニッポニカ) 「コンスタンティノス」の意味・わかりやすい解説
コンスタンティノス
こんすたんてぃのす
Constantinos
Konstantin
(826―869)
ギリシア人宣教師。869年2月の永眠に先だつ50日前に修道士となり、以後キリル(キリロス)Кириллといった。コンスタンティノープル総主教の秘書となったが、身を引いて修道院にこもった。兄メトディオスとともにモラビア地方のスラブ人伝道に起用された。外交手腕、語学力、信仰心を買われたためであった。聖書、祈祷(きとう)書をスラブ語に訳した。スラブ人には文字がなかったのでグラゴリチックというスラブ最古の文字を考案した。このスラブ・アルファベットは、彼の名をとってキリル文字といわれ、現代のロシア文字の母体となった。この文字で書かれたスラブ最古の文献の言語を古代スラブ語、あるいは教会スラブ語、古代教会スラブ語という。
[田口貞夫 2018年2月16日]
コンスタンティノス(9世)
こんすたんてぃのす
Konstantinos Ⅸ
(1000ころ―1055)
ビザンティン帝国皇帝(在位1042~55)。元老院議員の出。コンスタンティノス8世の娘ゾエ(当時64歳)の三度目の夫となり即位。国内的には、百科全書派の学者プセロスを中心とする文芸復興運動(首都の大学の再開など)により、なおマケドニア朝の繁栄が続いたが、対外的には、アルメニアを帝国の保護領としたものの、セルジューク・トルコの進出やバルカン半島のペチェネグ、クマノイ、ウズなどの諸異民族の侵攻に手を焼いた。宗教的には、ローマ教皇の首位権、南イタリアの教会の管轄権、教義・典礼・慣習の相違などが原因で、時の総主教ケルラリウスはローマ教皇と決別。ギリシア正教会とカトリック教会とが分裂するに至った(1054)。
[和田 廣]
コンスタンティノス(8世)
こんすたんてぃのす
Konstantinos Ⅷ
(960ころ―1028)
ビザンティン帝国皇帝(在位1025~1028)。ロマノス2世Romanos Ⅱ(939―963)の次男で、父の死後、兄バシレイオス2世とともに母テオファノTheophano(生没年不詳)の摂政(せっしょう)の下に共同皇帝の地位につく。兄が正帝として即位(976)したのちも、その地位は変わらなかった。兄の死後ようやく正帝として即位したが政務を好まず、享楽的生活を好み、名目上の皇帝であった。帝国は、その間、ドナウ川南岸の旧ブルガリア領に居座ったスビャトスラフSvyatoslav Igorevich(?―972)王を駆逐(971)、テマ・ブルガリアを新設(1014)、さらに小アジア以東の地へ領土拡大を図り、キエフ大公のウラジーミル王との間に通商条約を締結(988)し、アルメニア王国を保護領とする(1021)など繁栄を続けた。
[和田 廣]
コンスタンティノス(4世)
こんすたんてぃのす
Konstantinos Ⅳ
(654ころ―685)
ビザンティン帝国皇帝(在位668~685)。コンスタンス2世の長男で、有能な軍人政治家。674年春から4年間に及ぶウマイヤ朝のムアーウィヤによるコンスタンティノープル攻撃に耐え、ついにはこれを、「ギリシアの炎」を使用するなどして撃退し、7世紀最大の危機を克服した。続くバルカン半島におけるアスパルーフ麾下(きか)のブルガリア人の南下に対しては、討伐軍を派遣したが敗れ(680)、第一次ブルガリア王国(~972)の成立を承認せざるをえなかった。バルカン半島における帝国以外の初の独立国であった。宗教的にはコンスタンティノープルで第6回公会議を開催(680~681)し、キリスト単意説を否認し、改めてニカイアの正統信仰を支持し、ローマ教皇と和解した。
[和田 廣]
コンスタンティノス(6世)
こんすたんてぃのす
Konstantinos Ⅵ
(770―797)
ビザンティン帝国皇帝(在位780~797)。レオン4世の長男。父の死後10歳で即位。母エイレーネが摂政(せっしょう)として君臨。彼の治世下、第7回公会議がニカイアに招集され、長期にわたった聖画像崇拝禁止令(730~787)が解かれた。対外的にはアラブ、ブルガリアの侵入に対し高額の貢納金を支払い和平を維持し、国内ではイコノクラスム(聖画像破壊運動)により被害を受けた教会、修道院の再建のため国庫金を費やし、財政は困窮した。一方、成長した青年皇帝は、母の摂政を疎んじるようになり、一時は軍の支持を得て単独皇帝となった(790)。しかし、意志薄弱のうえ、再婚問題で教会の支持を失うに至って孤立。政権欲に駆られた母の手にかかって暗殺された。
[和田 廣]
コンスタンティノス(11世)
こんすたんてぃのす
Konstantinos Ⅺ Palaeologos (Dragases)
(1404―1453)
ビザンティン帝国最後の皇帝(在位1449~53)。パレオロゴス朝のマヌエル2世の四男。1441~49年まで帝国のモレア領の君主。兄ヨハネス8世の病没後即位。帝国領はこのときモレア領のほかは首都コンスタンティノープルおよびその周辺のみで、他はすべてオスマン帝国の支配下にあった。フェッラーラ、フィレンツェの公会議(1438、39)で合意された教会統一宣言の実施のため、ローマ教皇使節が首都に到着した(1452)が、反対運動が激しく実効はあがらず、西欧の軍事援助も得られなかった。防衛軍の10倍の兵力をもって開始されたオスマン帝国のスルタン、メフメット2世の総攻撃に首都は陥落(1453)し、彼も白兵戦に倒れた。
[和田 廣]
コンスタンティノス(7世)
こんすたんてぃのす
Konstantinos Ⅶ
(905―959)
ビザンティン帝国皇帝(在位913~959)。レオン6世の息子。父の死後8歳で即位。38歳で実権を握るまでは母が摂政(せっしょう)となり、義父ロマノス1世が政務をとった。彼の治世下では内外とも比較的平穏な時代が続いたため、彼は生来のギリシア古典学の研究に没頭することができた。自著『バシレイオス1世伝』『わが息子ロマノスへ(通称、帝国統治論)』『テマについて』『ビザンツ宮廷における儀式について』があるほか、『史書抜粋』『続テオファネス年代記』『農学事典』『医学事典』『獣医事典』などを編纂(へんさん)させた。さらにバシリカ法律全集の改訂版を出版させて、マケドニア朝の古典学復興に大きく貢献した。
[和田 廣]
コンスタンティノス(10世)
こんすたんてぃのす
Konstantinos Ⅹ
(?―1067)
ビザンティン帝国皇帝(在位1059~67)。イサキオス1世の退位後、文人政治家プセロスの推挙により即位。首都コンスタンティノープルの都市貴族政権の代表として、軍事派を押さえて反軍国主義を唱え、軍事費を削り、国防を怠り、詩歌や文芸の道を奨励した。そのためバルカン半島ではマジャール人によりベオグラードを占領され(1064)、同年テッサロニキはウズ人に包囲された。また、1065年にはアルメニア(ビザンツ保護領)の中心都市アニがセルジューク・トルコのスルタン、アルプ・アルスラーンにより占領されるに至った。国の東西から外敵の侵入が始まり、マケドニア朝の繁栄は彼の治世下に崩壊するに至る。
[和田 廣]
コンスタンティノス(5世)
こんすたんてぃのす
Konstantinos Ⅴ
(718―775)
ビザンティン帝国皇帝(在位741~775)。レオン3世の長男。父の聖画像崇拝禁止政策を一段と強化し(ヒエライアの教会会議、754)、反対派には極刑をも科した。ローマ教皇はこれに反対し、帝国のラベンナ総督府が751年ランゴバルド人に占領されたこともあり、同年フランクのピピン王と結んだ。ウマイヤ朝からアッバース朝への転換期にあったイスラム勢力に対しては、アルメニア、小アジア、東地中海で攻撃に出て勝利を収めた(752)。だが、ブルガリアのテレツ・ハンに対しては大勝利を博した(763)ものの、続くテレリク・ハンには和議に続く戦闘で大敗し、775年9月14日自らも戦死した。
[和田 廣]