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スーダン内戦 スーダンないせん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

スーダン内戦
スーダンないせん

スーダンの北部支配層と南部黒人住民との武力対立。第1次内戦は 1955~72年,第2次内戦は 1983~2005年。北部アラブ系住民と南部黒人系住民の対立を根幹とし,それに北のイスラム教対南のキリスト教という宗教対立が加わった。南北対立が表面化したのは 1955年7月,南部のヌザラで労働者のデモに警官隊が発砲し 20人の犠牲者が出たことによる。翌 1956年,スーダン独立が北部中心主義を制度化するかたちで行なわれたため南部の不満が高まり,南北間で戦闘が続いて,アニヤ・ニヤ解放戦線を中心とする南部分離主義が強まった。1969年5月に成立したヌメイリ政権は,1972年2月27日南部とアジスアベバ協定を締結,17年間で 50万人の犠牲者を出した第1次内戦は終結をみた。協定によって南部 3州(アルイスティワーイーヤ,アーリアンニール,バルアルガザル)は自治を認められ,南部は分離主義を撤回,中央政府も統一イスラム国家構想およびアラブ諸国との統合の道を放棄することになった。しかしイスラム原理主義の圧力もあって 1983年9月ヌメイリ政権がイスラム法(シャリーア)を全国で実施,これに反発した南部は反政府組織スーダン人民解放運動 SPLMを結成し,その軍事組織スーダン人民解放軍 SPLAがエチオピアの支援を受けてゲリラ闘争を拡大した。1985年,軍事クーデターによりヌメイリ政権が倒れるとマハディ政権が内戦終結を目指し,1988年に SPLMとの停戦協定に調印したがイスラム原理主義者の反対で発効せず,SPLAは 1989年に入って攻勢を強めた。1991年には政府が連邦制の導入をはかったが SPLAは拒否,その後も断続的に停戦と戦闘が続いた。2005年1月にバシル政権と SPLA,SPLMはケニアのナイロビで包括和平協定に調印,1983年から続いた内戦は終結した。南部は和平協定に基づき自治を獲得,2011年1月,北部からの完全独立の是非を問う住民投票を実施し,圧倒的多数の賛成を得て 7月9日,南スーダンとして独立を宣言した。

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