ナイジェリア戦争(読み)ないじぇりあせんそう

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ナイジェリア戦争
ないじぇりあせんそう

西アフリカ、ナイジェリア連邦共和国の東部州がビアフラ共和国として分離独立を宣言した問題をめぐって起こった内戦をいう。ナイジェリア内戦またはビアフラ戦争ともいう。ナイジェリアは、アフリカで最多の人口ともっとも複雑な部族構成をもつ国であるが、それだけに独立後の国民的統合は容易に進まず、地域対立、部族対立に悩まされていた。こうした状況のなかで、1966年1月に軍部クーデターが起こり、北部優位の文民政府にかわって、東部の部族イボ出身の将軍イロンシJohnson Thomas Umunnakwe Aguiyi-Ironsi(1924―1966)を議長とする最高軍事評議会が政権を握ると、地域的、部族的対立がいっそう悪化し、同年7月末にイロンシは西部州で暗殺され、かわって8月初めに北部州の少数部族出身のゴウォンが最高軍事評議会議長に就任した。ゴウォンは、地域対立、部族対立を緩和する目的で、州政府の権限縮小の方針を打ち出したが、イボ出身の東部州軍政長官オジュクはこれに反対の姿勢を示し、両者の対立は深まった。1967年5月ゴウォン連邦軍事政府はかねてからの方針に沿って、それまでの4州制から12州制への移行を図ったところ、この措置によって3州に細分化されることに反発したオジュクの東部州は、5月30日にビアフラ共和国として分離独立する旨宣言した。この分離独立の背景には、東部州で産出される石油の収入の配分をめぐる、連邦政府と州政府の対立もあった。また1966年なかば以降北部州各地でイボ人など東部州出身者に対する組織的迫害事件が多発したことも、分離独立の間接的原因に含まれる。連邦軍事政府はむろんこの分離独立を認めず、連邦への復帰を求めたが、ビアフラはこれを拒否し、1967年7月上旬ついに戦争が勃発(ぼっぱつ)した。ビアフラ側は戦争の初期の段階で中西部州の首都ベニンを占領するなど優勢を示したが、当時のソ連・イギリスなどの武器援助を得た連邦軍はしだいにビアフラ軍を圧倒し、約2年半の戦闘ののち、1970年1月中旬ビアフラの臨時首都オウェリが陥落、戦争は終結した。この間ビアフラ側は戦死者・餓死者をあわせて約200万人(主としてイボ人)の犠牲者を出し、その悲惨な状況は世界の注目を集めた。また、ビアフラを軍事的に支援したフランス、連邦側にたったソ連・イギリスの行動は、戦争を長期化させる一因となり、大国のエゴイズムとして批判された。アフリカではガボン、コートジボワール、ザンビア、タンザニアの4か国がビアフラを承認したが、アフリカ統一機構(OAU)は、和平の仲介は試みたものの、加盟国における分離主義の否定というその基本的立場から、一貫して連邦軍事政府の主張を支持した。1970年に連邦軍事政府が勝利した後、東部州は歴代政権から冷遇された。[小田英郎]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

今日のキーワード

適応障害

心理社会的なストレスがはっきりと認められ、情緒面や行動面に問題が生じるもの。職場の人間関係、夫婦間の葛藤を始め、親の離婚、子供の自立、失恋、身体疾患など、一過性のものから持続的なものまで、ストレス因子...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android