イギリスの建築家。グラスゴーに生まれる。1942年リバプール美術学校入学後、陸軍に従軍し、1944年、第二次世界大戦の連合軍によるノルマンディー上陸作戦に参加した。戦後、軍の奨学金で建築を学ぶ。1945年、リバプール大学建築学科に入学し、C・ローの指導を受ける。1949年、交換留学生としてアメリカに滞在。1950年、リバプール大学を卒業。1953年までロンドンの都市計画の専門学校で学ぶ。1953年、ライオンズ・イズラエル・アンド・エリス事務所に入所。この前後、各地のル・コルビュジエの建築作品をまわる旅を行う。1956年、ジェームズ・ガウワンJames Gowan(1923―2015)と事務所を開設。1963年まで共同し、1964年から個人で設計活動を始める。1971年以降、マイケル・ウィルフォードMichael Wilford(1938―2023)と共同する。
スターリングは、戦後のイギリス建築界において指導的な役割を果たした。近代的なデザインでありながら、伝統的なモチーフを参照したり、生涯を通じて幾度か作風を大きく変化させた。折衷主義的な傾向をもつ1950年代は、住宅作品を手がけた。ハムコモン・フラット(1957、ロンドン)は、ル・コルビュジエのジャウル邸(1955、パリ)の影響を受け、伝統的な素材である煉瓦(れんが)と近代的なコンクリートを共存させている。こうしたデザインは、ニュー・ブルータリズム(素材を生かした荒々しい造形を特徴とする建築の作風)であると指摘された。
1960年代に手がけたレスター大学ほかの大学施設の建築によって、スターリングは一躍有名になる。レスター大学工学部(1963)は、ピロティがある細長いタワーの管理棟や鋸歯(きょし)状のガラス屋根の実習棟をもち、その大胆なデザインはロシア構成主義や未来派のほか、第二次世界大戦前のイギリスの工場を参照している。ケンブリッジ大学歴史学部図書館(1967)はイギリスの気候を考慮し、大きなガラスの吹き抜けの閲覧室をもつ。オックスフォード大学を含め、一連の大学施設では、コンクリートの仕上げに煉瓦を使い、合理的なプログラムのなかに懐かしさを感じさせる機械のイメージを建築に投影した。
1970年代の前半は、ハイテク・デザインを展開し、オリベッティ・トレーニング・センター(1972、バッキンガムシャー県)では、プラスチック・パネルを活用する。
1975年、デュッセルドルフとケルンの二つの美術館のコンペに参加し、立地の文脈を意識した設計を行う。1970年代後半からドイツに加え、アメリカの大学など、海外のプロジェクトにもかかわる。
1980年代以降は、ポスト・モダン的なデザインを開花させ、色使いもカラフルである。シュトゥットガルトの美術館(1984)では、19世紀の美術館を含む周囲の環境を考慮しており、シンケルの建築作品などから歴史的な要素を積極的に引用し、古典主義からハイテクまで過去と現在をコラージュした。ベルリン科学センター(1988)では、半円形のアリーナ棟や細長い柱廊など、伝統的な建築を抽象化したさまざまな形態を激しく衝突させている。これはビラ・アドリアーナ(イタリア中部のチボリにあるハドリアヌス帝の別荘。2世紀)の複雑な建築の構成を想起させる。
ロンドンのAAスクール(Architectural Association School)、ケンブリッジ大学、エール大学などで教鞭をとる。プリツカー賞、アーノルド・ブルンナー記念建築賞、アルバ・アールト賞、RIBA(英国王立建築家協会)ロイヤル・ゴールド・メダル、ドイツ建築家協会名誉賞受賞。ベルリン芸術アカデミー名誉会員。そのほかの主な建築作品に老人の家(1964、ロンドン)、子どもの家(1964、ロンドン)、オリベッティ本社プロジェクト(1971、バッキンガムシャー県)、ランコーン・ニュータウンの集合住宅(1974、チェシャー県)、ライス大学建築学部増築(1981、アメリカ、テキサス州)、テート美術館のクロア・ギャラリー(1986、ロンドン)など。著書に『James Stirling』(共著、1983)などがある。
[五十嵐太郎]
『ジョン・ジェコブス文、石井和紘・難波和彦共訳『ジェームズ・スターリング作品集』(1975・エーディーエー・エディタ・トーキョー)』▽『小川守之訳『ジェームズ・スターリング――ブリティッシュ・モダンを駆け抜けた建築家』(2000・鹿島出版会)』▽『Maxwell Stiring, James StiringJames Stiring (1983, St. Martin's Press, New York)』▽『Robert Maxwell, Michael Wilford, Thomas MuirheadJames Stirling , Michael Wilford , and Associates ; Buildings & Projects, 1975-1992 (1994, Thames & Hudson, London)』▽『Mark GirouardBig Jim; The Life and Work of James Stirling (1998, Chatto & Windus, London)』
イギリスの生理学者。1889年ロンドンのガイ病院附属医学校の生理学講師となり、1899年から1923年までロンドン大学の生理学教授を務めた。1902年ベーリスWilliam Maddock Bayliss(1860―1924)と共同研究で、十二指腸の粘膜から分泌されるセクレチンが血液に吸収されて、膵液(すいえき)と胆汁の分泌を促すことを発見した。1905年スターリングはこのような内分泌物質を「ホルモン」と総称することを提案した。「ホルモン」はギリシア語で「呼び覚ますもの」の意で、体内に眠っている機能を呼び覚まし、活動をおこさせるものを意味する。また彼は、動物実験によって「心臓のスターリング法則」を発表した。心室へ流入する血液量が多くなれば、それだけ心室の張力が増大して、1回の血液拍出量も増加し、血液の過度の貯留のためにおこる循環障害を防ぐことができるというのである。主著に『人体生理学原理』(1912)がある。1911年(明治44)に来日した。
[古川 明]
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イギリス,スコットランド中部,セントラル州(旧,スターリング州)の州都。人口3万8600(1981)。市名はゲーリック語で〈川の淵〉の意。フォース湾の湾奥,フォース川中流右岸に位置し,ハイランド地方への入口にあたるため,スコットランド史で重要な役割を演じてきた古都である。現在はフォース川流域の肥沃な農業地帯を後背地として,食品,毛織物,農業機械などの工業が発達する。また近くにはイースト・ファイフ炭田がある。もとはピクト人の集落であったが,12世紀までに城が建設されて,1119年王立都市となった。その後エドワード1世の遠征などにより数度イングランドの手に落ちたが,1339年から1568年まではエジンバラに代わってしばしばスコットランド王国の首都となった。城は丘陵上にあり,宮殿やゴシック式の議事堂が残っている。このほかメアリー・スチュアートが即位したホーリー・ルード教会や,デービッド1世の創建になる12世紀のカンバスケネス修道院など歴史的建築物が多い。
執筆者:長谷川 孝治
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(廣瀬靖子)
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… 初期のニュー・サウス・ウェールズ入植地ではエマンシピストEmancipist(満期出獄した元流刑囚)とエクスクルージョニストExclusionistの対立が目だった。1840年代に入って元流刑囚とカレンシー・ラッドcurrency lad(イギリス本国生れをスターリングsterlingと呼んだのに対して,植民地生れをこう呼んだ。流刑囚の子弟が多い)の数が自由移民を上回ると,この対立はスクオッター(大牧場主)と小農場主および毛刈職人などの移動労働者との対立に転化し,51年に始まるゴールドラッシュによる人口急増でいっそう拍車がかかった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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