デルブリュック(読み)でるぶりゅっく(英語表記)Max Delbrück

精選版 日本国語大辞典 「デルブリュック」の意味・読み・例文・類語

デルブリュック

  1. ( Berthold Delbrück ベルトルト━ ) ドイツの言語学者。イエナ大学教授。青年文法学派の一人。印欧語の統語論に大きな成果を残した。(一八四二‐一九二二

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「デルブリュック」の意味・わかりやすい解説

デルブリュック(Max Delbrück)
でるぶりゅっく
Max Delbrück
(1906―1981)

ドイツ、のちアメリカの物理学者分子生物学者。1930年ゲッティンゲン大学で博士号を得、ニールス・ボーアのもとで研究するが、ボーアの影響で生物学に興味を抱き、1935年、ティモフェエフ・レソフスキーNikolay Timofeeff-Ressovsky(1900―1981)らとともに遺伝子の物理的モデルを提出する。1937年渡米し、カリフォルニア工科大学でエリスEmory L. Ellis(1906―2003)とファージバクテリオファージ)実験を開始し、一段増殖実験法を確立する。ついでルリアハーシェイとともにファージ・グループをつくり、ファージの検出、計数の方法の確立、細菌の自然突然変異の証明、ファージ突然変異と組換えの発見など、分子生物学の基礎を築く研究を行った。また毎年、コールドスプリングハーバーでファージ講習会を開き、物理・化学出身者も含めて研究者の層を広げた。1954年ころよりフィコミセテス(Phycomycetes藻菌)を用いての感覚生理学の研究に転じる。1969年、ハーシェイ、ルリアとともに、「ウイルスの増殖機構と遺伝的構造に関する発見」によりノーベル医学生理学賞を受けた。

[石館三枝子]


デルブリュック(Berthold Delbrück)
でるぶりゅっく
Berthold Delbrück
(1842―1922)

ドイツの言語学者。イエナ大学教授(1870~1913)。1870年代以降ライプツィヒを中心に活躍した青年文法学派の有力なメンバーの一人。とくに印欧諸言語の統語論の比較研究で大きな貢献をした。ブルーグマンとの共著による浩瀚(こうかん)な『印欧語比較文法綱要』の後半『印欧語比較統語論』3巻(1893~1900)は彼の手になり、現在でもこの分野でのもっとも詳細な研究である。ほかに『統語論研究』5巻(1871~1888)、『印欧語研究序説』(1880)などがある。

[松本克己 2018年7月20日]

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改訂新版 世界大百科事典 「デルブリュック」の意味・わかりやすい解説

デルブリュック
Max Delbrück
生没年:1906-81

ドイツ生れ,アメリカの分子生物学者。1930年ゲッティンゲン大学で学位を得る。N.ボーア門下の物理学者であったが,ボーアの影響で生物学に転じ,35年ティモフェエフ・レソフスキーN.V.Timoféev-Ressovskyらとともに遺伝子の物理的性質について論文を書き,遺伝・増殖の解明こそ生物学の課題であると確信する。37年渡米し,エリスE.Ellisとファージの一段増殖実験法を確立する。40年代の初め,ルリアS.E.Luria,ハーシーA.D.Hersheyらと出会い,ファージグループをつくり,ファージの定量的研究法の確立,自然突然変異の証明(1943),ファージの組換え発見(1945)など,細菌とファージの分子遺伝学の基礎を築いた。44年,研究をT系ファージとB株の大腸菌に限定するよう提案し,研究の効率を高め,また毎年ファージ講習会を開いて研究者の層を広げた。54年ころより感覚生理学の研究を始める。69年ハーシー,ルリアとともにノーベル生理・医学賞を受けた。
執筆者:


デルブリュック
Berthold Delbrück
生没年:1842-1922

ドイツの言語学者。イェーナ大学教授。K.ブルクマンとともにライプチヒ大学を中心とする青年文法学派の一員として活躍した。その研究はサンスクリットを主とした統語論の領域に終始し,1886年より刊行されたブルクマンとの共著《印欧語比較文法Grundriss der vergleichenden Grammatik der indogermanischen Sprachen》(5巻)の後半部のほか,《古代インド語統語論》《統語論研究》《古代インド語の動詞》などを著した。なお《印欧語研究入門》も言語学史として貴重な著作。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「デルブリュック」の意味・わかりやすい解説

デルブリュック
Delbrück, Max

[生]1906.9.4. ベルリン
[没]1981.3.9. パサディナ
ドイツ生れのアメリカの物理学者,分子生物学者。ゲッティンゲン大学を卒業し,1930年学位取得。初め原子核理論などを専攻していたが,ベルリンのカイザー・ウィルヘルム化学研究所へ入って (1932) ,遺伝現象に関心をもつ。 34年アメリカに渡り,バインダービルト大学教授 (40~47) 。市民権を得る (45) 。カリフォルニア工科大学でファージを用いた実験を始め (37~39) ,細菌へのファージの吸着と子ファージ放出との間に潜伏期のあることを発見,潜伏期にファージの増殖が行われることを明らかにした。 40年 S.ルリアらとともに研究グループを結成 (後年ファージグループと呼ばれる) 。ルリアとの共同研究で細菌の突然変異を証明。これらの業績は,遺伝の研究手段としてファージや細菌を使用するための下地をなした。 46年に,A.ハーシーとは独立に,ウイルスで遺伝子組換えが起ることを発見。 47年からカリフォルニア工科大学教授。ファージ研究に対し,ハーシー,ルリアとともに,69年にノーベル生理学・医学賞を与えられた。

デルブリュック
Delbrück, Hans Gottlieb Leopold

[生]1848.11.11. ベルゲン
[没]1929.7.14. ベルリン
ドイツの軍事史家,政治家。 1885年ベルリン大学教授。また 83年からトライチュケに協力し『プロシア年報』 Preussische Jahrbücherを刊行,89~1919年その編集責任者をつとめ,一方プロシア下院 (1882~85) ,帝国議会 (84~90) の議員としても活躍。外交政策について国家主義的傾向をもつ自由派として,第1次世界大戦初期の宰相 T.ベートマン・ホルウェークに影響を与えた。彼は戦争と政治の深い関連を指摘し,E.ルーデンドルフや A.ティルピッツと対立,またドイツのみに戦争責任を負わせようとする連合国側の論調にも激しく反発した。主著『政治史の一環としての戦術史』 Geschichte der Kriegskunst im Rahmen der politischen Geschichte (7巻,1900~27) ,『世界大戦前後』 Vor und nach dem Weltkrieg (26) 。

デルブリュック
Delbrück, Berthold

[生]1842.7.26. リューゲン島,プットブス
[没]1922.1.3. イェナ
ドイツの言語学者。 1870~1912年イェナ大学教授。インド=ヨーロッパ語族の比較研究に従事し,青年文法学派の一員として,特にそれまで未開拓であった統辞論の研究を進め,この分野に大きな業績を残した。主著『統辞論研究』 Syntaktische Forschungen (5巻,1871~88,E.ウィンディッシュと共著) ,『印欧語比較統辞論』 Vergleichende Syntax der indo-germanischen Sprachen (93~1900,K.ブルークマンと共著の『印欧語比較文法概要』の3~5巻をなす) 。

デルブリュック
Delbrück, Rudolf von

[生]1817.4.16. ベルリン
[没]1903.2.1. ベルリン
ドイツ,プロシアの政治家。 1848年商務省に入り,関税同盟の強化,拡大に努力,51年ハノーバー,オルデンブルクなどを関税同盟に参加させた。ビスマルクの支持を得て自由貿易政策を推進。 67年北ドイツ連邦官房長官。 68年プロシア無任所相となり,70年ドイツ統一の最終段階において南ドイツ諸国を帝国に参加させるための交渉に成功を収めた。 71年帝国宰相府官房長官となりドイツ行政制度の確立に尽した。しかし 76年ビスマルクの政策に反対して辞職。その後も帝国議会においてビスマルクの保護貿易政策に反対を続けた。主著『回想録』 Lebenserinnerungen1817-67 (2巻,1905) 。

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百科事典マイペディア 「デルブリュック」の意味・わかりやすい解説

デルブリュック

ドイツ生れの米国の物理学者,分子生物学者。ゲッティンゲン大学で実験物理学を学び,のちボーアの影響で生命現象に興味をもつ。1937年渡米,1940年代の初めにルリアらとファージグループをつくり,1947年以降カリフォルニア大学生物学教授。研究材料を大腸菌に寄生するT系バクテリオファージに限定して,効率を高めることを提唱するなど,分子遺伝学の飛躍的発展の基礎を築いた。生物の遺伝や増殖機構を研究。1969年ノーベル生理医学賞。

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367日誕生日大事典 「デルブリュック」の解説

デルブリュック

生年月日:1848年11月11日
ドイツの軍事史家,政治家
1929年没

デルブリュック

生年月日:1817年4月16日
プロシアの政治家
1903年没

デルブリュック

生年月日:1842年7月26日
ドイツの言語学者
1922年没

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世界大百科事典(旧版)内のデルブリュックの言及

【生物物理学】より

…ちなみに日本でも小谷正雄,湯川秀樹らの物理学者が日本生物物理学会の創設(1960)に努力した。1940年代以降理論物理学者M.デルブリュックに率いられて,分子遺伝学が急速に進歩し,いっぽう核酸・タンパク質などの生体高分子の構造解析の方法が発達した。53年J.D.ワトソンとF.H.C.クリックによるDNAの相補的二重らせん構造の発見,60年のペルツM.Perutzによるタンパク質として初めてのヘモグロビンの立体構造の決定がその代表的成果である。…

【分子生物学】より

…しかし,彼らの研究結果は疑う余地のないものであったにもかかわらず,他研究者の興味と承認を得るにいたらなかった。M.デルブリュックを総帥とする,アメリカのファージ(細菌ウイルス)・グループの一員であるハーシーA.D.Hersheyが,ファージ感染・増殖の本体がDNAであることを1952年に示したころから,実質的な分子生物学的研究が盛んに行われるようになった。デルブリュック,ルリアS.E.Luriaに代表される細菌やファージの自己増殖を研究する分子遺伝学グループ,一遺伝子一酵素説を提唱したビードルG.W.Beadle,テータムE.L.Tatumによる代謝の制御を研究する遺伝生化学的研究の開始,そしてイギリスのケンブリッジにおける,ブラッグW.L.Bragg,ペルーツM.F.Perutz,ケンドルーJ.C.Kendrewなどの学派によるX線結晶解析によるタンパク質分子の構造解析が,当時の分子生物学のすべてといってよい。…

※「デルブリュック」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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