シリアとバビロニアを結ぶ隊商路の中継地として,ローマ時代にとくに栄えた古代都市。遺跡はシリアのダマスクスの北東約200kmに位置する。その起源は古く,聖書やアッシリアの記録ではタドモルTadmor,タドマルTadmarと呼ばれている。付近に豊かな硫黄鉱泉があり,シリア砂漠を横断する隊商路のオアシスとして集落が形成された。ヘレニズム時代まではシリア砂漠北方を迂回するルートが主要な隊商路であったが,セレウコス朝シリアとプトレマイオス朝エジプトの対立に続いて,前2~前1世紀にかけて東方のパルティアが勢力を拡大し,セレウコス朝シリアを圧倒してメソポタミアからシリアに進出した。こうした混乱状態の中で,従来の隊商路に代わってユーフラテス川流域から直接シリア砂漠を横断してダマスクスやエメサに至るルートが重要となり,パルミュラはこのルートの中継地として急速に発展し,またその強力な弓兵隊は隊商路の安全を警備し,両地間の交易を確保した。前1世紀になると西からローマが進出してパルティアと対立した。シリアは前64年ローマ属州とされ,またアントニウスは前41年パルミュラの征服を試みたが失敗した。その後パルミュラは,パルティアとローマの緩衝地帯として,また双方の物資交流の中心地として,その独立を保障された。後17年ころローマ帝国に編入されたが,多くの特権を認められた。トラヤヌス帝による東方征服の際,パルミュラも一時征服されたが長続きしなかった。続くハドリアヌス帝は129年にパルミュラを訪問してその自由を認め,パルミュラはハドリアナHadriana市とも呼ばれるようになった。
2~3世紀にかけて,パルミュラは隊商都市として大いに繁栄し,その領土も拡大した。通行交易税の徴収など広範な自治権を付与され,商業は発展し,パルミュラ商人の活動範囲は,エジプト,ローマさらにダキア,ガリア,スペインにまで及んだ。またその弓兵隊は,隊商路の警備だけでなく,ローマの補助軍としてシリア辺境などに配備された。3世紀初め,セウェルス朝時代にパルミュラはローマ植民市に昇格し,多くの市民がローマ市民権を獲得し,ローマ風の名前を自分達の名に付け加えた。また有名な列柱大通りなど,重要な建物も多くはこの時代に建設された。3世紀のササン朝ペルシアの脅威の増大とローマ中央政府の混乱の中で,パルミュラのローマからの自立と王国化が進んだ。3世紀半ば,パルミュラの首長オダエナトゥスOdaenathusは東方から侵入してきたササン朝ペルシアを撃退し,ローマ皇帝から東方領の行政総監督官corrector totius orientisの称号を与えられた。267年彼の死後,その妻ゼノビアは息子ウァバラトゥスVaballathusをパルミュラ王としてローマからの独立と領土拡大を図り,小アジアからエジプトに至る広大な領域を征服し,さらに自ら〈アウグスタ〉と称するに及んで,アウレリアヌス帝はパルミュラ討伐に着手,ゼノビアらを捕らえ,273年パルミュラは徹底的に破壊され,その繁栄は終わった。その後パルミュラはディオクレティアヌス帝時代にローマ軍の駐屯地とされたが,7世紀以後アラブにより支配された。
パルミュラは約25の部族の結合により成り立っていたが,とくに有力な4部族が支配権を握っていた。住民はセム系の民族が大部分で,他にイラン系,ギリシア系などの少数の住民がいた。言語はアラム語がおもに使われ,ギリシア語,ラテン語も少しみられる。またパルミュラは,ギリシア,ローマの西方文化とパルティア,ペルシアなどのオリエント文化の接点にあり,それゆえ18世紀以後発掘されたバアル大神殿,列柱大通り,凱旋門,独特な塔屋式廟墓などの遺跡にみられるように,独特の混交文化を発達させた。
執筆者:島 創平
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