バーネット(読み)ばーねっと(その他表記)Frank Macfarlane Burnet

デジタル大辞泉 「バーネット」の意味・読み・例文・類語

バーネット(Frances Eliza Hodgson Burnett)

[1849~1924]米国の女流小説家。英国生まれ。「小公子」「小公女」「秘密の花園」などで人気を博す。

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精選版 日本国語大辞典 「バーネット」の意味・読み・例文・類語

バーネット

  1. ( Frances Eliza Burnett フランシス=エライザ━ ) イギリス生まれのアメリカの女性作家。「小公子」「小公女」「秘密の花園」などの児童文学で知られる。(一八四九‐一九二四

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「バーネット」の意味・わかりやすい解説

バーネット(Frank Macfarlane Burnet)
ばーねっと
Frank Macfarlane Burnet
(1899―1985)

オーストラリアの免疫学者。銀行の支配人の息子として、ビクトリアトララルゴンに生まれる。メルボルン大学の医学部に進学し、1923年医学博士号を取得した。メルボルン大学の研究所や病院に勤務したのち、1926年ロンドンのリスター研究所に留学した。1944年メルボルン大学の実験医学研究所の教授および所長となり、1965年まで務めた。1951年にはナイト爵に叙せられ、1958年にはメリット勲章を受けている。

 ウイルスの研究を行い、1935年にはインフルエンザA型ウイルスを培養、分離に成功し、高い評価を得た。この研究を進めていくうちに免疫学に強い関心をもち、免疫をもたらす抗体が産生されるのは先天的なものではなく、後天的につくりだされるという説を提唱した。この説は、のちにイギリスのメダワーによって立証された。この業績により、1960年のノーベル医学生理学賞をメダワーとともに受賞した。

[編集部]


バーネット(Frances Eliza Hodgson Burnett)
ばーねっと
Frances Eliza Hodgson Burnett
(1849―1924)

アメリカの女流作家。11月24日、イギリス、マンチェスターの富裕な金物商の家に生まれる。3歳のときに父を失ったため経済的に困窮し、1865年に家族とともにアメリカに移住した。幼いときから空想したり物語をつくったりすることが好きだったので、家計を助けようと出版社に物語の原稿を送ったところ採用され、68年から作家として本格的活動が始まった。73年、医師のスワン・バーネットと結婚。次男をモデルにした『小公子』(1886)で大成功を収め、『小公女』(1905)、アメリカ児童文学の古典とまでいわれるようになった『秘密の花園』(1910)により、作家としての名を不朽のものにした。さらに、自らの置かれた境遇のなかで前向きに生きる主人公を描くことにより、教訓主義に偏向しがちだったアメリカの児童文学に一つの転機を与えた。1924年10月29日没。

[掛川恭子]

『『秘密の花園』(吉田勝江訳・岩波少年文庫/岡上鈴江訳・旺文社文庫)』『猪熊葉子訳『秘密の花園』(1979・福音館書店)』

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改訂新版 世界大百科事典 「バーネット」の意味・わかりやすい解説

バーネット
Samuel Augustus Barnett
生没年:1844-1913

イギリスの牧師で社会事業家。1867年,オックスフォード大学卒業後,聖職に入り,28歳のときロンドンのスラム地域の聖ユダ教会の司祭に任じられ,妻のヘンリエッタHenriettaとともに教区内の貧民救済にあたった。なおヘンリエッタは終生夫の事業に協力した。キリスト教社会主義者としてセツルメント運動を行っている。A.トインビーに影響を与え,トインビー没後にその名を冠した世界最初のセツルメント・ハウス〈トインビー・ホール〉の初代館長となり,1906年まで活躍した。1881年に来日したこともあるが,その活動は本国はもちろん他の多くの国々の社会改良運動に大きな影響を与えている。バーネットは〈セツルメントの父〉とも呼ばれている。
執筆者:


バーネット
Frank Macfarlane Burnet
生没年:1899-1985

オーストラリアの医学者,免疫学者。メルボルン大学で学位を得た(1923)のち,ロンドン大学に留学。母国に帰ってメルボルン大学教授となる(1944)。動物ウイルスバクテリオファージの研究から免疫機構の研究に進み,抗体の生体内生産について,クローン選択説を唱えた(1957)。単一の特異的抗原を生ずる各クローンが抗原に刺激されて増殖するというもので,それまでの鋳型説を否定する革新的なものであった。この業績により,P.B.メダワーとともにノーベル医学生理学賞を受けた(1960)。名著《クローン選択説》(1959)ほか免疫学に関する啓蒙書,文明論など数多くの著作がある。
執筆者:


バーネット
John Burnet
生没年:1863-1928

イギリスの古典文献学者。スコットランドに生まれる。エジンバラ大学,オックスフォード大学に学び,《初期ギリシア哲学》(1892)により認められ聖アンドルーズ大学教授となる。彼の校訂になる《プラトン全集》5巻(1900-07)は全集としては今日もなお最良のものとして価値を失っていない。ほかに《ギリシア哲学,第1部,タレスからプラトンまで》(1914)などがある。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「バーネット」の意味・わかりやすい解説

バーネット
Burnet, Gilbert

[生]1643.9.18. エディンバラ
[没]1715.3.17. ロンドン
イギリスの聖職者,歴史家。 1669年よりグラスゴー大学神学教授。国王チャールズ2世の不品行をしばしば忠告し,85年ジェームズ2世の即位とともにオランダに亡命,同地で,オランニェ公ウィレム (のちのウィリアム3世 ) の信用を得て,88年名誉革命に際し従軍牧師としてオランダからイギリスに同行。 89年ソールズベリー主教。主著『イギリス宗教改革史』 History of the Reformation of the Church of England,『同時代史』 History of his own Times。特に後者は名誉革命の史料として貴重。

バーネット
Burnett, Frances Eliza

[生]1849.11.24. マンチェスター
[没]1924.10.29. ニューヨーク,プランドーム
アメリカの女流作家。旧姓 Hodgson。イギリスに生れ,父を失ってのち一家とともに渡米,1873年医師スワン・バーネットと結婚した。その頃から創作を始め,77年にランカシャーの鉱山を舞台にした処女作『ラウリーの娘』 That Lass o' Lowrie'sを発表,その後子供向けのロマンチックな作品を多く書いた。最も有名なのは『小公子』 Little Lord Fauntleroy (1886) 。ほかに『小公女』 The Little Princess (1905) ,『秘密の花園』 The Secret Garden (10) など。

バーネット
Burnet, Sir (Frank) Macfarlane

[生]1899.9.3. ビクトリア,トララルゴン
[没]1985.8.31. メルボルン
オーストラリアの医師,免疫学者。 1923年メルボルン大学で学位取得。 26~27年ロンドンのリスター予防医学研究所で研究して帰国。 44~65年,メルボルン大学実験医学教授兼ウォルター=エリザホール医学研究所長。組織移植への獲得性免疫寛容の研究の過程で抗体の産生機構にクローン選択説を提唱。これに対して 60年,P.メダウォアとともにノーベル生理学・医学賞を授与された。免疫の研究のほかにも,バクテリオファージによって細菌を同定する方法を発見し,生きているニワトリ胚でウイルスを培養,定量する技術を開発した。また,インフルエンザウイルスを研究し,Q熱の病原体を分離した。 61年来日。

バーネット
Barnet

イギリスイングランド南東部,グレーターロンドンを構成する 33地区の一つ。外部ロンドンに属する区で,グレーターロンドンの北西部に位置する。19世紀半ばに鉄道が通じるまではほぼ全域が農業地帯であったが,その後人口が急増して宅地化が進み,ロンドンの郊外住宅地となった。工業も盛んで,自動車,電機,化学などの工場が立地する。区内にはチッピング・バーネット聖堂(1250)をはじめとする古い建築物が保存されている。面積 87km2。人口 31万4564(2001)。

バーネット
Barnett, Samuel Augustus

[生]1844.2.8. ブリストル
[没]1913.6.17. ロンドン
イギリス国教会牧師,社会改良家。ロンドンの極貧の小教区の牧師となり,成人夜学校を創始,社会事業に献身した。 1875年 A.トインビーの小教区訪問を機にオックスフォード大学生と交流,大学生の社会活動を組織し,84年にはトインビーを記念するセツルメント,トインビー・ホールが創設され,バーネットはその長となった。死後,彼の業績を記念して,社会問題研究センターとしてバーネット・ハウスが設立された。主著『実践的社会主義』 Practicable Socialism (1888) 。

バーネット
Burnet, John

[生]1863.12.6. エディンバラ
[没]1928.5.26. セントアンドルーズ
イギリスのギリシア哲学研究家。 1892年セントアンドルーズ大学教授。おもな業績は,言語学的知識を多用したギリシア哲学史と『プラトン全集』の校訂。イデア説をソクラテスのものとし,バーネット=テーラー説を立てた。主著『初期ギリシア哲学』 Early Greek Philosophy (1892) ,『ギリシア哲学』 Greek Philosophy (1914) 。

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百科事典マイペディア 「バーネット」の意味・わかりやすい解説

バーネット

米国の女性作家。英国に生まれ,一家とともに米国に移住,早くから小説を書いた。《小公子》,《小公女》(1888年),《秘密の花園》(1905年)などが有名。
→関連項目若松賤子

バーネット

オーストラリアの医学者。メルボルン大学卒,のち同大学実験医学教授。免疫抗体の産生機構についてクローン選択説を発表。ほかにウイルスにおける遺伝子組換え現象など多方面の研究がある。1960年ノーベル生理医学賞。
→関連項目メダワー

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世界大百科事典(旧版)内のバーネットの言及

【セツルメント】より

…そして貧困を除去するために社会改良が重要であるとし,このために知識人がスラムに住み込んで貧困についての人々の認識を改めさせると同時に,スラムの人々との知的および人格的接触を通して,その自覚を促していく必要を主張している。この考え方は,1884年にS.バーネット夫妻を中心にして設けられたロンドンのトインビー・ホール(A.トインビーにちなみ命名)で具体化され,これが最初のセツルメントとされている。アメリカではJ.アダムズが89年にシカゴに建てたハル・ハウスがセツルメント運動をアメリカに広げる端緒を開いたといわれている。…

【トインビー】より

…とくに後者については,その主張はJ.H.クラッパムらの〈楽観説〉派から〈トインビー伝説〉と批判されたが,彼の立場への支持もいまだになくなってはいない。なお,イースト・エンドに現存する〈トインビー・ホールToynbee Hall〉は,その没後,1884年に彼を記念してS.A.バーネットが設立した世界最初のセツルメントである。【川北 稔】。…

【クローン選択説】より

…1957年にバーネットF.M.Burnetによって提唱された免疫理論。高等動物は異物(抗原)の侵入に対して抗体を産生する。…

【クローン選択説】より

…1957年にバーネットF.M.Burnetによって提唱された免疫理論。高等動物は異物(抗原)の侵入に対して抗体を産生する。…

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