明治憲法下における議会。大日本帝国議会ともいう。1890年から1947年まで存続し,天皇主権下における立法機関として機能した。
帝国議会は皇族・華族・勅任議員によって構成される貴族院と,公選議員で組織される衆議院との2院からなり,その権能はほぼ対等になっていた。また,議会の開会,閉会,停会などは天皇大権に属し,さらに特定案件の下では緊急勅令を制定し,大権事項にもとづく歳出項目について政府の同意なしに議会が廃除・削減することはできず,議会が予算案を否決した場合に,政府は前年度予算を施行できることなどが憲法に規定されており,議会独自の権能である立法権,予算審議権を大きく制約するものであった。貴族院は,皇族・華族議員と勅任議員からなるが,勅任議員は国家に勲労あり学識ある者という規準で官僚,軍人,財界人などから勅任したいわゆる勅選議員と,各府県の多額納税者上位15人から1人を互選する多額納税議員とに区分される。さらに衆議院は,当初直接国税15円以上を納付する満25歳以上の男子を有権者とする制限選挙で,それ以後,衆議院議員選挙法を2度改正して選挙資格が緩和され,1925年に男子のみの普通選挙制に移行した。また,陸海軍の統帥や宣戦・講和,条約締結なども天皇大権に属し,議会は軍事行動の発動や外交問題について軍部や政府の決定を規制することは困難であった。したがって,帝国議会の権限は天皇大権や内閣の権限によって大きく制約されており,また,衆議院と拮抗する貴族院が特権階級のみによって構成されていたため,国民の意思や世論の動向が速やかに議会内に反映され,政治の方向が修正されるという機能はごく限られていたといえよう。
日本最初の議会は,1890年11月25日に召集され,29日貴族院で天皇親臨の下に開院式が挙行された。この第1議会では,自由党,改進党を中心とする民党が衆議院で多数を占め,政府提出の予算案を大幅に削減しようとしたため紛糾した。結局,政府による政党工作が効を奏して自由党土佐派の同調を得ることができ,一部手直しによって予算案は成立した。これ以後,93年の第4議会までの衆議院では民党側が政府提出の予算案を削減し,それを民党の要求する地租軽減の財源にしようとした。これに対して藩閥政府を擁護し,特権階級の府を自覚する貴族院は衆議院の決定に反対して政府原案を復活させ,また議員立法による地租軽減法案などを否決,あるいは審議未了に追い込んでその成立を阻止した。また,第5,第6議会では,交渉進行中の条約改正問題をとらえて政府を追求し,交渉が微妙な段階にある政府を窮地に追い込み,あいつぐ衆議院の解散となった。また,そのために重要議案は廃案あるいは審議未了となって,政府の施策を停滞させる結果を招いた。この初期議会の経験は,政府,政党のいずれにとっても,自己の要求を実現するためには方向転換の必要を痛感させた。藩閥官僚の側では明治憲法発布の直後に宣言した〈超然主義〉による政治運用の方針を修正し,また,政党の側でも藩閥官僚への接近がはかられることになった。
日清戦争の勃発を機に政党は全面的に政府の施策を支持し,戦争遂行に協力する姿勢を示し,戦後には,自由,進歩(改進党の後身)両党のいずれかが与党となり,党首的存在である板垣退助,大隈重信らが入閣するという政府形態をとった。軍備拡充や産業育成などを中心とする日清戦後経営の実現のためには各種の増税を必要とし,それには衆議院での同意が不可欠の条件となった。したがって,政党の主要な基盤とされる地主階級の利害に直接かかわる地租増徴法案が提出されると,政党はこれに反対し,第2次松方正義,第3次伊藤博文の両内閣はあいついで退陣を余儀なくされた。しかし,この地租増徴案への反対を機に自由,進歩両党が合同して憲政党を結成し,その多数党を背景に大隈,板垣を中心とする隈板内閣が日本最初の政党内閣として出現すると,特権的な軍部や官僚勢力はこれに反発し,貴族院も議会開会をまって内閣不信任案の提出を企てたが,内閣はそれ以前に内部対立のため崩壊した。こうして日清戦争後には政党の政治的比重は上昇したが,まだ政党独自で政権を担当する条件はなく,政局の不安定が続くなかで元老伊藤博文は国家的政党の結成をめざして1900年に立憲政友会を組織した。また,同年衆議院議員選挙法を改正して選挙資格が直接国税10円以上に引き下げられ,また都市部を独立選挙区として商工業者の代表が有利に選出される条件をつくった。こうして政党も,単に地主階級の利害の代弁者にとどまらず,官僚やブルジョアジーの一部をも包含する体制政党への脱皮がはかられ,議会のあり方も転機を迎えた。
とくに日露戦争が国力を傾けた帝国主義戦争として展開され,講和が期待された成果もないままに締結されなければならない状況のなかで,桂太郎内閣は政友会の支持を絶対的な条件とし,その反対給付として講和後に政友会総裁西園寺公望への政権委譲を約束した。日露戦争後,西園寺内閣は過大な債務をかかえた国家財政の中で日露戦後経営を実現するに当たって,桂に代表される官僚勢力との提携を必要条件とし,続く桂内閣も衆議院で過半数を擁する政友会の支持によって諸政策を展開した。その間,貴族院は普通選挙法案のように国民の権利伸張をもたらすものや,郡制廃止法案のように官僚勢力にとって不利な法案についてはその成立を阻止した。他方,衆議院では各政党ともに選挙基盤の利益を誘導するため鉄道・港湾の建設や大学・高等専門学校の設置などを推進して党勢の拡張をはかった。しかし,限られた国家財政の中で軍部の要求する建艦計画や増師計画と,政党やブルジョアジーが要求する減税や地方利益の実現とは競合する関係にあり,陸軍の二個師団増設問題を契機に第1次護憲運動が巻き起こった。こうして政党の主導する民衆運動によって第3次桂内閣が倒壊し,特権勢力である藩閥官僚や軍部への批判が高まり,普通選挙や政党内閣の実現を要求する動きも広がって,大正デモクラシーの開幕となった。ここに,議会に対し国民の意思を反映させようとするさまざまな政治運動が展開され,政党の権力内部における比重はさらに大きくなり高級官僚中からの入党者が現れ,軍部の中にも政党に接近する者が出現し始めた。
1918年の米騒動は長州閥で陸軍の長老である寺内正毅の内閣を倒壊させ,政友会総裁の原敬が陸海両相と外相を除く閣僚を政友会員で組織する本格的な政党内閣を組織した。さらに原内閣は普選の要求を時期尚早として退けて,納税資格を直接国税3円以上に引き下げるとともに,懸案の小選挙区制を導入した。この選挙法によって政友会は解散後の総選挙で圧勝し,他方,原による貴族院工作が成功して,原内閣は貴衆両院を縦断した支持をえる安定政権の基礎を固めた。しかし,原の横死以後は政友会内の派閥対立が表面化するとともに貴族院への影響力も急速に後退して政友会内閣は退陣し,これ以後,貴族院議員を中心とする中間内閣が続いた。24年枢密院議長清浦奎吾(けいご)が陸海外相を除く全閣僚を貴族院議員で構成する特権内閣を組織すると,危機感を強めた憲政会,政友会,革新俱楽部の3党は護憲三派を結成して第2次護憲運動を展開し,解散後の総選挙で圧勝して護憲三派内閣を成立させた。
この内閣は,1925年第50議会で公約の普通選挙法を成立させ,同時に貴族院改革にも手をつけたが,有爵(伯,子,男)互選議員を若干減員する一方,帝国学士院会員からの選出議員を新設し,多額納税議員を若干増員するという改革にとどまり,世論の要求する抜本的な改革とはならなかった。しかし,これ以後政党政治の時代となり,衆議院の第一党が政権を担当し,その総辞職後は第二党に交代するという〈憲政の常道〉が成立して,政友,民政の両党が拮抗した。したがって,議会は衆議院を軸にして運用されるが,貴族院も30年浜口雄幸政党内閣が提出した婦人に公民権を付与する市制・町村制改正法案や翌年提出された労働組合法,労働争議調停法案を審議未了とするなど,独自の意思を表明した。32年の五・一五事件で政党政治の時代に終止符が打たれ,斎藤実,岡田啓介両内閣が官僚中心の中間内閣として成立し,それぞれ政友,民政両党の幹部数名を入閣させた。しかし,斎藤内閣退陣の原因となった帝人事件や岡田内閣の下で展開された国体明徴問題では,貴族院における国粋派議員が右翼団体などと呼応して政府攻撃の急先鋒となり,議会の動向を左右した。また,満州事変以後では政党に対する軍部の批判を顧慮して政党の政権獲得への意欲は消極的となり,とくに36年の二・二六事件以後,その傾向はさらに顕著になった。しかし,広田弘毅内閣が軍部の要求により行政機構の改革と並行して議会制度の改革に着手しようとして政党側の反発を招いたこと,37年には政友会幹部の浜田国松が軍部を批判,寺内陸相との腹切り問答を展開したこと,また,林銑十郎内閣が政党を無視して組閣し,軍と癒着した諸政策を推進しようとして政党側の反撃にあい退陣したことなどは,政党側が受身ながら軍部への抵抗を示した事例といえよう。
政党の発言権の凋落傾向はとどめ難く,1937年6月成立した近衛文麿の内閣は各界の期待を担って登場したが,政党からの入閣者は近衛に近い者の中から民政,政友両党から各1名にすぎなかった。同年7月日中戦争が勃発すると,貴衆両院はあいついで政府激励の決議を行い,翌38年には広範な権限を政府に委任する国家総動員法を無修正で成立させた。以後,議会は政府の提出する巨額の軍事費や戦時立法を成立させるための協賛機関となり,近衛を擁立しようとする新党運動によって動揺し,あるいは軍部の意向によって態度を変更するなど,政党は主体性を失って分裂したり,党内対立を表面化させたりして混迷を続けた。とくに,40年米内光政内閣のときに民政党の斎藤隆夫が戦争政策を批判すると,各党は軍部強硬論に同調して斎藤の除名を要求し,除名反対論を圧殺したこと(反軍演説問題)などは,政党が行きついた袋小路を示すものであった。
この年に入って枢密院議長近衛文麿を担ごうとする新体制運動が活発化すると,各党はこの動きに合流するため,7月から8月にかけあいついで解党し,議会は無政党時代を迎え,ここに帝国議会は決定的な転機を迎えた。10月大政翼賛会が発足し,首相である近衛を総裁に擁し,その下に各界の代表を網羅する中央本部と各府県知事を支部長とする地方支部がおかれた。こうして,1940年末からの第76議会は議会史上はじめて無党無派で運営され,貴衆両院ともに国務大臣への質問をとりやめ,政府提出の全法案を可決するという異例の議会となった。41年12月8日に太平洋戦争に突入し,その直後の第78議会では貴衆両院は陸海軍に対する感謝決議を行い,2日間の会期で28億円にのぼる軍事費を可決し,言論出版集会結社等臨時取締法などの法案を成立させた。翌42年には1年間延期されていた総選挙が行われることになり,翼賛政治体制協議会は推薦候補者を決め,4月の選挙では381名の当選者を出した。その結果をふまえて5月には貴衆両院議員,翼賛会,財界などの代表を網羅する翼賛政治会が結成されて東条英機首相による独裁的立場がますます強化され,議会は政府提出の予算案や法律を短期間に成立させる戦争協力機関となった。44年戦局の悪化とともに東条内閣が退陣し,代わった小磯国昭内閣には翼賛政治会から3名の旧政党の長老が入閣した。さらに45年の第86議会では選挙法が改正されて朝鮮人や台湾人に選挙権が与えられ,10名の勅選議員も任命されるなど,国民徴用令の適用や徴兵制の施行などによる戦時体制の拡大強化に対応し,植民地住民にも一定の参政権を付与する方向への転換が行われた。また,翼賛政治会は大日本政治会に改組(1945年3月)され,貴衆両院議員のほとんどを網羅したが実質的な変化はなかった。6月の第87議会では戦時緊急措置法が成立し,政府に生産,流通,通信,防衛など,あらゆる面での緊急措置がとれる権限を与え,同時に成人女子を含むほとんどの国民を軍事要員として組織化する義勇兵役法を成立させ,本土決戦に備えての非常態勢に突入した。
敗戦後は,GHQが民主化政策の推進を打ち出し,同時に政党も続々復活した。第89議会では,婦人の参政権を認める選挙法改正や労働組合法が成立した。新しい選挙法による1946年4月の総選挙では日本自由党が第一党となり,吉田茂を首相とする政党内閣が復活した。5月からの第90議会では憲法改正案が最重要案件として審議され,10月末に可決,11月3日には日本国憲法として公布された。つづく第91,第92の両議会で新しい皇室典範,国会法,参議院議員選挙法,地方自治法など憲法改正にともなう一連の諸法案が成立した。47年3月31日第92議会は閉会となり,57年間にわたる帝国議会の歴史に終止符が打たれた。端的にいうならば,帝国議会は国民の政治意思を反映する場所としてはきわめて限定されたものであり,それは60年足らずの歴史のなかでの衆議院の比重や政党活動の盛衰などのなかによく示されているといえる。
→大日本帝国憲法
執筆者:宇野 俊一
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大日本帝国憲法(明治憲法)における議会をいう。議会制度は、イギリスにおける中世の等族会議がしだいに発展して近代的議会制度を成立させ、のちに欧米諸国が市民革命期以降それぞれの憲法制度に採用することとなった。わが国においても明治維新後「五か条の誓文」中に「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」と定めて以来、下ノ議事所、下局、公議所、集議院、太政官(だいじょうかん)左院などを経て、1875年(明治8)には元老院を設置して立法の審議などを行わしめた。しかし、これらの機関はいずれも公選議員により組織されたものでなく、国民代表機関ではなかった。この前年、自由民権運動の高揚とともに板垣退助らは、民撰(みんせん)議院設立の建白書を公にし、官吏の専制を排して速やかに議会を開設すべきことを主張した。76年には元老院に対して憲法草案の作成を命ずる勅語が下され、これに基づいて元老院は国憲草案を作成したが採用されなかった。1881年政府は勅諭を発して、90年に憲法を制定し議会を開設することを約し、翌82年伊藤博文(ひろぶみ)らをヨーロッパに派遣し、欧米ことにドイツ憲法の調査を行わしめた。89年、大日本帝国憲法が発布され、翌90年11月29日憲法の施行と同時に、第1回帝国議会が開会された。なお、地方議会については、1877年制定の府県会規則および80年制定の区町村会法によって帝国議会より先に設置された。明治憲法は、当時のヨーロッパの立憲君主制諸国の憲法に比しても、とりわけ強い君権主義的傾向を有するものであり、したがって議会の地位は低く、その権限はきわめて制限されたものであったが、わが国最初の議会制としての意義は大きい。
[山野一美]
帝国議会は貴族院および衆議院の両院からなり(大日本帝国憲法33条)、貴族院は貴族院令の定めるところにより皇族、華族および勅任の議員をもって組織された(同法34条)。貴族院令は、1889年、憲法と同時に制定され、その後数次の改正が行われたが、1925年(大正14)の改正では、(1)皇族議員(成年に達したすべての皇族男子)、(2)公侯爵議員(公侯爵を有する満30歳以上の者)、(3)伯子男爵議員(伯子男爵を有する者より選挙された議員で任期7年、伯子男爵各66名)、(4)終身の勅選議員(国家に勲労ありまたは学識ある者から勅選される満30歳以上の男子で125名以内)、(5)帝国学士院会員議員(帝国学士院会員中より互選し、その結果により勅任される任期7年の議員4名)をもって構成された。すなわち、世襲制の貴族(皇族、華族)と勅任制の高官を中心とする特権階層よりなる貴族院は、公選議員によって構成される衆議院を抑制し、天皇制や藩閥政治の藩屏(はんぺい)としての役割を担うものであった。また衆議院は公選議員をもって組織されたが、選挙法は、当初、選挙権・被選挙権とも一定の納税額をもってその資格要件とする制限選挙で、25年に至って普通選挙制度が採用されたが、なお女子の参政権は認められなかった。両院の関係は、衆議院の予算先議権(同法65条)を除いては対等であり、衆議院の優越も認められなかった。
[山野一美]
帝国議会の権限は、立法に関する権限、財政に関する権限、一般国務に関する権限、議院内部の事項に関する権限に分けることができるが、天皇主権、天皇大権、皇室自律権などによりその審議権が制限された。このうち立法に関しては、協賛権と承諾権に分かれる。大日本帝国憲法第5条は「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以(もっ)テ立法権ヲ行フ」と定め、法律制定が議会自らの権限によるものでなく、天皇の行為に対して協賛(同意)権を議会が有するにすぎなかった。ただし、協賛権は同意権のほか発案権を含むものと解されていた。また天皇は緊急命令(同法8条)および独立命令(同法9条)を帝国議会の協賛なしに発することができた。このうち緊急命令については、帝国議会閉会中緊急の必要あるときに発せられるため、次の帝国議会の会期中にその承諾を求める必要があり、この場合を承諾権という。
財政に関する権限は、租税に関しては租税法律主義を採用(同法62条1項)して立法協賛権に含まれたが、そのほかに、予算協賛権(同法64条1項)、国債協賛権(同法62条3項)、国庫負担契約協賛権(同条同項)、超過支出および予算外支出の承諾権(同法64条2項)、決算審査権(同法72条)などがあった。
その他一般国務に関する権限としては、立法および財政に関する事項と異なり協賛権・承諾権を有するものではないが、各議院の天皇に対する上奏権(同法49条)、政府に対する建議権(同法40条)、請願受理権(同法50条)、決議権、審査権、質問権などを有していた。
また各議院がそれぞれ独自に有する自律権として、議院規則の制定権(同法51条)、議事に関する自律権、院内警察権、内部組織および議員の身分に関する権などを有していた。これらの諸権限は憲法、法律のほか議会慣習法に基づくものもあり、現行憲法下の議会に継受されているものもある。
[山野一美]
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1890年(明治23)11月29日に開かれ,1947年(昭和22)5月3日に日本国憲法の施行にともない廃止された立法機関。大日本帝国憲法・議院法・衆議院議員選挙法・貴族院令などにより制度的枠組みを規定されていた。衆議院・貴族院の2院からなり,衆議院が予算先議権をもつほかは,両院は対等とされた。会期3カ月,必要により勅命で延長された。帝国憲法の規定では,立法権は天皇大権の一部だったが(5条),同時に法律はすべて帝国議会の協賛を要することが明文化されており(37条),予算も同様であった。「大権ニ基ケル既定ノ歳出」は政府の同意なく削減・廃除できないという規定(67条)や,予算不成立の場合の前年度予算執行権(71条)などの制限が付されていたとはいえ,帝国議会は明治憲法体制のなかで無視できない権限をもっていた。それが政党の政権参入,政党内閣実現の基礎的要因であった。
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①〔神聖ローマ帝国〕神聖ローマ帝国の聖俗諸侯と帝国都市による身分制議会。中世の宮廷会議(聖俗大諸侯による国王の諮問会議)が12世紀に帝国の機関となり,14世紀に都市も加わったもの。15世紀末の帝国改革により,選帝侯部会,諸侯部会,都市部会の3部会制となったが,帝国を統合する機関として十分に機能しなかった。
②〔ドイツ帝国〕ドイツ帝国で連邦参議院と並ぶ帝国の立法機関。男性普通選挙で選ばれる国民代表議会だが,権限が弱く,帝国の政治において決定的な役割を果たすことはできなかった。
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…住民と皇帝との間には領邦が割り込み,その全体がいまや〈帝国〉として皇帝と相対することになったのである。したがって,このような帝国に,同時代の西ヨーロッパ諸国家のような方向への発展可能性はなく,その国制的諸機関,たとえば帝国議会Reichstag(身分制議会),帝国宮内法院Reichshofgericht,帝国統治院Reichsregimentなどはほとんど実質的意味をもたなかった。ただ,帝国最高法院Reichskammergerichtだけは事実上,等族の手に握られた最高裁判所として帝国の解体にいたるまで活動をつづけ,帝国全体の伝統的身分制的諸権利を維持するのに役だった(身分制国家)。…
…さらに帝国とプロイセンを問わず,行政と軍隊の上層ではユンカー・貴族が勢力をふるいつづけた。このように強力で保守的な行政府に対し,立法府である帝国議会Reichstagは,普通選挙という民主的な基盤の上に立っていたが,その権限には種々制約が加えられ,また連邦参議院やプロイセン邦議会が並び立って,その役割の拡大を妨げていた。しかし帝国議会は,帝国の諸政治機関のうちいちばん社会や世論の動向を敏感に反映する場であり,帝国政府もしだいにその意向を無視できなくなった。…
…
【日本の議会】
日本では,明治初期に,自由民権運動の中心課題として,国会設立の要求が出された。1881年に国会開設を約束する勅諭が発布されるのと並行して自由民権運動は退潮し,89年に大日本帝国憲法が発布され,90年に貴族院と衆議院から成る帝国議会が発足した。1925年には衆議院議員選挙についての男子普通選挙制が成立し,1924‐32年にかけては〈憲政の常道〉の名のもとに,衆議院の多数派に基礎をおく政党内閣が実現したこともあったが,天皇を統治権の総攬者とする帝国憲法の基本原理のもと,制度上も,衆議院に対する貴族院の原則的対等性,天皇の勅令による立法の制度,予算審議権に対する制約,さらには統帥権独立の原則や,枢密院・重臣・元老などの存在によって掣肘(せいちゆう)をうけ,帝国議会の中心的地位を占めることはできなかった。…
※「帝国議会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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