1836-66年にロシアのペテルブルグで刊行された雑誌。《同時代人》とも訳す。プーシキンが創刊し,彼の《大尉の娘》やゴーゴリの《鼻》などを掲載した。47年からネクラーソフとパナーエフが編集し,最晩年のベリンスキーが理論的指導に当たった。彼は評論《1847年のロシア文学概観》《雑誌“モスクワ人”への回答》で専制と農奴制を批判し,〈自然派〉を擁護,ゲルツェン,ツルゲーネフ,ゴンチャロフたちの作品を掲載した。ベリンスキー死後もトルストイの自伝的三部作,ツルゲーネフ《猟人日記》の大半が掲載されたが,56年チェルヌイシェフスキーが編集権を得,57年ドブロリューボフを迎えて〈功利主義〉的美学を掲げ,編集部内の自由主義的傾向の人々,〈純粋芸術〉派と対立した。主導権を握った2人はゴンチャロフの《オブローモフ》などの作品や評論を掲載するとともに,農奴解放をめぐる政論を多数執筆,共同体的土地所有,農民社会主義の理論を展開し,《現代人》は〈革命的民主主義〉の中核となり,ロンドンのゲルツェンの《コロコル》紙と論争した。同誌に掲載されたものにチェルヌイシェフスキーの評論《ロシア文学におけるゴーゴリ時代概観》や小説《何をなすべきか》,ドブロリューボフの評論《オブローモフ主義とは何か》などがある。61年ドブロリューボフの死と翌年チェルヌイシェフスキー逮捕の後も急進派の牙城であったが,66年カラコーゾフの皇帝狙撃(そげき)事件後に廃刊処分を受けた。その事業は《祖国雑記》誌に引き継がれる。
執筆者:松原 広志
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…ロシアの文芸批評家。ニジニ・ノブゴロド(現,ゴーリキー)の司祭の家庭に生まれ,ペテルブルグ高等師範学校に在学中,チェルヌイシェフスキーの知遇を得て反政府主義的な雑誌《現代人》の編集に参加。文芸批評の欄を担当し,《闇の王国》(1856),《オブローモフ気質とは何か》(1859),《打ちのめされた人々》(1861)等の論文を書き,農奴解放前夜の革命派の指導者として活躍した。…
…当時ようやく商売になり始めた新聞・雑誌の仕事をして,ベリンスキー,ツルゲーネフ,パナーエフ,ドストエフスキーらを知り,これら新人の作品を集めて45年《ペテルブルグ生理学》,46年《ペテルブルグ文集》を刊行して好評を得た。47年にはプーシキンが創刊した月刊総合誌《現代人》の発行者となり,チェルヌイシェフスキー,ドブロリューボフらを編集陣に加えて,農奴解放前後の言論自由化の波に乗って発行部数をのばし,文壇を支配し世論を指導した。この時期,彼の精神も高揚し,《正面玄関の物想い》(1858),《天候について》(1859‐65),《ひと時の騎士》(1860),《厳寒の赤鼻》(1863)等々,ロシア詩のジャンルと様式を革新する作品が書かれた。…
…スタンケービチのサークルでヘーゲル哲学を学び,一時期保守的な思想を抱き,現体制を擁護する論文を書いたこともあったが,ゲルツェンとの交遊を通じて,1840年の末には農奴制と専制と教会の批判者となった。以後は《祖国雑記》や《現代人》誌を中心に文壇を指導し,〈自然派〉と呼ばれる革新的文学グループを形成,ツルゲーネフやドストエフスキー等多くの作家を世に送りだした。厳しい検閲下のロシアにおいては,文学が思想を表現する唯一の場であったことから,彼は〈純粋芸術〉としての文学を拒否し,作家に高い社会的自覚を求めた。…
※「現代人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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