イスラム法(読み)いすらむほう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「イスラム法」の意味・わかりやすい解説

イスラム法
いすらむほう

アラビア語シャリーアSharī‘aという。この語は元来「水場に至る道」を意味した。コーランには、語根shr-‘の動詞、名詞形をあわせて4例(5章48節、42章12節・21節、45章18節)しかないが、そこでは人間には従うべき「道」(シャリーア)があり、それは人間の思い付きや思惑ではなく、神が啓示し「定めた」(シャラアshara‘a)真理として用いられている。人間はただそれを受け入れ、それに服従すること(これが「イスラム」の語の本来の意味)によって救いに至るのである。シャリーアとは「人間の正しい生き方」の具体的表現にほかならない。ただイスラム教では、それは人間の理性や思惑ではなく、神の啓示によってのみ知られるとされる。イスラム教における正義とは、神に服従し、神に従順であることを意味する。

[中村廣治郎]

シャリーアの内容と特質

人間はいかなるとき、いかなる場合でも正しく考え、正しく行動しなければならないとすれば、神の正義は、少なくとも理念的には、人間生活の全分野に妥当するものでなければならない。事実、シャリーアは個々のムスリムイスラム教徒)の「宗教的」生活のみならず、「現世的」生活をも具体的に規制する聖法である。その内容は、浄(きよ)め、懺悔(ざんげ)、礼拝、喜捨(きしゃ)、断食(だんじき)、巡礼、葬儀などに関する「儀礼的規範」(イバーダート)から、婚姻・離婚・親子関係、相続、奴隷・自由人、契約、売買、誓言・証言、ワクフ(寄進財産)、訴訟・裁判、非ムスリムの権利・義務、犯罪・刑罰、戦争などの公私両法にわたる「法的規範」(ムアーマラート)をも含む。そのようなものとしてのシャリーアは、特殊な人に限定されるのではなく、未成年者などを除いて原則として共同体の成員すべてに等しく適用される規範である。イスラム共同体(ウンマ)とは、このシャリーアの理念の地上的表現として意味をもつ。このようにシャリーアは、本質的には信仰者の当然従うべきものとしての道徳的義務であるが、そこには実定法的内容のものが多い。そして現実の共同体の秩序維持のために、それは実定法として強制される必要があった。イスラムの政治への志向は、シャリーアのこの実定法的性格とその包括性に由来する。

 ところで、このシャリーアの基本となるコーランの規範のうち、儀礼や個人生活に関する部分は具体的かつ詳細であり、解釈余地はあまりない。しかし、それ以外の分野では一般的原則や基本原理を述べるにとどまり、具体性に乏しい。それだけにこの部分に関するシャリーアの実際的適用は環境や社会的利益の変化に応じてさまざまに解釈され、けっして一律ではない。したがって、現実に機能していたのは家族法的側面が主であった。

[中村廣治郎]

法源

シャリーアは神の命令(コーラン)の具体的体系的表現として絶対不変とされるが、他方では人間が解釈したものとして歴史的である。シャリーアが古典的な形で成立し、法解釈の古典理論がシャーフィイー(767―820)によって大成されるまでには2世紀近い年月を要した。この理論によれば、イスラム法の主要法源としてコーラン、スンナ(預言者の範例)、イジュマー(共同体の合意)、キヤース(類推)の四つが定められた。これは神の意志を探る法解釈の手続を四つ述べたものである。すなわち、あらゆる行為に対する善悪の判断において、まずよりどころにすべきはコーランであることはいうまでもない。もしコーランの明文に規定がない場合、またはコーランの明文があいまいであったり、一般的であったりする場合には、スンナに依(よ)る。これはハディース(預言者の言行として伝えられる伝承)に示された預言者の「範例」である。もしスンナにも規範をみいだせない場合には、イジュマーに依る。これは共同体を代表し、法解釈に堪能な法学者(ムジュタヒド)の「合意」をさす。もしイジュマーにも該当する規範をみいだせない場合には、キヤースに依る。これは、コーランやスンナのなかに当面の事件に類似の問題をみいだし、それに対して示されている判断からする「類推」のことである。以上の四つが「法源」とよばれる。

[中村廣治郎]

四法学派の成立

イスラム法とは、これらの法源から演繹(えんえき)された人間の生活全般にわたる行為規範である。とはいえ、これら四つの法源のおのおのについて、さまざまな解釈の余地が残されている。たとえば、スンナについてみても、信憑(しんぴょう)性においてさまざまにランク分けされているハディースをどのランクまで採用するかで結論は違ってくる。同様にキヤースについてみても、何を類推の基本にするかで出てくる結論が異なる。また、スンナを多用すれば、それだけキヤースを用いる余地は少なくなる。基本的な点はともかく、細部の点についてはこうして結論の違いが生まれ、それがさまざまな法学派を生んだ。今日ではアブー・ハニーファを祖とするハナフィー学派、マーリク・イブン・アナスを祖とするマーリキー学派、シャーフィイーを祖とするシャーフィイー学派、アフマド・イブン・ハンバルを祖とするハンバリー学派の四法学派がいずれもスンニー派の公認学派として残っている。シーア派にもスンニー派とは別の法学派(ジャーファリー派)がある。

[中村廣治郎]

イスラム法の運用と現状

イスラム法を具体的に適用するのは、カーディーとよばれる裁判官である。彼らは政府によって任免され、自己の学派の法規定に従って審理し判決を下す。彼らが解決困難な大きな事件や新しい問題に直面した場合には、ムフティーとよばれる法解釈の権威に判断(ファトワー)を求める。近代の法改革によって多くのイスラム諸国で新しい法典が導入されてくると、シャリーア裁判所は縮小され、カーディーの活動も制限されてきた。

[中村廣治郎]

『遠峰四郎著『イスラム法入門』(1964・紀伊國屋書店)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「イスラム法」の意味・わかりやすい解説

イスラム法
イスラムほう
Islamic law; sharī`ah

イスラムの宗教法。アラビア語のシャリーアは,「水場への道」転じて「アッラーの道」を意味する。イスラム神学とともに,イスラム教徒の生活を伝統的に支配してきた。イスラム法は最初コーランあるいは預言者ムハンマドの言行 (スンナ) を基に作られた。しかし,スンナの解釈,適用をめぐって法学派が分れ,すでにイスラム暦1~2世紀にはハナフィー,マーリキー,シャーフィイーおよびハンバリーの4学派に分れた。中世においてこれらは絶大な権力をふるったが,ヨーロッパの影響の著しい近代イスラムにおいては,伝統的なイスラム法の新解釈による現実問題への適用が最大の問題になっている。

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