封建社会において,領主の支配・隷属下にあった農民のあり方に関する概念であるが,何を基準に農奴とみるかについては,歴史学,経済学,法学といった分野によっても,また地域・時代によっても一様ではない(〈農奴制〉の項目を参照)。ここでは西欧とロシアに限定して論じるが,日本,中国などの前近代の農民のあり方については,〈荘園〉〈地主〉〈小作制度〉などの項目を参照されたい。
西欧中世社会は,当初から支配・隷属関係を内包していたが,中世初期を通じてますます多くの人間がそこにとらえられていった。領主による支配に服する階層の原型は,ローマ帝国だけでなく古ゲルマン社会にも多数存在した奴隷,ないしそれに類する非自由人であった。これらは,家族を構成し,領主から一定の土地を保有して経済的な自立性を強めつつあったが,領主の畑で労働する日数もきわめて多く,領主の家経済になお強く依存していた。その結果,これらは領主によって個別人身的に把握され,ときには保有地と切り離されて売買されることもあり,結婚,相続,住所の選定など身分上の行為は大きく制約されていた。他方で,従来いかなる支配にも服さず,自由人とされていた人々が,しだいに特定の領主に従属するようになり,ことに7世紀以降,領主制が著しく拡延してくるとともに,上昇する奴隷的非自由人と合体して,同一の階層をつくり出す傾向を示す。こうして,9世紀に古典荘園制(ビリカツィオンVillikation制)と呼ばれる所領形態が普及すると,賦役労働を納付しながら,人頭税,フォルマリアージュ(結婚税),マンモルト(死亡税)などの領主の個別人身的な支配に服する農民層が,農村住民の典型的形態となってくる。自由人に由来する者の多くは,端的に非自由人と形容されることは少なかったが,奴隷的非自由人起源の者と本質的に変わらない状況になっており,これらをひっくるめて農奴としてよい。ただし,西欧中世初期には,領主制がなお完全に農村をおおっていないため,農奴とは呼べない独立農民や完全な奴隷も多数存在していた。
一定の法的手続によって農奴を身分的に自由とする農奴解放は早くから行われたが,農奴の減少はむしろ農民層全体が地位を向上する過程で事実上進行した。ことに,農民が村落共同体に団結して領主と対抗するようになると,個別人身的支配は全体として著しく後退する。賦役労働が重要な位置を占める13世紀のイギリスや,領主屋敷に多数の非自由人が生活していた中世盛期のドイツなどでは,全人格的に領主に支配される農奴も,なおかなりの比重で存在した。しかし,農奴制が中世盛期にも存続する場合,とくにフランスでは,その内容は人頭税,フォルマリアージュ,マンモルトなどの納付といった農民の人身と結びついた個別的な義務に限られており,これらに服する者だけが農奴と考えられるようになっていた。これらは,非自由人や半自由人と形容されることも多く,他の農村住民よりは領主の恣意的支配に服する度合が強かった。こうした農奴は,通例は村落内部での少数者であったが,ときには,村民全体,あるいは地域住民の大部分を占めるに至ることもあり,領主による差別的支配の対象として,近世に至るまで多くの場所に存在していた。したがって,中世末期から市民革命期に至るまでの農民一揆や農民反乱では,農奴身分とその特徴的負担の廃止が,しばしば要求されたのである。
執筆者:森本 芳樹
ロシアにおいて封建制・農奴制社会がいつ始まったかについては,今日なおさまざまな議論があるが,そうした〈社会構成体〉としてのロシア農奴制論のほかに,狭義のロシア農奴制,つまり土地への緊縛を本質的特徴とし,1861年になってようやく廃止される農奴制が,いつ,どのように成立し展開したかの議論は別にある。15世紀には原則的には農民の自由な移転が認められていたと考えられるが,15世紀末のモスクワ大公イワン3世の〈1497年法典〉は,全国的に農民の移転を〈ユーリーの日〉(ロシア暦11月26日)前後2週間に定め,移転料を強制した。これと同じ内容のものはイワン4世の〈1550年法典〉に引き継がれたが,その後,全面的に移転を禁止する年が設定され,さらに16世紀末には恒久的に移転を禁止する法令が発布されたと推定されている。そして,これと同時に,領主の逃亡農民への追求権の期限も5年,15年と延長されていき,1649年の〈会議法典Sobornoe ulozhenie〉ではそれが無期限と定められ,ここにロシア農奴制の立法化は完成したとされている。
ロシアの農奴制の成立を考える場合に,こうした立法化を重視すべきか,あるいは立法化を促した社会経済的状況,たとえば領主の賦役経営の拡大を重視すべきかで議論がある。また,このロシア農奴制をエルベ川以東に成立した〈再版農奴制〉に含めて考えるかどうかでも議論がある。しかし,いずれにしても,こうして立法化された農奴制は,ピョートル1世以後,西欧を範とした〈近代化〉を支える役割を果たしながら強化されていった。1762年,貴族が義務的な国家勤務から解放されるなかで,領主の農奴支配の権限も拡大され,それが公的にも認められ,ロシア農奴制は,この〈貴族帝国〉の時代に最盛期を迎えたといわれる。
ところで,18世紀後半~19世紀前半のロシアにおける農民は,大きく分類して,御料地農民,国有地農民,領主農民の三つの範疇に分けられるが,一般に農奴と呼ばれたのは領主農民Pomeshchichii krest'-yaneで,そこには領主の奴隷的存在であった僕婢も含まれた。1857-60年の第10回人口調査によれば,ヨーロッパ・ロシアにおける領主農民の人口は男女合わせて2197万6232,そのうち僕婢は146万7378であった。ロシアの農奴は人格的にも経済的にも何の権利ももたず,過酷な支配の下にあった。農奴は,国家に対して人頭税の支払と兵役が義務づけられたが,国家からは何の保護もうけていなかったし,さらにその生活のあらゆる面で領主に隷属していた。農奴は領主によって自由に売却,贈与,抵当,移住に付され,裁判においても領主から無制限な懲罰(シベリア流刑を含む)をうけ,結婚なども強制をうけることがあった。
農奴は,このような人格的隷属のほかに,経済的には,分与地を受け取る代りに,分与地の対価をはるかに超える厳しさで,貢租(オブローク)あるいは賦役(バールシチナ)の義務を負った。貢租は,農産物や手工業生産物などのほかに,それを換金して,また出稼ぎの貨幣所得によって納められた。賦役は,領主直営地での農作業が主であったが,ほかに,穀物の運搬や道路工事,あるいは領主の工場や鉱山での労働もみられ,それは週3日から最悪の場合には毎日に及んだ。義務の形態は,地味,領地の規模あるいは経営内容から,主として領主の利益になるように選択された。ロシア中央部の農奴は,このように厳しい支配の下で農村共同体(ミール,オプシチナ)をもち,さまざまな活動を行っていた。連帯責任で賦課される義務および土地を労働力,支払能力を単位(何組かの夫妻であるチャグロtyaglo,人口調査登録農)として均等に配分し,それを定期的に割り替え,共同耕作,互助活動を行っていた。そうした自治的な共同体は,農奴の共同の生活の場であり,自分たちの利益を守る連帯の場であったが,他方,領主の農奴支配の道具ともなった。
→封建社会
執筆者:鈴木 健夫
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領主の支配下で隷属状態に置かれて,さまざまな賦役や貢租の支払いを強制された農民。奴隷ではないが,小作人とは異なり,自由人としての社会的権利が認めらず,生まれながらに領主に人身的に隷属することを強制された。日本では江戸時代,中国では宋代以降の農民のあり方がそれにあてはめて解釈されることもあるが,元来は中世ヨーロッパの不自由農民をさす。彼らは,収穫物に対する貢租のほかに,人身的隷属性を象徴する人頭税や,土地からの移動や相続,婚姻の自由を制限する負担である死亡税(マンモルト)と領外婚姻税を支払わねばならなかった。中世ヨーロッパの農民の一般的形態だったが,領主地ごとに農民の身分的地位や負担が異なっており,農奴制の分布には地域差が大きかった。
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…16世紀から19世紀初頭までエルベ川以東のドイツで支配的な領主制であり,同様なタイプは広く東ヨーロッパ地域においても認められる。F.エンゲルスはこれを再版農奴制die zweite Leibeigenschaftと表現し,日本では農場領主制と訳されることもある。この領主制下では農民はラスベジッツLassbesitzというきわめて劣悪な土地保有権のみをもち,領主に人格的に隷属し所領に緊縛されている農奴あるいは世襲隷民Erbuntertanであった。…
…また,中世農民層の二重の源泉に規定されて,古代末期から持ち越されてきた非自由身分と,自由身分との区別が農民のもとに存続していたが,古典荘園制に組織されていたかぎり,自由身分の農民も実際には非自由身分に近い隷属性を示していたと考えられる。このような領主の所領は一般に荘園と呼ばれ,領主の人身的支配下にあった農民は農奴と呼ばれる。 中世初期には都市的集落が存在し,ことに8世紀からは,小額銀貨による商品・貨幣流通が農村にも存在していた。…
… ロシア帝国臣民の3/4以上は農民であったが,狭義のロシア人の中では農民が80%以上の割合を占めていた。1897年の国勢調査の約40年前,すなわち1861年の農奴解放前夜には5000万余りの農民のうち55%が国家農民であり,残りの45%が地主に属する農奴であったと推定されている。農奴は地主の所有物とみなされ,家族ぐるみ,あるいは家族と切りはなされて,売買の対象になった。…
…またナポレオン戦争後アラクチェーエフ体制下の屯田兵制が国民の怨嗟(えんさ)の的になった。兵士あがりの下士官・将校の教養は低く,貴族出身の将校は兵士を農奴扱いした。クリミア戦争敗戦後の軍制改革で1874年までに現役期間は6年(海軍は7年)とされ,兵役に関する身分的特権が廃され,軍隊生活もある程度改善された。…
※「農奴」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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