ポーランド南西部,オーデル(オドラ)川上・中流に広がる地方名。ポーランド経済,とくに鉱工業の大中心地。シロンスクの大部分はポーランドに属するが,一部はチェコ領となっている。チェコ名はスレスコSlezsko。ドイツ文化圏で発展した地方で,その影響は都市の建造物その他にうかがわれる。ドイツ名はシュレジエンSchlesien,英語ではシレジアSilesia。
地形的には,南はズデーテン山地とベスキド山地を境とし,東はクラクフ・チェンストホバ高地によってガリツィア地方に接する。オーデル川上流はズデーテン山地を横切り,〈モラビア門〉Moravská Bránaをなしている。モラビア門は古くからヨーロッパ南北を結ぶ通商路で交通上の要衝である。
シロンスクは古くからの大都市ブロツワフ(人口64万,2004)を中心とする下シロンスクとオポーレ(13万),カトビツェ(32万)を中心とする上シロンスクに分けられる。前者は肥沃なオーデル川中流域の平野とズデーテン山脈北斜面からなり,ジャガイモ,小麦,大麦,ビートなどを産する穀倉地帯で,畜産も盛んである。ブロツワフは機械金属工業,繊維工業の大工業都市で,また学術・文化の中心である。上シロンスクは19世紀末以来炭田開発が急速に進められ,現在ヨーロッパ第一の炭田地帯となった。石炭,鉄鉱石,亜鉛など豊富な地下資源を利用して急速に工業化が進められ,各種の金属機械工業が発展した。上シロンスク工業地帯(GOP)とよばれる重化学工業都市群が形成され,ポーランド工業の核心部の役割を果たしている。両シロンスクの主要都市として先の3都市のほか,ソスノビエツ(23万),グリビツェ(20万),ザブジェ(20万),バウブジフ,ジェローナ・グーラ(12万)などがある。
執筆者:山本 茂
シュレジエンの地名は,前300年ころから後350年ころまでオーデル川一帯に定住したバンダルWandal族の一部族の名称ジーリンゲンSilingenに由来する。その後6世紀にはスラブ人が居住するようになり,10世紀にはポーランドの支配下に入った。12世紀にブレスラウ公国とラティボール公国の2公国が形成され,13世紀以来,諸公の積極的なドイツ人植民政策によってドイツ化が進むとともに,中心都市ブレスラウ(現,ブロツワフ)は栄え,商工業や鉱業が発達した。そして14世紀にはポーランド王の支配から脱して,ボヘミア王ついで1526年以降はハプスブルク家の宗主権に服することになった。18世紀に入るとプロイセンのフリードリヒ大王が資源に富むこの地域の領有をめざしてオーストリアとの間に3次にわたるシュレジエン戦争(1740-42年,44-45年,56-63年)を敢行し,その結果,下シュレジエン,上シュレジエンの大部分およびグラーツ伯領がプロイセン領となった。大王の統治下で内地植民や鉱工業振興政策により,経済的に躍進をとげるが,反面フランス革命とナポレオンの大陸征覇の時期には,亜麻織物の輸出不振に悩む織布工や不徹底な農業改革に不満をもつ農民たちの大規模な蜂起が起こった。さらに,1815年以降は,オーバーラウジッツの大部分を合併し,製鉄業,石炭鉱業や織布業を擁する東部随一の工業地帯となったが,工業化に伴う社会問題の激化は,44年の有名なシュレジエン織工一揆となって表面化した。また48年の三月革命期には,東部プロイセンのユンカーが支配する保守的農業地帯の中では,例外的に激しい農民運動が都市の急進民主主義運動との連携のもとに展開された。第1次世界大戦後は,ポーランド人とドイツ人が混住する上シュレジエンの帰属について人民投票が行われ,60%はドイツ側に投票したが,連合国側は上シュレジエンの工業地帯をポーランド領とした。さらに,第2次世界大戦後は,ドイツ領シュレジエンもナイセ川西岸のわずかな地域を除いてポーランド領となった。その結果,シュレジエンのドイツ系住民は,1945-46年の下シュレジエンからの140万人の逃亡をピークに,大挙して東・西ドイツへ移住,その総数は300万人以上にのぼっている。当初ポーランドとドイツの間のオーデル・ナイセ両川の国境線を認めなかった西ドイツも,70年のポーランドとの国交正常化条約でこれを承認するにいたった.
執筆者:末川 清
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