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ロシアのバス歌手。はじめ教会の聖歌隊や地方の小歌劇団で歌っていた。その後,しだいに名声を高めていって,ペテルブルグやモスクワの大歌劇場で歌い,やがて世界的な大歌手として活躍した。豊かにひびく声と劇的表現に独自のものがあった。イタリア・オペラやフランス・オペラでのバスの役がらも得意にしていたが,とくに高い評価をえていたのはロシア・オペラでのバスの役がら,とりわけ《ボリス・ゴドゥノフ》のタイトル・ロールであった。レコードも数多く残されているが,そこではまさにシャリアピンならではの独自の個性的な表現をきくことができる。さらに演技者としても秀でていたので映画にも出演した。1922年以降,ソ連にはもどらず,35年にニューヨークでの演奏会を最後に引退,36年に来日。パリで没したが,84年,遺骨は故国に迎えられた。
執筆者:黒田 恭一
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ロシアのバス歌手。カザンの貧しい家庭に生まれ、ほとんど独学で声楽を習得。教会の聖歌隊や地方の小歌劇団で歌ったのち、ペテルブルグのマリンスキー劇場を経て、1896年以後モスクワで『ボリス・ゴドゥノフ』などのオペラに出演、名声を確立した。89年から1914年までボリショイ劇場専属歌手を務めながらミラノのスカラ座をはじめ欧米の主要歌劇場で歌った。18年以後マリンスキー劇場の芸術監督。22年パリに移住、以後西欧中心に活躍し、36年(昭和11)来日。広い声域とレパートリーを有したが、とくに『ボリス・ゴドゥノフ』などのロシア・オペラに、深い人間味と豊かな芸術性を備えた解釈を示した。衣装、演出なども手がけ、『ドン・キホーテ』などの映画にも出演し、パリに没した。
[美山良夫]
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…作曲者の死(1881)後,まもなく上演曲目から外されたが,96年にリムスキー・コルサコフが全面的に改訂した版を出版した。シャリアピンがボリスを当り役として世界的に親しまれるようになった。1928年に原典版の出版もあったが,現在でも一般にはリムスキー・コルサコフの版が基本になっている。…
… 円盤式レコードの本格的な商品化は94年末以降であるが,円盤式は大量生産性と,取扱いや保管の容易さで,円筒式とのはげしい競争に打ち勝っていった。イギリス・グラモフォン社のプロデューサー,ガイズバーグFred Gaisbergが行った1901年のシャリアピンの録音,さらに02年のカルーゾーの録音のそれを上回る成功は,オペラ歌手による声楽録音の全盛時代をもたらした。器楽の録音はピアノやバイオリン独奏の小品が主であった。…
※「シャリアピン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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