コートジボワール(読み)こーとじぼわーる(その他表記)Côte d'Ivoire

日本大百科全書(ニッポニカ) 「コートジボワール」の意味・わかりやすい解説

コートジボワール
こーとじぼわーる
Côte d'Ivoire

西アフリカギニア湾に面した共和国。正称はコートジボワール共和国République de Côte d'Ivoire。東はガーナ、北はブルキナ・ファソ、マリ、西はギニア、リベリアと国境を接する。15世紀ごろからギニア湾沿岸に渡来していたヨーロッパ人たちは、象牙(ぞうげ)(イボワール)がこの地域から多く搬出されていたことから、この地域の沿岸をコートジボワール(象牙海岸)と名づけた。それが植民地名として採用され、独立後もそのまま国名として継承されている。面積32万2462平方キロメートル、人口1965万8000(2006推計)、2222万4509(2014センサス)。人口密度1平方キロメートル当り61人(2006推計)、80人(2019推計)。1983年、植民地時代の1934年から首都であったアビジャンから初代大統領ウフェボワニウフエボワニ)の生地ヤムスクロに遷都されたが、政治、経済の中心となっているのは、依然としてアビジャンである。

[原口武彦]

自然

国土の大部分は平坦(へいたん)で、ギニア湾に向かって緩やかに傾斜している。北西部のギニアとの国境に沿って南北に走る山脈があり、リベリアとも接する3国の国境地帯にあるニンバ山地(最高標高1752メートル)が唯一の山岳地帯を形成。コモエ川、バンダマ川、ササンドラ川、カバリー川など大きな河川はいずれも北から南に流れ、ギニア湾に注ぐ。海岸線は全体に出入りが少ないが、東部では海岸線の内側に数多くのラグーン(潟湖(せきこ))が入り組んでいる。

 国土のほぼ中央を東西に走る北緯8度線を境に、南は熱帯雨林地帯、北はサバナ地帯であり、気候的に対照をなしている。南部では5月から7月までと、10月から11月までの大小二つの雨期があり、北部では6月から10月までが雨期である。年降水量は沿岸部のアビジャンでは1732.4ミリメートルであるが、北上するにしたがって少なくなる。沿岸では湿度が高く、気温は年間を通じて25~28℃であるが、北部サバナでは最低14℃、最高35℃を超え、寒暖の差が大きくなる。このような気候条件を反映して、この国の主要な輸出産品であるコーヒー、ココアなどは、いずれも熱帯雨林地帯で栽培され、南北の貧富の格差は拡大している。食糧作物としては北部ではおもにアワ、ヒエ、モロコシなどの穀類が、中南部ではヤムイモキャッサバ(根を食用とする)、プランテン・バナナ(料理用バナナ)など根茎類と米が栽培されている。

[原口武彦]

歴史

19世紀末、フランスによって植民地化されるまでは、この地域は沿岸よりも内陸部が開発されていた。紀元後数世紀に始まったといわれるサハラ越え交易を通じて、イスラム文明がサハラを越えてサバナ地帯にまで浸透してきた。サハラ南縁には数多くの王国が形成され、現在のコートジボワール北部にも、コング、ボンドゥクなど商業都市国家が建設され、繁栄した。そして植民地化前夜の一時期(1887~1896)には、内陸の一部は、フランス植民地軍に武力抵抗を続けていたサモリ帝国(第二次)の支配下に入った。

 フランスによる植民地化は、1843年、沿岸のアシニなどの諸首長との間に保護領条約を結んだことを皮切りに、沿岸から内陸に向かって進められ、19世紀末までには今日のコートジボワールのほぼ全域が征服され、1893年フランス領植民地コートジボワールが誕生した。

 1904年には、西アフリカに建設されたセネガルなど他のフランス植民地とともに、セネガルの首都ダカールに総督府を置くフランス領西アフリカ(AOF)に編入された。第二次世界大戦後、コーヒー、ココア栽培農民の農民組合を基盤に台頭したウフェボワニ(独立後の初代大統領)は、コートジボワール民主党(PDCI)を結成、独立運動を主導した。1958年にドゴール憲法に基づくフランス共同体内の自治共和国となり、1960年完全独立国に平和裏に移行した。独立後成立したウフェボワニ政権は、親仏・親西欧路線をとり、アフリカの穏健派諸国を結集したモンロビア・グループのリーダー的役割を果たした。

[原口武彦]

政治

1960年8月に独立し、同年10月に憲法を制定して大統領制の共和国となった。現在の国民議会の議席数は225で任期は5年。初代大統領には独立運動時代からの政治指導者であったウフェボワニが選出され、以来1990年の総選挙まで7選されて国父的な存在となった。しかし、ウフェボワニは1993年12月、任期なかばで病死、国会議長アンリ・コナン・ベディエHenri Konan Bédié(1934―2023)が憲法の規定により残りの任期を継承、その後、1995年の大統領選で当選した。政体は、1946年に結成されたウフェボワニの率いるPDCIの一党制であったが、1990年、いわゆる政治的民主化の結果、複数政党制に移行した。同年秋、独立後初めての複数の政党による選挙が実施されたが、PDCIが圧勝し、政権党の座は揺るがなかった。国民議会のほかに、国家の諮問機関として、各界の代表70人で構成する経済社会評議会が設けられている。ウフェボワニ政権は、一貫して親仏・親西欧外交路線をとり、経済政策としては、独立当初から外国資本を優遇し積極的に導入することによって工業化を推進してきた。したがって西欧陣営側からは第三世界の「優等生」とみなされてきた。

 コートジボワールは、独立以来、対外戦争の経験はなく、また軍部によるクーデターも、数度、企図されたことがあるがいずれも失敗に終わり、文民政権を維持してきた。

 しかし、1999年12月元軍参謀長ロベール・ゲイRobert Guéï(1941―2002)がクーデターを断行。ベディエは失脚し、ゲイが実権を掌握、2000年1月には大統領に就任し、コートジボワールは独立してから初めて軍事政権下に置かれることとなった。同年10月に行われた民政移管のための大統領選は、ベディエの宿敵であった元首相アラサンヌ・ワタラAlassane Ouattara(1942― )を外国籍ということで法制的に排除し、またかつての政権党PDCIも立候補者を出せず、イボワール人民戦線(FPI)党首ローラン・バボ(バグボ)Laurent Gbagbo(1945― )とゲイ将軍との一騎打ちとなった。開票初期段階ではバボがリードしていたが、軍事政権は開票作業中、一方的に選挙管理委員会を解散し、ゲイの当選を発表。これに対して市民が抗議デモを行い、これに反大統領派の兵士らも加わった。ゲイは逃亡し軍事政権は崩壊、バボが大統領に就任した。2002年9月、バボ大統領体制下でその処遇などに不満をもつ軍の一部が反乱をおこし、第二の都市ブアケを中心に北部一帯を占拠した。翌10月にバボは西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)の仲介で反乱勢力との停戦に合意したが、西部地区で別の勢力による反政府活動が開始された。このため、2003年1月フランスの仲介で全紛争当事者参加の和平円卓会議が開催され、和平合意(リナ・マルクーシ合意)が成立、同年3月には国民和解政府が樹立された。しかし、2004年11月政府軍が反政府軍への攻撃を再開し、情勢はふたたび緊迫。2005年4月には、南アフリカ大統領ムベキThabo Mbeki(1942― )の仲介により、内戦終結を宣言する和平合意(プレトリア合意)が締結された。しかし、その後も国家統一を目ざす大統領選挙は2005年10月、2006年10月、2008年11月と3度にわたって延期され、やっと2010年10月に実施の運びとなった。しかし大統領バボと元首相ワタラとの決選投票となった第2回投票の結果は、ワタラの勝利(得票率54.14%)を認める独立選挙委員会の発表に対して、その上位の認定機関である憲法評議会は一部の選挙区に不正があったとしてそれを認めず、それらの選挙区を除く結果としてバボの当選(得票率51.45%)を認めたため事態は紛糾することになった。バボとワタラの2人がそれぞれ大統領を名のるという異常事態は11月28日に行われた第2回投票から4か月間にわたって続き、アフリカ連合(AU)を中心に行われた数回の調停工作も失敗に終わった。内戦の危機が迫るなか、2011年4月11日、国連、フランスの支援を受けたワタラ派の軍隊が大統領邸に侵入、地下室にたてこもり抵抗を続けていたバボを逮捕したことでこの紛争は軍事的に決着し、ワタラ新政権が成立した。

 なお、2002年の兵力は陸軍6500、海軍900、空軍700、大統領警備隊1350、憲兵7600。アビジャンの郊外には、独立以後もフランス軍の基地が置かれている。

[原口武彦]

経済

1960年の政治的独立以降、周辺諸国の停滞をしり目に1960年代、1970年代を通じて年平均8%という高度成長を持続し、1人当り国内総生産(GDP)は1977年にすでに20万CFAフラン(当時の為替(かわせ)レートで約1000ドル)の水準を超えた。「象牙の奇跡」(ミラクル・イボワリアン)とよばれたこの高度成長の要因は、コーヒー、ココアなど熱帯産品の生産、輸出の増大と、おもに外国資本による急速な工業化であった。

 熱帯雨林地帯のアフリカ人小農を生産の担い手とするコーヒー、ココア生産は、1950年代いずれも5万トンの水準にとどまっていたものが、コーヒーについてはその生産の拡大期がインスタントコーヒーの開発などによる国際的需要の増大期と一致したこともあって輸出は順調に伸び、1970年代末にはいずれも6倍の30万トン前後の水準に達し、世界屈指のコーヒー、ココアの生産・輸出国となった。他方、おもに外国資本の手による工業化は、輸出産品の加工、繊維産業など輸入消費財の代替、最終加工など軽工業を中心に年率平均15%という急速な成長を持続してきた。1960年に国内総生産の15.2%を占めるにすぎなかった第二次産業部門は、1976年には25%を占めるまでに拡大した。

 このように1960年代、1970年代を通じて急成長を続けた経済も、1980年代には一つの転機を迎えた。国際市況の悪化のため、コーヒー、ココアの輸出が伸び悩み、累積的に増大してきた外債の金融負担が外貨事情を圧迫し、1980年代末からは、IMF(国際通貨基金)・世界銀行主導の構造調整政策によって経済の建て直しが図られた。コートジボワールは水力以外、エネルギー資源をもっていなかったが、1970年代末から1980年代にかけて、沿岸沖合いに油田が発見され、発展の新しい起動力として期待が寄せられた。

 1990年代前半も景気は停滞しマイナス成長が続いたが、1990年代中ごろになると、一次産品輸出の伸びなどにより、経済はプラス成長となった。しかし、後半はココアの国際市況の低迷などからふたたび景気は停滞。さらにIMFの融資やヨーロッパ連合(EU)の援助の停止、1999年のクーデターなど国内情勢の不安定化に伴う多国間・2国間援助の停止や投資の減少などにより経済状況は悪化した。一時は民主化プロセスの進展に伴い国際援助が再開されたため、プラス成長が期待されたものの、2002年9月および2004年11月の内政の混乱が経済活動を低下させた。石油・ガス部門に関しては、活発な開発が続けられている。

[原口武彦]

社会

住民は60以上の部族から構成されている。植民地化以前のこの地域には、今日のこの国の版図に見合うような範囲を支配する統一的な政治権力は確立していなかった。それまでの諸部族の分布をみると、今日のこの国の中心部は、東方から流入してきたアカン語系諸族(バウレ人など)、北方のボルタ語系諸族(セヌフォ人など)、北西のマンデ語系諸族(マリンケ人など)、それに古くから西部森林地帯に居住していたと思われるクル語系諸族(ベテ人など)の大別して四つの歴史的、文化的系譜の異なった諸部族の接点をなしていた。そしてこの接点を囲い込むような形で、植民地国境は画定されたのである。そのために、この国は諸部族の「交差点」とよばれている。さらに独立後のこの国の経済的繁栄に引き寄せられて、さまざまな外国人が流入し居住した。その第一はフランス資本とともに流入してきたフランス人で、その数は約5万人といわれた。第二には植民地時代からおもに商人として流入してきたレバノン人、シリア人などアラブ系の外国人で、彼らの数も独立後増大し、約10万から15万人と推計された。第三は周辺諸国から労働力として流入してきたアフリカ系外国人であり、その数は約200万から300万人と推計された(いずれも1988)。1998年時点で、フランス人が約1万4000人、レバノン人が約13万人で、ほかはブルキナ・ファソ、マリ、ギニア、セネガルなどからの移民となっている。最大都市アビジャンでは人口の約3割がこれらさまざまな外国人によって占められている。宗教はもともとは大半が祖先崇拝に基づく部族宗教であったが、イスラム教が北部を中心に35~40%、キリスト教も20~30%を占めるに至っている(2001)。

 独立後、政府は教育政策に力を注ぎ、1963年には、アビジャン大学(今日のコートジボワール国立大学)を設立したのをはじめ、初等・中等教育の拡充も図ってきた。その結果、たとえば独立当初は小学校数1500、生徒数20万人にすぎなかったものが、1980年には4000校、96万人に増大、就学率は1993年で69%に達した。2000~2001年時点での生徒数は小学校204万6861人、中学校66万3636人となっている。

 60余りの部族、つまり60余りの異なった言語が存在するこの国では、植民地時代はもとより独立後も、公用語としてまた教育言語としてもフランス語だけが採用されてきた。しかし教育の普及につれて、フランス語一辺倒の初等教育の問題点が指摘され、他方、教員の不足などからフランス語教育そのものの質的低下もおこりつつある。そのため言語ナショナリズムの台頭と相まって、初等教育における土着諸言語の採用が検討され始めている。

[原口武彦]

日本との関係

日本とは距離的にも遠い西アフリカにあり、とくにこの国はフランス語圏に属するということもあって、1960年代まで日本との関係は疎遠であった。しかし1960年代末、日本の繊維企業が現地に合弁企業を設立したのを皮切りに、1970年代後半から自動車、電気製品などの日本製品が進出し、シェアを急速に拡大しつつある。2004年の対日貿易は、輸出がココアバター(カカオ脂)、ココア豆(カカオ豆)、ココア・ペーストなど1820万ドル、輸入が乗用車、ゴムタイヤ・チューブ、繊維および繊維製品、鉄鋼など3760万ドルとなっている。2003年度までの日本の累積援助実績は、有償資金協力191億円、無償資金協力403億7500万円、技術協力97億9600万円であるが、2002年9月に国内情勢が悪化して以降、緊急的・人道的性格を有する支援、草の根無償資金協力、研修員受入れを除いた経済協力を停止した。1993年5月には高円宮(たかまどのみや)夫妻(高円宮憲仁(のりひと)(1954―2002)、同妃久子(ひさこ)(1953― ))がコートジボワールを表敬訪問、ウフェボワニ大統領が応対した最後の国賓となった。1999年(平成11)6月、ベディエがコートジボワールの元首として初めて来日。

[原口武彦]

『日本貿易振興会編・刊『ジェトロ貿易市場シリーズ コートジボワール』(1983)』『世界経済情報サービス編・刊『ARCレポート コートジボアール――経済・貿易の動向と見通し 1992』(1992)』『原口武彦著『部族と国家――その意味とコートジボワールの現実』(1996・アジア経済研究所、アジア経済出版会発売)』『『開発途上国国別経済協力シリーズ アフリカ編2 象牙海岸共和国』第3版(1997・国際協力推進協会)』『武内進一編『戦争と平和の間』(2008・日本貿易振興機構アジア経済研究所)』『佐藤章編『新興民主主義国における政党の動態と変容』(2010・日本貿易振興機構アジア経済研究所)』


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百科事典マイペディア 「コートジボワール」の意味・わかりやすい解説

コートジボワール

◎正式名称−コートジボワール共和国Republique de Cote d'Ivoire/Republic of Ivory Coast。◎面積−32万2463km2。◎人口−2267万人(2014)。◎首都−法律上はヤムスクロYamoussoukro(49万人,2005)であるが,事実上はアビジャンAbidjan(358万人,2005)。◎住民−バウレ人,アグニ人,ベテ人,マリンケ人,セヌフォ人など。◎宗教−イスラム39%,キリスト教(主にカトリック)26%,民族固有の宗教。◎言語−フランス語(公用語),各民族語。◎通貨−CFA(アフリカ金融共同体)フラン。◎元首−大統領,ウワタラAlassane Ouattara(2011年5月就任,任期5年)。◎首相−カブラン・ダニエル・ダンカンDaniel Kablan Duncan(2012年11月就任)。◎憲法−2000年7月国民投票で承認。◎国会−一院制(定員225,任期5年)。最近の選挙は2011年12月。◎GDP−234億ドル(2008)。◎1人当りGNP−870ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−45.9%(2003)。◎平均寿命−男50.0歳,女51.6歳(2013)。◎乳児死亡率−86‰(2010)。◎識字率−55.3%(2009)。    *    *象牙(ぞうげ)海岸とも。アフリカ西部,大西洋,ギニア湾岸の共和国。東はガーナ,西はリベリアに接し,南の海岸部は熱帯密林で高温多湿,北部は乾燥したサバンナ地帯。農業国で,コーヒー,カカオ,木材を輸出。ダイヤモンド,マンガンの鉱産もある。近年,食品加工,繊維などの工業も発達。 15世紀末ポルトガル人が来航,象牙・奴隷貿易が行われた。1842年フランスが支配権を獲得,19世紀末までに全土がフランス治下に入った。第2次大戦後,のちに初代大統領となるウフエ・ボアニーを指導者に独立運動が展開され,1958年フランス共同体内の自治共和国となり,1960年完全独立した。1990年複数政党制が導入された。1999年12月ロベール・ゲイがクーデタをおこしてベディエ政権を倒し,2000年1月大統領に就任。2000年10月の大統領選挙ではバグボがゲイを破って当選した。2002年9月,ゲイを支持する反政府勢力が武装蜂起(そのさなか,ゲイは戦死)。2003年3月に停戦協定が締結されたものの,南北間の経済格差による部族対立は根深く,政情不安は続いている。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「コートジボワール」の解説

コートジボワール
Côte d'Ivoire

西アフリカ,ギニア湾に面する共和国。15世紀以降,ヨーロッパ諸国と交易,象牙が多く取引されたことから現国名(「象牙海岸」の意)がついた。19世紀末にフランス領植民地となる。1946年,のちに初代大統領になるウフェ・ボアニーがコートジボワール民主党を結成し,独立運動を推進,60年に独立を達成した。その後,資本主義路線での開発をめざし,コーヒーカカオ栽培などで「奇跡」といわれるほどの発展をとげたが,その基盤を周辺諸国からの移民に頼っているため,政情は不安定である。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

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