ロシアの革命的民主主義者、社会思想家。聖職者の子としてサラトフに生まれる。生地の神学校を経てペテルブルグ大学に入学。ベリンスキー、ヘーゲル、フォイエルバハの著作を熱読し、また18世紀フランスの唯物論者、フーリエらの影響を受ける。ロシアの専制政治への批判と西欧の一八四八年革命の余波を受けて、彼は、1850年の卒業時には唯物論的世界観を形成していた。1853年から『現代人(ソブレメンニク)』誌において、農奴解放前後の状況下で農民大衆の立場にたった「下からの」変革を主張し、活発な文筆活動を展開した。1862年逮捕・投獄され、1864年シベリア流刑に処される。1883年にアストラハンに移され、1889年にはサラトフに帰郷を許されるが、4か月後に没した。
著述活動は多岐にわたり、政治社会評論から哲学・経済学・歴史学の論考、文学評論から小説にまで至る。『現実に対する芸術の美学的関係』(1855)では、美とは生であり、芸術は現実認識の手段であるとしてリアリズムを唱え、『ロシア文学のゴーゴリ時代概観』(1855~1856)でロシアにおける文学の重要性を論証した。1860年には、マルクスも高く評価した『ミル経済学原理への評解』や『資本と労働』で、労働者は自らの労働の結果を所有する権利をもつという「勤労者の理論」を提起し、農工業協同組合を社会主義の第一の基本形態として、農村共同体に基づき直接、社会主義に移行する、非資本主義的発展の可能性を述べた。また同年『哲学の人間学的原理』で主観主義と不可知論を否定する実証主義的唯物論を主張し、一方で歴史の進歩と人間生活の推進力を理性にみいだそうとした。この思想は、女性の解放と社会主義的理想を描いた小説『なにをなすべきか』(1863)のなかで新しい人間像の創造となって結実した。この小説は著者自身の不屈の生きざまとともに、19世紀後半の青年たちに多大の影響を及ぼし、とくに作中人物ラフメートフは職業革命家の理想とされた。理性信仰に基づき、社会的利益への志向が内的発意となることを説く「理性的エゴイズム」が、新たな主体的人間の倫理として提唱された。
[大竹由利子]
『石山正三訳『芸術と現実との美学的関係(抄)』(『世界大思想全集27』所収・1954・河出書房)』▽『石川郁男訳『資本と労働』(1965・未来社)』▽『森宏一訳『チェルヌィシェーフスキー著作選集』全2巻(1986~1987・同時代社)』▽『西澤富夫訳『J・S・ミル「経済学原理」への評解』上下(岩波文庫)』▽『金子幸彦訳『何をなすべきか』上下(岩波文庫)』▽『金子幸彦・細谷新治・石川郁男・今井義夫編著『チェルヌィシェフスキイの生涯と思想――ロシア解放思想の先駆者』(1981・社会思想社)』
ロシアの革命的民主主義者,哲学者,経済学者。サラトフの聖職者の家に生まれ,神学校を経てペテルブルグ大学歴史・言語学部に学ぶ。ロシアの専制・農奴制の非人間的現実への憤りと1848-49年の西ヨーロッパの諸革命の影響のもとに大学在学中に唯物論者,民主主義者,社会主義者となる。50年に大学卒業後,一時帰郷してギムナジア(中等学校)の教師となったが,53年にペテルブルグに行き評論活動にたずさわる。56年以降は《現代人Sovremennik》誌の実質的編集者となり,クリミア戦争後の改革期にドブロリューボフとともに健筆をふるい,急進的民主化運動の指導的思想家と目された。当時の農奴解放問題については,農民の真の解放のためにはその土地付き無償解放と農民共同体を保存して将来の社会主義化に役立てるべきだという立場をとり,地主貴族の利権を擁護する政府の改革方針とこれに妥協した自由主義者たちを厳しく批判した。61年の農奴解放令に対抗して民衆の蜂起を組織化するために革命的秘密結社の創設をめざしたが,62年6月に扇動文書の執筆を口実として逮捕・投獄された。64年には7年の懲役と終身のシベリア流刑を言い渡され,以後89年に病気のため郷里に帰されるまで,4半世紀におよぶ厳しい流刑生活に耐えてその信念を貫いた。
チェルヌイシェフスキーの哲学は主としてフォイエルバハに依拠した独自の戦闘的唯物論であり,ヘーゲル美学を批判した論文《現実にたいする芸術の美学的関係》(1855)や《哲学の人間学的原理》(1860)などを著した。文芸批評ではベリンスキーの伝統をついで《ロシア文学のゴーゴリ時代概況》(1855-56)を発表。経済学では《J.S.ミルの《経済学原理》への注解》(1860)において〈ブルジョア経済学の破産をみごとに明らかにし〉(マルクス),勤労者の経済学の創造をめざした。彼の小説《何をなすべきか?》はロシア,東ヨーロッパにおいて女性の解放を含む民衆解放の運動に大きな刺激を与えた。
執筆者:今井 義夫
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1828~89
ロシアの革命的思想家。雑誌『現代人』を実質的に主宰していたが,その存在を危険視され,62年逮捕。投獄・シベリア流刑の27年を送った。唯物論に立つ哲学,歴史の論著が多く,小説『何をなすべきか』は有名。
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…19世紀ロシアのインテリゲンチャにとってつねに心をさわがせた問いかけ。1863年チェルヌイシェフスキーは獄中で,同名の小説を書いた。これは〈新しい人たち〉の相互関係,道徳,生き方をベーラ・パブロブナという女性とその最初の夫ロプーホフ,第2の夫キルサーノフという3人を主人公として描いたものである。…
…彼は1848年革命を亡命先で体験し,西欧文明のあり方に絶望した結果,この考えに到達したのである。19世紀の中ごろにとくに顕著になった資本主義的傾向に対抗して,チェルヌイシェフスキーもまた農村共同体に期待をかける革命理論を唱えた。 このような思想の影響のもとに生まれたのが1870年代の〈人民の中へ〉の運動であり,その参加者たちはナロードニキと呼ばれた。…
…これは49年より50年にかけての一連の著書,論文に展開されている。より若いチェルヌイシェフスキーになると,57年に開始されたロシアの資本主義化の動きに対抗して,先進西欧の存在を条件に共同体から出発する経済発展の別の道を主張した。この二人の思想を受け入れた青年たちの運動は61年以後の農奴解放の実施期に展開されたが,これが広範なひろがりをもち,一世代の青年・学生の運動となったのは70年代のことである。…
…この意味でのニヒリズムは,ロシアの社会主義運動における一種の反体制的立場として,ヘーゲル左派の影響下に1855年のアレクサンドル2世の即位から70年ごろにかけて盛んであった。チェルヌイシェフスキーは60年代におけるこの種の革命運動の精神的指導者である。また革命的無政府主義の創始者バクーニンはニヒリストたちの党派と手を握って革命を扇動した。…
…ビリュイ川流域はヤクート人の居住区で,ビリュイスクはその中心都市である。1634年にコサックの冬営地として建設され,帝政ロシア時代はヤクーツク地区流刑所の一つで,チェルヌイシェフスキーが服役していたことで有名。上流に発電所をつくるに当たり,彼の名前をとった町ができた。…
…そこでレーニンは《ロシアにおける資本主義の発達》(1899)で,一部地域における資本主義的農民層分解をロシア全土にわたって適用しようとする誤りをあえて犯しながらもロシア革命の古典的道筋を示し,ローザ・ルクセンブルクもまたポーランドにおける産業的発展を社会変革の前提として描き出した。だがたとえばロシアでは,西ヨーロッパの社会変革をモデルとした西ヨーロッパ派的発想のほかに,ロシア固有のモデルを追求したスラブ派的発想が生まれ,たとえばチェルヌイシェフスキーのように〈中間段階〉としての資本主義的発展を省略し飛び越して,ロシア共同体から直接社会主義社会を実現しようという非西ヨーロッパ・モデルの構想が生じた。その後,プレハーノフは,マルクス主義者となった後も,ブルジョア革命と社会主義革命のあいだに長い時間をおく,非連続的な二段階革命論をロシアのために構想したのである。…
※「チェルヌイシェフスキー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
一般的には指定地域で、国の統治権の全部または一部を軍に移行し、市民の権利や自由を保障する法律の一部効力停止を宣告する命令。戦争や紛争、災害などで国の秩序や治安が極度に悪化した非常事態に発令され、日本...
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