改訂新版 世界大百科事典 「分離主義」の意味・わかりやすい解説
分離主義 (ぶんりしゅぎ)
separatism
ある政治的・宗教的・民族的集団がより大規模なそれらの集団から分離・独立しようとする考え,およびその運動。この場合,分離しようとする主体は少数民族や地域集団であることが一般である。それは,一国内にあって多数支配者集団と少数被支配者集団,支配民族と少数民族・移民集団それぞれの間で不平等な政治・経済・文化関係を構成している場合,搾取・抑圧・差別されている状況のなかで生じる。すなわち,抑圧・差別体系からの自己集団の解放が目的である。分離主義は,とりわけ1960年代以降に注目されるようになった。それは世界規模で進行している都市化,工業化の進展の過程で,国家の中央集権志向的政策が,地方や少数者集団固有の価値,生活様式,文化などを無視しつつ斉一化しようとする傾向に対し,少数者集団の固有性を主張したことによる。
カナダのケベック州は政治的・経済的意味からカナダの後進地域とみなされてきた。それは,1763年の〈パリ条約〉でイギリスがフランス植民地であったケベックを取り上げて以来,2世紀にわたって続いていた。しかし,1960年に自由党が政権を獲得し,改革運動を推進する過程で意識を先鋭化していった。そして,76年にケベック州のカナダからの分離・独立を唱えるケベック党が政権を担当し,分離・独立熱は高まり,81年の州民投票では独立賛成派が42%を占めた(1985年,89年の州総選挙では分離独立派が大敗)。今日,ほとんどのフランス系カナダ人は,みずからを〈ケベック人〉と称している。
このような分離・独立の動きは,多くの多民族国家に共通してみられる。アメリカのナバホ族,フランスのブルターニュ,ドイツのバイエルン,スペインのバスク,エチオピアのエリトリア(1993年独立),インドネシアの東ティモール,イギリスの北アイルランド,中国のチベット(チベット問題),フィリピンやインド,中国,タイなどのイスラム教徒などがそうである。
それでも冷戦構造の支配する段階では,分離・独立運動は比較的おさえこまれて潜在化していたといえるが,そのタガのはずれた冷戦終結後,民族紛争,分離・独立運動は著しく顕在化した。90年にバルト三国とグルジアがソ連邦からの独立を宣言したのをはじめとして,ソ連邦の消滅後もその動きはとどまらず,現在もなおチェチェン共和国のロシアからの分離・独立問題が未解決のままである。またユーゴスラビアの解体後,ボスニア・ヘルツェゴビナでは,ムスリム人,クロアチア人,セルビア人の3勢力が独立をめぐって対立,内戦となった。
執筆者:星野 昭吉
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報