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チュレンヌ Henri de la Tour d’Auvergne,vicomte de Turenne

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世界大百科事典 第2版の解説

チュレンヌ【Henri de la Tour d’Auvergne,vicomte de Turenne】

1611‐75
フランスの武将。神聖ローマ帝国とフランス王国の中間に位置して独立を保持していた小公領(主都スダン)の君主ブーイヨン公アンリの次男。母はオラニエ公ウィレム1世の娘。母の影響下にプロテスタントとして育てられ,武人としての教育を受けたのち,フランス国王に奉仕。そのすぐれた資質により三十年戦争下,東部戦線イタリアで数々の勲功をたてた。とりわけノルトリンゲンの戦(1645)では大勝を博して名声を得,以後名実ともにフランスを代表する武将としてたたえられ,兵士たちの信頼も厚かった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

チュレンヌ
ちゅれんぬ
Henri de La Tour d'Auvergne, vicomte de Turenne
(1611―1675)

フランスの軍人、元帥。ブイヨン公の次男。スダン(セダン)に生まれる。14歳から軍務に従い、三十年戦争(1618~48)に参加、フランドルライン、イタリア各地に転戦、1643年に元帥となり、45年ネルトリンゲンの戦いバイエルン軍を破った。フロンドの乱のとき、スペインそしてのち王党派にくみし、コンデ親王と戦った。乱後、スペイン領フランドルの奪取をめぐるアラスの戦い(1654)、砂丘の戦い(1658)でスペイン軍を破り、60年総元帥となった。ついで、ルイ14世の起こしたフランドル戦争(1667~68)を指揮し、オランダ戦争(1672~79)では、コンデ親王とともにフランス軍を率いて出陣し、アルザス侵攻作戦を展開したが、75年7月27日、ザスバッハで砲兵陣地の下検分中に戦死した。遺体はサン・ドニの国王墓地のそばに埋葬された。その『メモアール(回想録)』は1738年に刊行された。[千葉治男]

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