スターリング(読み)すたーりんぐ(英語表記)James Stirling

デジタル大辞泉 「スターリング」の意味・読み・例文・類語

スターリング(Stirling)

英国スコットランド中部の都市。フォース川沿いに位置する。スコットランドとイングランドの戦いが何度も行われた。かつてスコットランド王国の首都が置かれ、旧市街にはスターリング城ホリールード教会などの歴史的建造物が多い。

スターリング(sterling)

英国貨幣のこと。→ポンド2

スターリング(starring)

演劇・映画の主役。主演。

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精選版 日本国語大辞典 「スターリング」の意味・読み・例文・類語

スターリング

  1. ( Ernest Henry Starling アーネスト=ヘンリー━ ) イギリスの生理学者。ロンドン大学教授。生理過程の物理化学的解明に努める。また、心臓に関する「スターリングの法則」などの研究がある。「ホルモン」の語の提唱者。主著「人体生理学原理」。(一八六六‐一九二七

スターリング

  1. 〘 名詞 〙 ( [英語] sterling ) イギリスの法定通貨の略称。正式にはポンド‐スターリングという。スターリング貨。〔モダン辞典(1930)〕

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「スターリング」の意味・わかりやすい解説

スターリング(James Stirling)
すたーりんぐ
James Stirling
(1926―1992)

イギリスの建築家。グラスゴーに生まれる。1942年リバプール美術学校入学後、陸軍に従軍し、1944年、第二次世界大戦の連合軍によるノルマンディー上陸作戦に参加した。戦後、軍の奨学金で建築を学ぶ。1945年、リバプール大学建築学科に入学し、C・ローの指導を受ける。1949年、交換留学生としてアメリカに滞在。1950年、リバプール大学を卒業。1953年までロンドンの都市計画の専門学校で学ぶ。1953年、ライオンズ・イズラエル・アンド・エリス事務所に入所。この前後、各地のル・コルビュジエの建築作品をまわる旅を行う。1956年、ジェームズ・ガウワンJames Gowan(1923―2015)と事務所を開設。1963年まで共同し、1964年から個人で設計活動を始める。1971年以降、マイケル・ウィルフォードMichael Wilford(1938―2023)と共同する。

 スターリングは、戦後のイギリス建築界において指導的な役割を果たした。近代的なデザインでありながら、伝統的なモチーフを参照したり、生涯を通じて幾度か作風を大きく変化させた。折衷主義的な傾向をもつ1950年代は、住宅作品を手がけた。ハムコモン・フラット(1957、ロンドン)は、ル・コルビュジエのジャウル邸(1955、パリ)の影響を受け、伝統的な素材である煉瓦(れんが)と近代的なコンクリートを共存させている。こうしたデザインは、ニュー・ブルータリズム(素材を生かした荒々しい造形を特徴とする建築の作風)であると指摘された。

 1960年代に手がけたレスター大学ほかの大学施設の建築によって、スターリングは一躍有名になる。レスター大学工学部(1963)は、ピロティがある細長いタワーの管理棟や鋸歯(きょし)状のガラス屋根の実習棟をもち、その大胆なデザインはロシア構成主義や未来派のほか、第二次世界大戦前のイギリスの工場を参照している。ケンブリッジ大学歴史学部図書館(1967)はイギリスの気候を考慮し、大きなガラスの吹き抜けの閲覧室をもつ。オックスフォード大学を含め、一連の大学施設では、コンクリートの仕上げに煉瓦を使い、合理的なプログラムのなかに懐かしさを感じさせる機械のイメージを建築に投影した。

 1970年代の前半は、ハイテク・デザインを展開し、オリベッティ・トレーニング・センター(1972、バッキンガムシャー県)では、プラスチック・パネルを活用する。

 1975年、デュッセルドルフとケルンの二つの美術館のコンペに参加し、立地の文脈を意識した設計を行う。1970年代後半からドイツに加え、アメリカの大学など、海外のプロジェクトにもかかわる。

 1980年代以降は、ポスト・モダン的なデザインを開花させ、色使いもカラフルである。シュトゥットガルトの美術館(1984)では、19世紀の美術館を含む周囲の環境を考慮しており、シンケルの建築作品などから歴史的な要素を積極的に引用し、古典主義からハイテクまで過去と現在をコラージュした。ベルリン科学センター(1988)では、半円形のアリーナ棟や細長い柱廊など、伝統的な建築を抽象化したさまざまな形態を激しく衝突させている。これはビラ・アドリアーナ(イタリア中部のチボリにあるハドリアヌス帝の別荘。2世紀)の複雑な建築の構成を想起させる。

 ロンドンのAAスクール(Architectural Association School)、ケンブリッジ大学、エール大学などで教鞭をとる。プリツカー賞、アーノルド・ブルンナー記念建築賞、アルバ・アールト賞、RIBA(英国王立建築家協会)ロイヤル・ゴールド・メダル、ドイツ建築家協会名誉賞受賞。ベルリン芸術アカデミー名誉会員。そのほかの主な建築作品に老人の家(1964、ロンドン)、子どもの家(1964、ロンドン)、オリベッティ本社プロジェクト(1971、バッキンガムシャー県)、ランコーン・ニュータウンの集合住宅(1974、チェシャー県)、ライス大学建築学部増築(1981、アメリカ、テキサス州)、テート美術館のクロア・ギャラリー(1986、ロンドン)など。著書に『James Stirling』(共著、1983)などがある。

[五十嵐太郎]

『ジョン・ジェコブス文、石井和紘・難波和彦共訳『ジェームズ・スターリング作品集』(1975・エーディーエー・エディタ・トーキョー)』『小川守之訳『ジェームズ・スターリング――ブリティッシュ・モダンを駆け抜けた建築家』(2000・鹿島出版会)』『Maxwell Stiring, James StiringJames Stiring (1983, St. Martin's Press, New York)』『Robert Maxwell, Michael Wilford, Thomas MuirheadJames Stirling , Michael Wilford , and Associates ; Buildings & Projects, 1975-1992 (1994, Thames & Hudson, London)』『Mark GirouardBig Jim; The Life and Work of James Stirling (1998, Chatto & Windus, London)』


スターリング(Ernest Henry Starling)
すたーりんぐ
Ernest Henry Starling
(1866―1927)

イギリスの生理学者。1889年ロンドンのガイ病院附属医学校の生理学講師となり、1899年から1923年までロンドン大学の生理学教授を務めた。1902年ベーリスWilliam Maddock Bayliss(1860―1924)と共同研究で、十二指腸の粘膜から分泌されるセクレチンが血液に吸収されて、膵液(すいえき)と胆汁の分泌を促すことを発見した。1905年スターリングはこのような内分泌物質を「ホルモン」と総称することを提案した。「ホルモン」はギリシア語で「呼び覚ますもの」の意で、体内に眠っている機能を呼び覚まし、活動をおこさせるものを意味する。また彼は、動物実験によって「心臓のスターリング法則」を発表した。心室へ流入する血液量が多くなれば、それだけ心室の張力が増大して、1回の血液拍出量も増加し、血液の過度の貯留のためにおこる循環障害を防ぐことができるというのである。主著に『人体生理学原理』(1912)がある。1911年(明治44)に来日した。

[古川 明]


スターリング(イギリス)
すたーりんぐ
Stirling

イギリス、スコットランド中部の都市。人口3万0791(1997推計)。エジンバラの北西59キロメートル、フォース川中流右岸に位置する。市名は「戦闘の場」を意味するゲール語に由来する。農牧業地域の中心として重要で、農業関連産業が立地するほか、長い間スコットランド高地地域への拠点であった。旧市街には、スチュアート家のスコットランド王の居城となったスターリング城、ゴシック様式のホーリールード教会などの古い建物が多く、新市街の発達は19世紀以降にみられた。スターリング大学がある。

[米田 巌]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「スターリング」の意味・わかりやすい解説

スターリング
Stirling

イギリススコットランド中部の単一自治体(カウンシルエリア council area)。行政府所在地スターリング。1975年の自治体再編でセントラル県の一地区となり,1996年に単一自治体となった。カトリン湖とフォース川の南岸は旧スターリングシャー県に,北部は旧パースシャー県に属する。西部はローモンド湖に面し,低地と高地を分けるハイランド境界断層が北部と西部を走る。フォース川の右岸に位置する河港都市スターリングは,丘陵上の城を中心に発展した町で,12世紀に勅許都市となり,1226年スコットランド王アレクサンダー2世により城が王城とされた。1314年南郊のバノックバーンロバート1世ブルースエドワード2世のイングランド軍を破り,スコットランドの独立を確立。その後 16世紀半ば頃までスコットランドの主要都市の一つとして繁栄し,城も王の居城となったが,1603年スコットランド王ジェームズ6世(→ジェームズ1世)がイングランド王位を継承してからは重要性を失った。今日では金融の中心地。北部と西部の農村部では,肉牛の飼育と酪農が盛ん。南東部の沖積低地では穀物の栽培や畜産が営まれる。南東部に炭田があり 19世紀に重工業が発達したが,ほぼ枯渇状態にあり,サービス業が主となっている。景観に優れた高地では観光が最も重要。電子機器,製紙,酒造などの工業も立地する。面積 2187km2。人口 8万7810(2006推計)。

スターリング
Sterling, Bruce

[生]1954.4.14. ブラウンズビル,テキサス
アメリカ合衆国のSF作家。 1980年代中盤にサイバーパンクの旗手として登場した。『ミラーシェード』 Mirrorshades: The Cyberpunk Anthology (1986) の編者としても有名。 1976年テキサス大学卒業後,アンソロジー『ローン・スター・ユニバース』 Lone Star Universeに"Man-Made Self"を発表してデビュー。最初の長編小説『塵クジラの海』 Involution Ocean (1977) は,ジストピア (暗黒郷) となった星を舞台に,麻薬におぼれることで混迷する人生から逃避しようとする住民たちの冒険を描いた。長編小説『スキズマトリックス』 Schismatrix (1985) では,自分自身を遺伝子的に改造するシェイパー (生体工作者) と人工的な装置を用いて改造するメカニスト (機械主義者) との相対する哲学を考察した。ほかに巨大情報ネットワークを扱った『ネットの中の島々』 Islands in the Net (1988) ,ノンフィクション『ハッカーを追え!』 The Hacker Crackdown: Law and Disorder on the Electronic Frontier (1992) などがある。ウィリアム・ギブソンとの共著『ディファレンス・エンジン』 The Difference Engine (1990) は,19世紀のコンピュータ時代の隆盛を想像した作品。

スターリング
Stirling, James

[生]1692. ガードン
[没]1770.12.5. エディンバラ
イギリスの数学者。オックスフォード大学に入ったが (1711) ,入学の宣誓をせず,1715年には,大学で研究生活を続けて学者となるのに必要な宣誓も拒絶してオックスフォードを去り,ついに卒業しなかった。その年,友人の紹介でベネチアに行って数学を教えた。 18年,ニュートンを通してロイヤル・ソサエティに最初の論文『ニュートンの微分法』を提出した。これは翌年のロイヤル・ソサエティ機関誌に掲載され,数学者としての彼の名が広く世に知られた。 24年中頃,彼はスコットランドに帰り,数ヵ月後にロンドンに落ち着いた。 26年,ニュートンの推薦でロイヤル・ソサエティ会員となり,同じ年,Little Tower Street Academyという学校で教えるようになった。 30年『微分法,無限級数の求和と補間についての説明付き』を出版するが,これは彼の最大の業績で,この本には,ニュートン=スターリングの中心差分公式や階乗の近似値を求めるためのスターリングの公式,第1種,第2種のスターリング数などが記されている。 35年,Scottish Mining Companyという鉱山会社の改革と管理を頼まれ,以後エネルギーの大部分をこの鉱山事業に費やす。 46年に C.マクローリンが死んだため,エディンバラ大学の数学の教授席が空いたが,彼がジャコバイト派であったため,跡を継ぐことができなかった。

スターリング
Stirling, Sir James

[生]1926.4.22. グラスゴー
[没]1992.6.25. ロンドン
イギリスの建築家。フルネーム Sir James Frazer Stirling。1950年リバプール大学建築学部卒業。1956年に建築設計事務所を設立。1956~63年はジェームズ・ゴワン,1971年以降はマイケル・ウィルフォードとパートナーを組む。1960年代はレスター大学工学部(1959~63),ケンブリッジ大学歴史学部(1967)など大学建築の設計が多く,ガラスと煉瓦を組み合わせた荒々しい表現がみられる。1970年代はケルン美術館(1975)など美術館計画を多く発表,シュツットガルト国立美術館新館(1977~84),クローギャラリー(1987)ではコンテクチュアリズムによる表現を追求した。1980年にイギリス王立建築家協会金賞,1981年にプリツカー賞を受賞。1992年建築学への貢献によりナイトの称号を受けた。

スターリング
Starling, Ernest Henry

[生]1866.4.17. ロンドン
[没]1927.5.2. キングストンハーバー
イギリスの生理学者。 1889~99年ロンドンのガイ病院講師。 1900年ユニバーシティ・カレッジ生理学教授。 02年以来 W.ベーリスとともに十二指腸粘膜の上皮細胞から分泌されるセクレチンが膵液の分泌を促進することを証明,このように特定の組織から血液中に分泌され,遠隔の器官に働く物質をホルモンと命名して,ホルモン学の基礎を築いた。また 24年 E.バネーと,腎臓尿細管が水分を再吸収することを証明した。心臓の拍出量が収縮前の弛緩期の心室容積に応じて,増加または減少することを証明した心臓法則は有名である。 11年に来日した。

スターリング
Stirling, Sir James

[生]1791
[没]1865.4.22.
イギリスの提督。 1803年イギリス海軍に入り,西インドなどで勤務,次いで 28年から 10年間西オーストラリアの植民地司令官,総督をつとめた。 53年クリミア戦争が起ると中国・東インド艦隊司令官として出動,日本近海のロシア艦隊を追って長崎に入港,幕府と折衝して日英約定7ヵ条 (日英和親条約) を 54年 10月 14日 (安政1年8月 23日) に締結,長崎,箱館2港を開かせた。

スターリング
Stirling, James Hutchinson

[生]1820.6.22. グラスゴー
[没]1909.3.19. エディンバラ
イギリスの哲学者。イギリスにおける新理想主義の先駆者。最初,医者であったが,哲学に転じ,イギリスに初めてヘーゲル哲学を紹介,イギリスにおけるその研究の中心者となった。主著『ヘーゲルの秘密』 The Secret of Hegel (1865) 。

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改訂新版 世界大百科事典 「スターリング」の意味・わかりやすい解説

スターリング
Stirling

イギリス,スコットランド中部,セントラル州(旧,スターリング州)の州都。人口3万8600(1981)。市名はゲーリック語で〈川の淵〉の意。フォース湾の湾奥,フォース川中流右岸に位置し,ハイランド地方への入口にあたるため,スコットランド史で重要な役割を演じてきた古都である。現在はフォース川流域の肥沃な農業地帯を後背地として,食品,毛織物,農業機械などの工業が発達する。また近くにはイースト・ファイフ炭田がある。もとはピクト人の集落であったが,12世紀までに城が建設されて,1119年王立都市となった。その後エドワード1世の遠征などにより数度イングランドの手に落ちたが,1339年から1568年まではエジンバラに代わってしばしばスコットランド王国の首都となった。城は丘陵上にあり,宮殿やゴシック式の議事堂が残っている。このほかメアリー・スチュアートが即位したホーリー・ルード教会や,デービッド1世の創建になる12世紀のカンバスケネス修道院など歴史的建築物が多い。
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朝日日本歴史人物事典 「スターリング」の解説

スターリング

没年:1865.4.22(1865.4.22)
生年:1791
幕末日英約定を締結したイギリス海軍提督。スコットランド生まれ。1803年海軍に入り,西インド諸島海域を初めとし1818年まで軍務に服す。26年オーストラリア北東部での植民地建設を担当,その成功により西部の植民地化を任され,初代西オーストラリア知事となる。40年現役復帰し地中海艦隊で活躍。54年1月から56年2月まで東インドシナ海艦隊司令長官,62年海軍大将に累進。この間54年クリミア戦争の拡大に伴いイギリス艦船の日本諸港への出入許可を求めて長崎に来航,安政1(1854)年8月23日日英間初の公式協約日英約定の調印に至る。翌年批准書交換と長崎,箱館視察のため再度来日。制限的条文の拡大解釈での日本側との合意は不成立に終わったが,箱館はイギリスの対露作戦基地としての利用価値を十二分に発揮した。安政1年長崎での交渉妥結に当たり,イギリス女王から将軍へのヨット贈呈を約束。外務省の追認を受け,蒸気発動機付きの立派なヨット,エンペラー号が特別に建造され,安政5年日英修好通商条約調印直後幕府に引き渡され,蟠竜丸と命名された。

(廣瀬靖子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「スターリング」の解説

スターリング Stirling, Sir James

1791-1865 イギリスの軍人。
イギリス海軍東インド艦隊司令長官として嘉永(かえい)7年(1854)長崎に入港,幕府とのあいだで日英約定(日英和親条約)7条を締結。長崎,箱館の2港を開港させた。1862年海軍大将。1865年4月22日死去。74歳。

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FX用語集 「スターリング」の解説

スターリング

外ポンドの別名です。ポンドは欧州通貨ですが、ユーロには参加せずに独立した通貨となっています。対円でみると、為替レートの変動が比較的大きいため、「仕手株っぽい」といわれることもあります。

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世界大百科事典(旧版)内のスターリングの言及

【オーストラリア】より

… 初期のニュー・サウス・ウェールズ入植地ではエマンシピストEmancipist(満期出獄した元流刑囚)とエクスクルージョニストExclusionistの対立が目だった。1840年代に入って元流刑囚とカレンシー・ラッドcurrency lad(イギリス本国生れをスターリングsterlingと呼んだのに対して,植民地生れをこう呼んだ。流刑囚の子弟が多い)の数が自由移民を上回ると,この対立はスクオッター(大牧場主)と小農場主および毛刈職人などの移動労働者との対立に転化し,51年に始まるゴールドラッシュによる人口急増でいっそう拍車がかかった。…

※「スターリング」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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