日本大百科全書(ニッポニカ) 「ソビエト作家同盟」の意味・わかりやすい解説
ソビエト作家同盟
そびえとさっかどうめい
Союз писателей СССР/Soyuz pisateley SSSR
ソ連の文学者を統合していた団体。1920年代には種々の文学団体が存在したが、とりわけロシア・プロレタリア作家協会(ラップ)は、自らの存在をソ連共産党の文学分野の代表者であると宣言、ほかの文学団体や社会主義革命を受け入れながら、プロレタリア的世界観に完全には同調できない同伴者作家を激しく攻撃した。その過激さは、ソ連共産党にとっても容認しがたい行きすぎとされ、32年4月、ソ連共産党中央委員会は、「文学・芸術団体の改組について」という決議を採択、ラップをはじめすべての文学団体を解散させ、全作家を組織して党の統制の下に唯一の文学団体を結成することを決定した。ゴーリキーを中心とする組織委員会が準備にあたり、34年8月、第1回ソ連作家大会が開かれ、「社会主義リアリズム」を創作と文学批評の基本方法とするソビエト作家同盟が発足した。創立時の会員数は、約1500名(1989年の会員数は9920名)。しかし、作家同盟はやがてスターリンの暗黒政治の道具として機能するようになり、30年代には、B・ピリニャーク、O・マンデリシュターム、V・メイエルホリドらが逮捕され獄死した。これらの詩人、作家の運命と作家同盟の関係はいまだ不明の点を残すが、文学者の団体として仲間の創作活動はおろか生命さえも守れなかったことは、その後の作家同盟の性格を暗示している。40年代には、A・アフマートワやM・ゾシチェンコを反ソ的作家として除名した。スターリンの死後、54年第2回大会が開かれ、86年まで8回の大会が開催された。しかし、この間にも、58年にパステルナークを、69年にはソルジェニツィンを除名するなど、文学者の創作の自由と権利を守るのではなく、逆に政治に従属させようとする傾向が主流を占めてきた。創作活動の普及や「新しい人間像」をめぐる表現方法の探求などの面で一定の積極的役割を果したが、一方で文学者のなかに官僚や特権層を生み出し、優れた作品を育む土壌とはほど遠い団体となっていた。ようやく86年に開催された第8回大会において、ペレストロイカのグラスノスチ(言論・表現の自由化)政策の下、同盟幹部批判、同盟組織の民主的運営、今まで不当に扱われてきた作家たちの完全復権などが議論され、規約の全面的見直しと新規約の作成が決定した。社会主義リアリズムを規約からはずし、創作の自由と検閲の禁止を盛込む新規約の検討が開始されたが、作家同盟の骨格をなす重要事項の議論の過程で、作家同盟そのものの存在意義が問われ、やがて同盟内に対立・分裂傾向が顕著になり、91年のソ連解体後、92年8月解散した。
[藻利佳彦]