ダライ・ラマ14世(読み)ダライラマジュウヨンセイ(その他表記)Dalai Lama XⅣ

共同通信ニュース用語解説 「ダライ・ラマ14世」の解説

ダライ・ラマ14世

ダライ・ラマチベット仏教で観音菩薩ぼさつの化身とされる最高指導者。14世は1935年に生まれ、40年に即位した。中国人民解放軍の進駐に反発するチベット人僧侶らの激しい抵抗運動が起きた59年3月のチベット動乱を機にインド亡命し、89年にノーベル平和賞。2011年、政治的実権を亡命政府に委ねた。チベットの「高度な自治」を求めているが、中国は「分裂主義者」と批判している。(ダラムサラ共同)

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現代外国人名録2016 「ダライ・ラマ14世」の解説

ダライ・ラマ14世
ダライラマジュウヨンセイ
Dalai Lama XⅣ

職業・肩書
宗教指導者 チベット仏教(ラマ教)最高指導者

生年月日
1935年7月6日

出生地
チベット・アムドタクシェ村(中国・青海省)

本名
テンジン・ギャツォ(丹増嘉措)〈Tenzin Gyatso〉

学位
ゲシェ・ラランパ(仏教学の最高学位)〔1959年〕

勲章褒章
モンゴル平和勲章〔1979年〕

受賞
ノーベル平和賞〔1989年〕,名誉博士号(フランス)〔1984年〕,自由人権財団賞(スイス)〔1988年〕,米国議会人権賞(第1回)〔1989年〕,米国議会金メダル〔2007年〕

経歴
1939年ダライ・ラマ13世の転生として認定され、’40年2月12日4歳半のときラマ教の聖地ラサ市に行きポタラ宮殿で14世ダライ・ラマに即位、チベットの政治、宗教の最高権威者となる。第二次大戦中は中立。中華人民共和国成立後、中国と対立し、’50年中国人民解放軍のチベット進駐を許したが、’51年平和解放のチベット協定を結び、親中国で別派のパンチェン・ラマ10世と和解した。その後’53年中国仏教協会名誉会長、’54〜59年全人代常務委副委員長、’56年チベット自治区準備委員会主任委員などを歴任。しかし、’59年3月反中国のラマ教僧侶、貴族、数万の一般民衆がラサ市で起こした“チベット反乱事件”(チベット動乱)で、インドへ亡命。以降インドのパンジャブ州ダラムサラに亡命政府を樹立し、非暴力によるチベットの解放運動・チベット自治政府樹立運動を指導。’64年チベット自治区準備委主任委員解任。’79年中国の政変に伴い、初の代表団を北京及びチベット本土へ派遣。’89年ノーベル平和賞受賞。’97年チベット民族蜂起38周年を記念して、声明を発表。同年初めて台湾入りした。世界各地を巡り、講演・法要などを行い、チベット問題を国際世論にアピールしている。さらに宗教間の和解や核問題、地球温暖化、人口増加などの解決にも取り組む。2008年3月以降中国チベット自治区などで騒乱が起きるが、北京五輪開催支持、暴力否定の記者会見を行う。2010年2月オバマ米大統領と会談。2011年8月チベット亡命政府の政治権限をロブサン・センゲ新首相に移譲。著書に「チベットわが祖国―ダライ・ラマ自叙伝」「愛と非暴力―ダライ・ラマ仏教講演集」「瞑想と悟り―チベット仏教の教え」「ダライ・ラマ,イエスを語る」「ダライ・ラマ,他者と共に生きる」「ダライ・ラマ、慈悲の力―来日講演集」などがある。1967年以来、来日多数。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ダライ・ラマ14世」の意味・わかりやすい解説

ダライ・ラマ14世
ダライ・ラマじゅうよんせい
Dalai Lama XIV

[生]1935.6.6. 青海
チベット人の精神的指導者。名はテンジン・ギャツォ。1940年第14世としてポタラで即位。中華人民共和国の成立後,中国の一部としてチベット政府が地域自治を行なうべきだとの呼びかけにこたえなかったため,1950年夏中国人民解放軍により昌都を占領され,中国の和平解放を受け入れて 1951年5月チベット協定に調印した。1954年北京に赴き,全国人民代表大会常務委員会副委員長に選出される。1956年4月チベット自治区籌備委員会主任委員に就任。1959年3月ラサで起こった中国政府に対する暴動が鎮圧されたため,インドに亡命(→チベット暴動)。以後インドを基盤にチベット独立運動を指導,1960年代初期亡命政府を樹立。1978年12月中国政府はチベットが中国の一部であることを前提としてダライ・ラマの帰国と交渉を歓迎と発表,ダライ・ラマは代表を北京に送ったが合意にいたらなかった。1987年9月アメリカ合衆国議会で「人権5項目」を発表。同 1987年10月ラサで独立を求める暴動が発生。1988年6月ヨーロッパ議会で「ストラスブール提案」を行ない,中国政府から「半独立」,「変相独立」として拒否された。1989年3月ラサで再度暴動が起こり,中国政府は戒厳令を宣言。1989年ノーベル平和賞を受賞。2011年チベット亡命政府代表の座をロブサン・センゲに禅譲した。(→チベット問題

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ダライ・ラマ14世」の解説

ダライラマ14世(ダライラマじゅうよんせい)
bsTan 'dzin rgya mtsho

1935~

チベット仏教とチベット難民社会の最高指導者。1935年に青海地方で生まれ,39年にダライラマ13世の化身(けしん)としてラサへ迎えられた。東チベットが中国軍の占領下に入りつつある50年に親政を開始し,51年にはチベットの中国領内への併合を認める17条協定への調印を余儀なくされた。59年3月,中国軍と群衆が衝突するなかインドに亡命し,翌60年にはインドのダラムサラに亡命政庁を設立した。亡命後は,チベット難民の救済にあたりつつ,諸外国を歴訪してチベット仏教の布教を行う。中国の軍事支配に対して非暴力の姿勢を貫いたことが評価され,89年にノーベル平和賞を受賞した。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

知恵蔵mini 「ダライ・ラマ14世」の解説

ダライ・ラマ14世

第14代のチベット仏教の最高指導者であり、チベット亡命政府の元首長。法名はテンジン・ギャツォ。1935年7月6日、チベット北部の農家に生まれる。2歳の時、33年に死去したダライ・ラマ13世の転生者と認定され、40年にダライ・ラマ14世として即位した。59年、統治権を主張する中国政府とチベット民衆との間に起こった動乱の激化により、インドのダラムサラへ脱出。同地にチベットの亡命政府を樹立し、チベット難民組織の頂点に立った。2011年に政治的指導者の地位は退いたが、その威信は今も続いている。亡命後から現在に至るまで、国連を通じてチベット問題の平和的解決を訴えると共に、日本を含む世界各地を訪問し、仏教の教えを説く法話や世界平和実現に向けての講演を行っている。こうした活動が評価され、1989年にノーベル平和賞を受賞した。

(2012-08-29)

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20世紀西洋人名事典 「ダライ・ラマ14世」の解説

ダライ・ラマ14世
Dalai Lama ⅩⅣ


1935.6.6 -
チベットの僧。
ラマ教法王。
青海省生まれ。
本名テンジン・ギャムツォ。
別名達頼喇嘛。
5歳で出家し、1940年ポタラ宮に迎えられ即位する。’51年中国とチベット協定を結び、’53年中国仏教教会名誉会長となり、’54年第1期人民代表大会チベット代表を歴任し、’56年チベット自治区準備委員会主任委員となる。’59年チベット動乱の鎮圧後、インドへ亡命する。チベットのラマ教教主で世界仏教徒連盟などで活躍し、チベットの宗教的象徴である。89年ノーベル平和賞受賞。

出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報

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