改訂新版 世界大百科事典 「ドゥラユーロポス」の意味・わかりやすい解説
ドゥラ・ユーロポス
Dura Europos
シリア東部,ユーフラテス川右岸にある古代都市遺跡。ギリシア語ではドゥラ・エウロポスDoura Eurōpos。前300年ころ,セレウコス1世によって建設された要塞都市で,ヘレニズム時代は軍事都市にすぎなかったが,パルティア人が同市を占領した前100年ころから東西交易の中継基地として発展し,とくにパルミュラの発展により大きな恩恵を受けた。紀元後165年ローマ軍の支配するところとなり,256年ササン朝によって略奪され,都市としての歴史を終わる。
1921年偶然に発見され,22年以降,キュモンF.V.M.CumontやM.I.ロストフツェフによって組織的発掘が行われた。城壁内は碁盤目状の街路が走り,ヘレニズム,パルティア,ローマの3時代の住宅や公共建築が出土した。住宅は〈リュシアスの家〉や〈役人の家〉のごとく中庭付き陸屋根のタイプが多い。神殿には,〈コノンの供犠〉(後65-75ころ)や〈テレンシウスの供犠〉(3世紀)などの壁画で装飾された城壁北西隅のベル神殿(パルミュラ神殿),ゼウス・メギストス神殿,アルテミス・ナナイア神殿,アタルガティス神殿などがあり,いずれも内陣を重視するメソポタミア的要素を有している。また,ミトラス教の集会場(ミトレウム)やシナゴーグも発見され,とくに後者の旧約聖書伝壁画は貴重なユダヤ教美術資料である。
ローマ時代にはローマ都市としての整備がなされ,公共浴場,軍営本部,将校宿舎などが造られた。出土したこれらの壁画,建築,彫刻工芸品は,前3世紀から後3世紀までのヘレニズム・ローマ美術とパルティア美術が相互的影響を与え,それらの要素とセム系要素が混在する独特の美術であった。したがって,ヘレニズム,ローマ,パルティア,それにササン朝の美術・文化を研究する上で貴重な資料である。
執筆者:青柳 正規
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報