日本大百科全書(ニッポニカ) 「スペイン映画」の意味・わかりやすい解説
スペイン映画
すぺいんえいが
スペインでは長年にわたり、大衆的軽歌劇「サルスエラ」に基づく通俗的な歌謡映画が広く親しまれてきたが、それらの多くは国際的に知られることはなかった。対照的に高く評価されてきたのは、長らく国外で活動していた監督ルイス・ブニュエルの作品である。彼がスペインで発表した作品は『糧(かて)なき土地』(1932)、『ビリディアナ』(1961)、『哀(かな)しみのトリスターナ』(1970)の3本しかないが、どれにも、深い宗教的感情、それと表裏一体をなす人間への残酷なまなざし、貧困や身体的欠陥への強い関心、生や死をめぐる豊かな想像力など、映画ばかりでなく、ほかのスペイン芸術全般に広く及ぶ特徴が認められる。
スペイン映画は、リュミエール兄弟が映画を公開した翌年の1896年に早くもつくられ始めた。初期の重要な映画人にはセグンド・デ・チョモンSegundo de Chomón(1871―1929)がいる。フランスのメリエスのようなトリック撮影と奇想に満ちた映画をつくって評判をよび、のちにイタリアやフランスなどで撮影スタッフとしても活躍した。しかし、国力、経済力の弱さから、その後スペイン映画は長らく停滞し、さらにトーキー時代に入っては1936年に始まるスペイン内戦が発展を妨げた。
芸術的作品が国際的舞台に登場するのは、ルイス・ガルシア・ベルランガLuis García Berlanga(1921―2010)の『ようこそマーシャルさん』(1952)、『カラブッチ』(1956)や、ファン・アントニオ・バルデムJuan Antonio Bardem(1922―2002)の『役者たち』(1954)、『恐怖の逢(あい)びき』(1955)、『大通り』(1956)など、イタリアのネオレアリズモに通じる作風の2監督の作品が評価されたころである。ハンガリー出身のラディスラオ・バホダLadislao Vajda(1905―1965)の『汚(けが)れなき悪戯(いたずら)』(1955)は日本でも公開されて評判をよび、スペイン映画へ日本人の関心を向けさせた。だがフランコ政権下の厳しい検閲などのため、スペイン映画はその後停滞し、むしろ人件費の低さ、荒れ地の多い風土などから、ハリウッド資本によるアメリカ映画の、ヨーロッパでの撮影地として利用された。
1960年代になると、1930年代にハリウッドを経てメキシコへ去り、そこに腰を据えてしまったブニュエルが、ヨーロッパに戻りフランスを中心に活動し始めた。スペインでもちょうどブニュエルに対応するように、カルロス・サウラが『狩り』(1965)、『いとこアンヘリカ』(1973)、『カラスの飼育』(1975)などで名をあげた。サウラは以後、スペイン映画の中心的な存在として活躍を続けた。1980年代には、『血の婚礼』(1981)、『カルメン』(1983)、『恋は魔術師』(1985)、『エル・ドラド』(1987)など世界に広く知られた題材や歴史を通じてスペイン文芸のなかに描かれてきたスペイン人の情熱を掘り下げ、1990年代以降も『フラメンコ』(1995)、『タンゴ』(1998)、『ゴヤ』(1999)、『サロメ』(2002)などで、舞踏の伝統に関心を深め、『イベリア 魂のフラメンコ』(2005)では、監督だけでなく、美術まで担当している。
1970年代のスペインでは、サウラに促されるように、しだいに新しい監督が登場するようになった。とくに1975年のフランコ将軍の死以降に起こった政治制度の変革をきっかけに国家的な映画振興策が実施され、スペイン映画の新時代が開かれた。ビクトル・エリセ、ハイメ・デ・アルミニャンJaime de Armiñán(1927―2024)、マリオ・カムスMario Camus(1935―2021)、マヌエル・グティエレス・アラゴンManuel Gutiérrez Aragón(1942― )、リカルド・フランコRicardo Franco(1949―1998)らが国際舞台に登場した。エリセは『ミツバチのささやき』(1973)、『エル・スール』(1983)、『マルメロの陽光』(1993)と、寡作ななかで対象を凝視した味わい深い作品を発表した。
1980年代後半には、次の世代が台頭した。なかでもペドロ・アルモドバルは『マタドール』(1985)、『バチ当たり修道院の最期』(1983)、『ハイヒール』(1991)など、性や風俗を通してモラルの変化を描いた作品を精力的に発表し、早くから国際的に知られるようになった。その後、『ライブ・フレッシュ』(1997)、『オール・アバウト・マイ・マザー』(1999)と自伝的な題材を深め、さらに『トーク・トゥー・ハー』(2002)、『バッド・エデュケーション』(2004)、多くの女優がにぎにぎしく出演する『ボルベール〈帰郷〉』(2006)などで、名声をほしいままにしている。
このほかにも『ハモンハモン』(1992)、『裸のマハ』(1999)のビガス・ルナBigas Luna(1946―2013)、『死んでしまったら誰(だれ)も私のことなんか話さない』(1995)のアウグスティン・ディアス・ヤネスAgustín Díaz Yanes(1950― )、『ラテンボーイズ・ゴー・トゥ・ヘル』(1997)のエラ・トロヤーノEla Troyano(1958― )、『イフ・オンリー』(1997)のマリア・リポルMaría Ripoll(1964― )らが活躍している。
アルモドバルに続く世代では、アレハンドロ・アメナバルAlejandro Amenábar(1972― )が、『オープン・ユア・アイズ』(1997)、『海をとぶ夢』(2004)など発表し、後者でアメリカのアカデミー外国語映画賞を受賞した。
1990年代以降目だつのは、娯楽映画で新しい題材が伝統的な歌謡映画などにとってかわったことである。1998年に第一作が大ヒットしてシリーズ化されたアクションもの『トレンテ』(主演・脚本サンティアゴ・セグーラSantiago Segura(1965― ))などのハリウッド並みの大作やアレックス・デ・ラ・イグレシアAlex de la Iglesia(1965― )の『ビースト 獣の日』(1995)などに代表されるホラー映画が国際的にも知られるようになってきた。その他ギレルモ・デル・トロGuillermo Del Toro(1964― )の『パンズ・ラビリンス』(2006)に代表されるように、メキシコをはじめとするラテンアメリカ諸国との共作も21世紀に入り増えだしている。こうした動きを反映して、日本でも2000年代以降、毎年コンスタントに10本から20本のスペイン映画が公開されており、1980年代までの年に数本の映画が公開されただけの時期とは大きくようすが変わっている。
娯楽映画以外の題材としては、ビセンテ・アランダVicente Aranda(1926―2015)の『アマンテス 愛人』(1991)、ホセ・ルイス・クエルダJosé Luis Cuerda(1947―2020)の『蝶(ちょう)の舌』(1999)、マルコス・スリナガMarcos Zurinaga(1952― )の『ロルカ 暗殺の丘』(1997)、マヌエル・ウエルガManuel Huerga(1957― )の『サルバドールの朝』(2006)などのように、人民戦線、フランコ時代が繰り返し題材に取り上げられ、いまなお問題作を生む源となっている。イギリスの監督ケン・ローチKen Loach(1936― )も、スペイン内戦時に人民戦線に参加した青年を描く『大地と自由』(1995)をスペインで製作したことがきっかけで、以後の作品でもスペインとの深い関係を保っている。また長年くすぶっているバスク独立問題についても、バスク地方出身の監督フリオ・メデムJulio Medem(1958― )が独立問題を扱ったドキュメンタリー映画『バスク・ボール』(2003)を発表し、波紋を投げかけている。
かつてはフェルナンド・レイFernando Rey(1917―1994)が国際的に知られるばかりだった俳優も、1990年代には、アントニオ・バンデラスAntonio Banderas(1960― )、ペネロペ・クルスPenélope Cruz(1974― )らハリウッドで活躍するスターを生んだ。以後もその地位を高めている二人に続いて、若手でも『夜になるまえに』(2000、ジュリアン・シュナーベル監督)に主演したハビエル・バルデムJavier Bardem(1969― )がアメリカのアカデミー賞にノミネートされ、ビセンテ・アランダの『カルメン』(2003)などに主演したパス・ベガPaz Vega(1976― )もハリウッド映画『スパングリッシュ 太陽の国から来たママのこと』(2004、ジェームズ・L・ブルックスJames L. Brooks(1940― )監督)などに顔をみせるようになった。
[出口丈人]
『トマス・ペレス・トレント他著、岩崎清訳『INTERVIEW ルイス・ブニュエル――公開禁止令』(1990・フィルムアート社)』▽『乾英一郎著『スペイン映画史』(1992・芳賀書店)』▽『杉浦勉編『ポストフランコのスペイン文化』(1999・水声社)』▽『『ビクトル・エリセ』(2000・エスクァイアマガジンジャパン)』▽『ペドロ・アルモドバル著、佐野晶訳『バッド・エデュケーション』(2005・ソニー・マガジンズ)』▽『杉浦勉訳『ルイス・ブニュエル著作集成』(2006・思潮社)』