イギリスの歴史家、国際政治学者、文明批評家。ロンドン生まれ。オックスフォード大学のバリオール・カレッジを卒業、そこで1911~1915年まで研究員ならびに指導員として古代史研究にあたる。第一次世界大戦中に外務省政治情報部に入り、1919年パリ講和会議では中東地域専門委員として活躍。その年(1919)、ロンドン大学キングズ・カレッジ教授としてギリシア関係の記念講座を担当、1925年以降は、同大学国際史研究教授および王立国際問題研究所の研究主任として、毎年『国際問題大観』の執筆にあたる。第一次世界大戦の初めごろトゥキディデスを講義中、ギリシア史と現代史との間に顕著な類似性、つまり哲学的同時性が存することに気づき、彼の比較文明的世界史像構築の端緒となる。
その内容は、文明のサイクルと出会い、挑戦と応戦の方式、創造的少数者の意義、解体の指標となる内的および外的プロレタリアート、軍国主義、世界国家、世界教会など、彼の百科全書的な知識で彩られる。晩年に至り、文明を「独立文明」と「衛星文明」に分け、21の文明を設定した点など、これからの文明論の展開の方向性を強く示唆している。彼の文明史学はもろもろの欠陥も存するが、その意義もまた、西洋中心的な歴史観が乗り越えられるにつれて重さを増すに違いない。
おもな著作に『歴史の研究』12巻(1934~1961)、『試練に立つ文明』(1948)、『世界と西欧』(1953)、『一歴史家の宗教観』(1956)、『ヘレニズム』(1959)など。
[神川正彦 2015年7月21日]
『長谷川松治他訳『トインビー著作集』全7巻・別巻1・補巻2(1967~1968、1979・社会思想社)』▽『下島連他訳『歴史の研究』全25巻(1969~1972・経済往来社)』▽『山本新著『トインビーと文明論の争点』(1969・勁草書房)』▽『平田家就著『トインビー研究』(1973・経済往来社)』
イギリスの経済学者、社会改良家。ロンドンに生まれる。オックスフォード大学で経済学と経済史を学び、卒業後同大学で教鞭(きょうべん)をとるかたわら社会改良家として実践的な運動を行い、労働組合、協同組合の普及にも努力した。セツルメント運動の先駆者としても知られ、死後1884年、彼の業績を記念してトインビー・ホールと名づけられた最初のセツルメントがロンドンのホワイト・チャペル地区に建てられた。聴講学生のノートをもとに死後に編集、出版された『18世紀イギリス産業革命講義』Lectures on the Industrial Revolution of the Eighteenth Century in England(1884)は、産業革命という用語を普及させるとともに、その後の産業革命の研究に大きな影響を与えた。彼によれば、生産と分配に関する中世的規制が競争によって代置されたことが産業革命の本質であり、競争の行きすぎが貧困を生み出したのである。したがって、貧困を怠惰によるものという伝統的な考えを排し、自由放任の法的規制の必要があると説いた。
[根本久雄]
イギリスの小説家、批評家。歴史家アーノルド・J・トインビーの息子。第二次世界大戦後に実験的な作風の顕著な新進作家としてイギリス文壇に登場。7人の登場人物の意識の流れを描いた『グッドマン夫人の茶会』(1947)、名門に生まれた老人の回想を中心に展開する『道化師、あるいは別辞』(1961)から『湖からの眺め』(1968)に至る韻文による四部作が代表作。『オブザーバー』紙の書評を長年書いていた。
[富士川義之]
イギリスの経済学者,社会改良家。オックスフォード大学卒業後,母校で教鞭をとるかたわら,ロンドンのイースト・エンドやブラッドフォードなどの工業都市で社会事業を展開。病弱のため早逝したが,のちに編集・出版されたオックスフォードにおけるその経済史の講義は,〈産業革命〉の概念を最初に確立したものとして,史学史上の記念碑的価値をもつことになった。彼の〈産業革命〉論は,その社会事業家としての問題意識と一体となって,劇的な変化,つまり革命があったこと,その結果民衆の生活水準が著しく低下したことの2点を柱としており,以後,この2点をめぐってさまざまな論争が展開される。とくに後者については,その主張はJ.H.クラッパムらの〈楽観説〉派から〈トインビー伝説〉と批判されたが,彼の立場への支持もいまだになくなってはいない。なお,イースト・エンドに現存する〈トインビー・ホールToynbee Hall〉は,その没後,1884年に彼を記念してS.A.バーネットが設立した世界最初のセツルメントである。
執筆者:川北 稔
イギリスの歴史家。〈産業革命〉概念の普及者A.トインビーの甥。オックスフォード大学で古典古代史を学び,外交官としてパリ講和会議に列席。ロンドン大学教授(1919-24)をはじめ,王立国際問題研究所研究部長,外務省調査部長を務めた。全人類史を21の文明圏のもとで包括的に把握した主著《歴史の研究》全12巻(1934-61)によって注目を集め,独自の文明評論活動を展開した。ほかに《試練に立つ文明》(1948)などの著書がある。1929,56,67年の3度にわたって来日。
執筆者:今井 宏
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
1852~83
イギリスの経済学者,社会改良家。オクスフォード大学での講義をまとめた『イギリス18世紀産業革命講義』(1884年)は「産業革命」という歴史用語を普及させるとともに,それを「激変,窮乏」としてとらえる古典的学説を生んだ。社会改良に尽力した彼を記念してロンドンにトインビー・ホールが建てられた。甥のJ.A.トインビーは20世紀の著名な歴史家。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…しかし,彼らのいう〈東方問題〉とは実に〈西方問題〉にほかならなかったといってよい。このヨーロッパ中心主義にひたった偏見に満ちた伝統と決別しようとしたのは,A.トインビーである。彼の抱負は,1923年に公刊された著書《ギリシアとトルコにおける西方問題The Western Question in Greece and Turkey》にこめられている。…
…なお,この場合のローマとは通例いわゆる西ローマ帝国を指すが,没落原因論が多様であると同様,没落時期についても西ローマ帝国が消滅した476年という伝統的年代で一致しているわけではない。A.J.トインビーやウォールバンクF.W.Walbankのように,すでに前5世紀ギリシアのポリス世界に古代文明没落の徴をみる説から,7世紀中葉以後のアラブの進出まで古代地中海世界は存続していたと説くH.ピレンヌ説までさまざまである。
[古代]
ローマ没落観は,すでにローマ興隆期から存在した。…
…
【産業革命論の変遷】
〈産業革命〉という言葉そのものは,K.マルクスやフランスのA.deトックビルらによっても用いられたが,厳密な学術用語としては,1880年代になってイギリスの社会改良家A.トインビーによって確立させられた。トインビーは,ケンブリッジで教鞭をとるかたわら,ロンドンのイースト・エンドなどのスラム改良に活躍した人物で,今もトインビー・ホールにその名をとどめている。…
※「トインビー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新