フランコ(読み)ふらんこ(英語表記)Francisco Franco Bahamonde

日本大百科全書(ニッポニカ) 「フランコ」の意味・わかりやすい解説

フランコ(Francisco Franco Bahamonde)
ふらんこ
Francisco Franco Bahamonde
(1892―1975)

スペイン軍人、政治家。スペイン北西部ガリシア地方に海軍軍人の子として生まれ、トレドの士官学校で学ぶ。軍務の大部分をモロッコで過ごし、その間に先住民リフ人の反乱をフランス軍と協力して鎮圧した。32歳という異例の早さで将官に昇進し、1927年士官学校長となるが、1931年に共和政が発足すると閑職に遠ざけられた。1934年10月アストゥリアスの鉱山労働者の武装蜂起(ほうき)の鎮圧に手腕を発揮し、1935年陸軍参謀総長に就任した。1936年2月、人民戦線政府が成立するとカナリア諸島総督に左遷されるが、同年7月他の反政府派将軍たちとともに軍事クーデターを決行し、モロッコに飛んで反乱の指揮にあたった。競争相手となるべき将軍たちの死亡という幸運もあったが、主としてその声望と手腕により1936年9月反乱軍の総司令官兼政府主席に就任した。共和政府側の不統一とドイツ・イタリアに助けられ内乱に勝利した彼は統領Caudillo(カウディーリョ)とよばれ、カトリック教、権威主義、コルポラティスムの基礎のうえに自らが党首であるファランヘ党の独裁制を樹立した。第二次世界大戦中は枢軸側をさまざまな形で助けたものの、ヒトラーの参戦要求を拒み通した手腕は並々でなく、それが自身の延命につながった。戦後スペインは国際的には一時孤立したが、冷戦の進展に助けられしだいに国際社会に復帰し、1955年国際連合に加盟した。国内では1947年の王位継承法により公式に王国を宣言して自らは終身摂政(せっしょう)に就任し、1969年にブルボン家のフアン・カルロス王子を後継元首に指名した。1960年代にはスペインもようやく経済成長の恩恵に浴し独裁の厳しさも緩和された。1975年にフランコが病死するとフアン・カルロスが即位し漸進的民主化が加速されることとなる。

[平瀬徹也]


フランコ(Ivan Yakovlevich Franko)
ふらんこ
Иван Яковлевич Франко/Ivan Yakovlevich Franko
(1856―1916)

ロシア、ウクライナの詩人、小説家、社会運動家。当時オーストリア・ハンガリー帝国の権力下にあったガリツィアの鍛冶(かじ)工の家に生まれ、民族独立運動の指導者の一人であった。民話や民謡の収集、研究に努め、愛国的、革命的な詩を書いた。民衆と指導者の関係を描いた『モイセイ』(1905)が代表作。『資本論』のウクライナ語への最初の訳者でもある。

[小平 武]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フランコ」の意味・わかりやすい解説

フランコ
Franco Bahamonde, Francisco

[生]1892.12.4. ガリシア,エルフェロル
[没]1975.11.20. マドリード
スペインの軍人,政治家。海軍主計官の家に生れ,1910年士官学校卒業後,25年モロッコの反乱鎮圧に活躍し,31年共和政発足後,35~36年参謀総長に任命された。 36年2月成立した人民戦線政府によって左遷され,7月スペイン領モロッコで人民戦線政府打倒のクーデターを起し,スペイン内乱の口火を切った。同年 10月反乱側の政府首班兼最高司令官となり,39年3月内乱の終結とともに独裁的権力を不動のものとした。第2次世界大戦後,王政の復活を宣言,自身は終身国家元首の地位を確保し,独裁体制をゆるぎないものにした。 69年7月アルフォンソ 13世の孫,ドン・ファン・カルロス王子を国王に任命,みずからは後見人を宣言した。 73年6月国家元首と首相を分離し,首相の地位を C.ブランコ副統領に譲った。 75年 10月インフルエンザから心臓発作を起し,1ヵ月余の危篤状態を続けたのち死去,驚異的な生命力の持主といわれた。

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