ロシアの詩人、ジャーナリスト。地主貴族で軍人の父とポーランド系の母の間に、ウクライナの父の勤務地で生まれる。父の退役後ボルガ上流のヤロスラブリに近い父の領地に移り、幼年時代を過ごした。ヤロスラブリで初・中等教育を受けた(1832~37)のち1838年ペテルブルグ(ソ連時代のレニングラード)へ出る。幼年学校への入学を期待した父に背いて、ペテルブルグ大学の聴講生になった(1839~40)ため仕送りを断たれ、極貧のうちに首都の最下層民の生活を身をもって体験した。生活の資を得るため売文稼業に励み、処女詩集『夢と響』(1840)は不評であったが、笑劇は上演されて好評を博した。41年から『文学新聞』や『祖国雑記』誌に批評家として登場、大きな反響をよんだ。ジャーナリストとしての活動は、ベリンスキー、ゲルツェン、ツルゲーネフ、ドストエフスキーらの参加を得て編集し、自然派の文学的宣言ともなった『ペテルブルグの生理学』(1845)、『ペテルブルグ文集』(1846)によって芽を吹き、パナーエフとともに『同時代人』誌を購入し共同編集するに至って大きく開花した(1847~66)。同誌の事実上の主宰者となったネクラーソフは、ツルゲーネフ、トルストイをはじめ多くの有望作家に誌面を提供し、社会学的文芸批評を論争的に展開するチェルヌィシェフスキー、ドブロリューボフなど急進的批評家に好んでページを与えて文壇、論壇の話題をさらい、多数の購読者を獲得していった。しかし、50年代末には執筆陣に分裂が生じ、60年代にそれが激化すると、ネクラーソフは急進派を支持し、ツルゲーネフ、トルストイ、ボトキンら穏健派は同誌を去る一方、やがて強まった政治的反動によって『同時代人』誌も永久停刊の処分を受けた(1866)。失意のネクラーソフは、しかし2年後に経営不振の『祖国雑記』誌を譲り受け、サルティコフ・シチェドリンを共同編集者に招いて事業を終生継続した。
この間詩人としてのネクラーソフは、公衆の面前で鞭(むち)打たれる女に自らのミューズをみた1840年代なかば以来、一貫して虐げられた「小さな人々」の苦悩と悲哀に満ちた世界という、ロシア詩の新生面を開拓していった。ロシア市民詩派の詩的宣言である『詩人と市民』(1855~56)は、詩人である前に市民たれと説いて純粋芸術を排し、『大玄関わきでの黙想』(1858)では、春の出水より深く、民衆の悲哀に浸されるロシアを詠嘆し、『赤鼻のマロース』(1863)では、病死の夫を慕って、けなげに美しく生を消滅させた農婦を切々と描き、史詩『デカブリストの妻』(1871~72)では、歴史の陰に隠れてはいるが夫にまして英雄的なロシア女の偉業と忍耐をたたえた。これらの代表作を含む多くの作品は民衆の生活に取材し、民衆が前面に現れ、民衆の表現と語り口を多用する新しいことばで書かれた。その集大成である『ロシアは誰(だれ)に住みよいか』(1866~76)は7人の百姓が道端で議論を始め、ロシアでけっこうな暮らしをしている者を捜して歩くという構成の長大な叙事詩で、市民詩派のバイブル的作品となった。
最晩年詩人は癌(がん)に冒され病床にあったが、この間に詠まれた短詩群『最期の歌』や、友人の妻パナーエワとの不倫の恋を歌ったシリーズなどは、ネクラーソフが自らの人格の二重性に苦悩する繊細な叙情詩人でもあったことを如実に示している。
[島田 陽]
『谷耕平訳『デカブリストの妻』(岩波文庫)』▽『谷耕平訳『ロシヤは誰に住みよいか』(岩波文庫)』
ソ連の小説家。ウクライナの首都キエフ(現、キーウ)の医師の家に生まれる。キエフ建設大学建築学部を卒業と同時にキエフの演劇研究所に学び俳優となったが、第二次世界大戦に工兵として招集され、スターリングラード(現、ボルゴグラード)の戦いに参加、負傷して退役。ジャーナリストに転身、ヒロイックな戦争の裏面にある兵士たちの苦悩と日常を描いた『スターリングラードの塹壕(ざんごう)にて』(1946。1947スターリン賞)を発表して一躍有名になった。復員兵士を主人公にした『故郷の町にて』(1954)、人妻の情事を描く『キーラ・ゲオルギエブナ』(1961。邦訳『夏の終わり』)は平和な日々にも影を落とす戦争体験を追究した問題作で、ほかにルポルタージュ『大洋の両岸にて』(1962)で体制批判を行った。ソ連軍のチェコ侵入を公然と非難したことなどによりソビエト作家同盟を除名され、1974年亡命、家族とともにパリに住んだ。パリでは、亡命作家ウラジーミル・マクシーモフが創刊した『コンチネント』誌の編集長(1975~1982)を務め、『傍観者の手記』(1975)、『視点と取るに足りぬこと』(1977)、『壁の両側にて』(1978)、『遠い旅から戻りながら』(1971~1981)、『悲しい小さな物語』(1986)を、『コンチネント』誌などに発表し、ニューヨーク、ロンドン、フランクフルトで単行本として刊行する。いずれも西欧についての新しい印象と考察を過去の回想とともに語り、ソ連の政策と自省を込めた時代に対する証言となっている。1987年3月、パリで死んだが、1980年代後半の「ペレストロイカ(建て直し)」以降、ロシア本国でもこの作家の再評価が進み、国外で発表された作品を含めた著作集(1989)が、ロシアでも出版されるようになった。
[水野忠夫]
『草鹿外吉訳『夏の終わり(キーラ・ゲオルギエブナ)』(『世界文学全集30』所収・1965・集英社)』▽『佐々木彰他訳『世界文学大系第94 現代小説集』(1965・筑摩書房)』▽『川崎浹訳『大洋の両岸にて』(『全集・現代世界文学の発見11』所収・1970・学芸書林)』▽『ソヴェート文学研究会訳『ソヴェート文学短編集 1917~1967』(1970・理想社)』▽『小泉猛他訳『現代の世界文学 ロシア短篇』(1971・集英社)』
ロシアの詩人。ヤロスラブリ郊外の農奴50人ばかりの小地主の家に生まれ,土地の学校を卒業,1838年首都ペテルブルグに出る。士官学校に入れようとする父に背いて,ペテルブルグ大学を受験して失敗,家から仕送りを断たれ,貧乏暮しの中で40年詩集《夢と音》を出すが不評。当時ようやく商売になり始めた新聞・雑誌の仕事をして,ベリンスキー,ツルゲーネフ,パナーエフ,ドストエフスキーらを知り,これら新人の作品を集めて45年《ペテルブルグ生理学》,46年《ペテルブルグ文集》を刊行して好評を得た。47年にはプーシキンが創刊した月刊総合誌《現代人》の発行者となり,チェルヌイシェフスキー,ドブロリューボフらを編集陣に加えて,農奴解放前後の言論自由化の波に乗って発行部数をのばし,文壇を支配し世論を指導した。この時期,彼の精神も高揚し,《正面玄関の物想い》(1858),《天候について》(1859-65),《ひと時の騎士》(1860),《厳寒の赤鼻》(1863)等々,ロシア詩のジャンルと様式を革新する作品が書かれた。63年のポーランドの反乱を機に解放の波は退潮,《現代人》の売行きは落ち,66年には発行停止の処分がくる。しかし彼はシチェドリンと組んで,68年《祖国雑記》の編集権を買い取り経営する。この雑誌に連載された叙事詩《ロシアは誰に住みよいか》(1866-76)と《デカブリストの妻》(1872-73。旧題《ロシアの婦人》)は日本でも多くの読者を得ており,とくに前者は,7人の農民が幸福者を求めて遍歴する物語で,農民の知恵に対する詩人の賛嘆が聞かれる。この畢生(ひつせい)の大作は作者の死で未完に終わった。
執筆者:新谷 敬三郎
ソ連邦出身の作家。キエフ出身。建築大学,演劇学校で学び,舞台装置家となった。第2次世界大戦に工兵将校として従軍,その体験をもとに,処女作《スターリングラードの塹壕にて》(1946)を発表,ヘミングウェーばりの作風で,戦争の裏方である工兵たちの哀歓を描き,雪どけ後の戦争文学を先取りした。第2作《故郷の町にて》(1954)では,復員兵の運命を軸に,戦時中の〈対独協力者〉の復権の問題を初めて提起,スターリン批判の線を明確にした。その後も短編《セーニカ》(1956)で自分を傷つけて兵役を免れる青年を,中編《キーラ・ゲオルギエブナ》(1961。邦訳《夏の終り》)で人妻の恋を描くなど,〈自由派〉の旗手として活躍した。アメリカ,イタリアへの旅行記《大洋の両岸にて》(1962)は,いわゆる〈ロバの尻尾〉整風時にフルシチョフから痛罵された。しかし節を曲げずにソルジェニーツィン,サハロフ擁護の立場をつらぬき,74年に共産党から除名され,パリ亡命に追い込まれた。亡命後も《コンチネント》誌を中心に,数多くの時事的エッセーを発表,ロシア亡命者文学の中心的存在であった。
執筆者:江川 卓
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1821~77
ロシアの詩人。雑誌『同時代人』の編集発行人をつとめ,文学における革命的啓蒙活動を行うとともに,長編叙事詩『だれにロシアは住みよいか』などで社会の実情を訴えた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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