フランス北西部の旧州名。高(オート)ノルマンディーと低(バス)ノルマンディーの2地域régionからなる。東半を占める高ノルマンディーはパリ盆地寄りの地域で,セーヌ・マリティム県とウール県からなり(主都はルーアン),西半分の低ノルマンディーはカルバドス,オルヌ,マンシュの3県からなる(主都はカン)。
東はブレル川を経てピカルディーに,またエプト川を経てイル・ド・フランスと接し,南はノルマンディー丘陵,ペルシュ丘陵を経てオルレアネ,メーヌと接する。南西はクエノン川によってブルターニュと接し,北は白亜(チョーク)や結晶質岩の海食崖,あるいは砂浜海岸となってイギリス海峡に臨んでいる。東西約250km,南北は約150kmである。パリ盆地のすぐ北西に位置することからパリとの結びつきが強く,とくにルーアンを中心とするセーヌ川下流地域はル・アーブルとパリを結ぶ重要な工業地帯となっている。しかしノルマンディー全体としてはフランス第1の農業・牧畜地域という色彩が強い。とくに低ノルマンディーは〈牛乳の工場〉とも呼ばれるフランス第1の牧畜地域である。ノルマンディー全体で牛乳と牛肉はフランス全体の13.5%を生産し,その草地面積はフランス全体の草地面積の11.8%に及ぶ。人口は高ノルマンディーが176万,低ノルマンディーが140万(1993)である。フランスで最初にノルマン人の侵入を受け,その後も長くノルマン人の支配下におかれていた歴史性から,ノルマンディーはパリの近くにありながら独自の風土をもっており,ノルマン人気質は土地・不動産への執着,強い個人主義と農民的傾向,アルコール好きなどによって特徴づけられる。
ノルマンディーは前56年にローマによって征服され,その後フランク王国の支配下にあったが,9世紀に入るとノルマン人(バイキング)の侵入が始まって,今日のノルマンディーのもとをつくった。ノルマン人の侵入はセーヌ川を通じて行われ,841年にはルーアンの町が焼かれた。このため911年にはシャルル3世とノルマン人の首長ロロとの間で条約が結ばれ,エプト川を境としてそれ以西の土地がノルマン人のものとなった。今日のノルマンディーとイル・ド・フランスとの境界はこのとき定められたものである。その後,ノルマンディーは征服王ギヨーム(ウィリアム1世)によって統一され(1047),さらにイングランド王エドワード懺悔王の死に伴う王位継承をめぐってイングランド征服が行われ(1066),ノルマンディーの勢力は大いに広まった。ノルマンディーはそれ以後,プランタジネット朝の支配下におかれたが,1204年フランス国王のものとなった。百年戦争のおりにはその地理的条件によって主戦場となり,一時イギリスに属したことなどもあり,フランスへの最終的な帰属は遅れて,ようやく16世紀初めからであった。このようにノルマンやイギリスとの関係がより密接であったことは,フランスにおけるノルマンディーの独自性を今日まで保つ大きな要因となっている。人種的にも,ノルマンディーの人々には青眼・金髪で白い肌をもつノルマン人的な特徴がみられる。
ノルマンディーの地形は四つに区分され,それに応じてノルマンディーは,産業や景観を異にする四つの地域に分けられる。高ノルマンディーは,その名称とは違い地形的にはより低い地域であり,(1)セーヌ河谷と,(2)その南北に広がるエブルーおよびペイ・ド・コーの低平な石灰岩台地からなる。セーヌ川が著しく曲流しながら流れるセーヌ下流部の谷は,ル・アーブル港とセーヌ川の水運とに恵まれて,パリと結びついたフランス第1の工業地帯として発展しており,ルーアンを中心に石油化学工業や電気・金属・自動車工業が展開している。エブルーとペイ・ド・コーの石灰岩台地は白亜からなり,その表層は第三紀に深く風化されて,含フリント粘土となっており,さらにその上を第四紀の氷期に風で運ばれて堆積したレス(黄土)が覆っている。レスは肥沃であり,このためこの地域はパリ盆地と並ぶ穀倉になっている。イギリス海峡に面するペイ・ド・コーの海岸には白亜の海食崖が連なり,エトルタ,フェカンなどの保養地を古くから発展させた。
低ノルマンディーは地形的には高ノルマンディーより高まり,(3)ペイ・ドージュの石灰岩台地からカン平野にかけての中部ノルマンディーと,(4)古い結晶質岩が露出するアルモリカン山地からなる西部ノルマンディーとに二分される。中部ノルマンディーはペイ・ドージュのケスタ崖によって東側のペイ・ドージュ台地と西側のカン平野に分けられる。ペイ・ドージュは牧牛の中心地で,カマンベールなどのチーズの特産で知られている。カン平野では牧畜と小麦の栽培が行われ,パリ盆地から続くオープン・フィールド(開放耕地)地帯の西限となっている。カン周辺は低ノルマンディー唯一の工業地域であり,イギリス海峡に臨むウィストルアム港との間に製鉄・金属・電気・自動車工業などが発展して,人口増加が目だっている。パリ~カン間には高速列車が走っており,250kmを約2時間で結んでいるためパリとの結びつきも強い。近年,パリとの間の高速道路も整備された。海岸にはドービルなどの保養地があり,古くからパリの人々に利用されている。西部ノルマンディーは最も発展の遅れた地域である。コタンタン半島が北へ大きく突き出し,また起伏はゆるやかであっても,アルモリカン山地が北西-南東に走っているため,とくに大西洋岸の地域は孤立して,ボカージュ(畦畔林)景観によって特徴づけられる伝統的な農業・牧畜地域としてとどまっている。唯一の例外はコタンタン半島北端にあるシェルブール港の周辺であるが,工業化のテンポは他地域に比べるとはるかに遅れている。
ノルマンディーは大西洋に近いために西岸海洋性気候の影響が強く,一年中雨が降るが,年降水量は600mm程度にとどまる。冬は比較的温暖であるが,夏はやや冷涼で,このためブドウは栽培できず,リンゴ酒(シードル)とそれを蒸留したカルバドスの特産がある。アルコール分の強いカルバドスが日常的に飲まれるノルマンディーでは,コーヒーにもカルバドスを入れて飲む習慣があり(カフェ・カルバ),アルコール依存症も他地域に比べて多い。工業と小麦生産を主とする高ノルマンディーと牧畜を主とする低ノルマンディーの違いは大きく,低ノルマンディーの農地面積は高ノルマンディーの約1.5倍,農業就業人口は約2.3倍,牛乳生産高は約2.5倍となっている。これに対して小麦の生産高は高ノルマンディーが低ノルマンディーの約2倍,テンサイ糖の生産高は約4倍に達する。
古い歴史をもつノルマンディーには史跡が多く,カンやファレーズの城址(11~12世紀)やゴシック・ノルマン様式の古い教会が多い。バイユーには征服王ギヨームのイングランド征服を伝える古いタピスリーも残されている。ブルターニュとの境にあるモン・サン・ミシェルの教会は,満潮時には海の中に残される小島の上にあり,世界的観光地となっている。ノルマンディーは第2次世界大戦末期,連合軍の上陸作戦の舞台となった。1944年6月6日の上陸作戦は中部ノルマンディーの砂浜海岸で行われ,連合軍・ドイツ軍双方に多くの死傷者を出した。ユタ・ビーチ,オマハ・ビーチなどの名が残る海岸には,今日,戦死者の墓地がつくられており,おびただしい墓標は,今も戦争の悲惨さを伝えている。
執筆者:小野 有五
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フランス北部の歴史的地方名、旧州名。イギリス海峡に面する低平な地域で、北部はコタンタン半島が海峡に向けて突出する。現在はウール、セーヌ・マリティーム、カルバドス、マンシュ、オルヌの5県に分かれる。地域行政上、前2県でオート(上)・ノルマンディーを構成し、面積1万2317平方キロメートル、人口178万0192(1999)、中心都市はルーアン。後3県でバス(下)・ノルマンディーを構成し、面積1万7589平方キロメートル、人口142万2193(1999)、中心都市はカーン。
この地方は、地質的には古生代石炭紀(3億5000万年前)のバリスカン褶曲(しゅうきょく)(狭義にはアルモリカン褶曲)による隆起でできた古い地塊で、マッシフ・サントラル(中央群山)やイギリス西部の地質と同年代のものである。気候は西岸海洋性のため湿潤である。東部の丘陵でも標高350メートル以下で平坦(へいたん)地が多い。牧草の成長に適しているため酪農と乳業が盛んである。ルーアン、ル・アーブル、カーンを結ぶ三角地帯に当地方人口の4分の1以上が集まり、人口密度が高く、第二次、第三次産業の集積が進んでいる。コタンタン半島西岸の都市グランビルを中心に海水浴場が開け、別荘も多く観光地化も進展している。
[高橋伸夫]
紀元前1世紀、この地方に居住したケルト人、ベルガエ人の諸部族はカエサルの征服を受け、ローマ帝政期にはリヨン第2州に編入された。3世紀末、ルーアンなどの都市にはキリスト教が布教された。フランク王国支配下の7世紀にはサン・ワンドリーユ、ジュミエージュなどの大修道院がつくられ、農村部のキリスト教化も進んだ。カロリング朝期に組織されたルーアン大司教管区は、ほぼ後のノルマンディーに合致する。
9世紀後半にはノルマン人の侵入が激化し、セーヌ川の河口には彼らの冬営地が設けられた。ノルマン人は911年から933年にかけて西フランク王にルーアン大司教管区の領域のほとんどを割譲させ、キリスト教を受容し、また封建制によって強固に組織された公領を築いた。対外進出にも意欲的で、ノルマンディー公ギヨーム2世は1066年にイングランドを征服してその王となり(イギリス王ウィリアム1世)、また彼らの一部は南イタリアとシチリア島に進出し、12世紀に両シチリア王国を建設した。12世紀後半にはアンジュー伯が西部フランスの大部分とノルマンディー公領、イングランド王国を手中に収めて大勢力となったが、フランス王フィリップ2世は1204年にノルマンディーを征服し、王領に合併した。しかし公領は独自の慣習法、最高法廷(近世のルーアン高等法院の前身)、諸特権を維持した。百年戦争中の1419年から1450年まではイギリスの支配を受ける。
16世紀の宗教戦争はこの地方では激化し、産業に大きな打撃を与えた。17世紀には、王権は幾度かの反乱を鎮圧しつつ、ノルマンディーへの統制を強化した。1666年には州三部会も廃され、州としてのまとまりは弱体化した。他方17、18世紀にはとりわけ東部において繊維工業が成長し、19世紀には産業革命が早期に進展した。第二次世界大戦末期の1944年6月6日、連合軍がドイツ占領下のこの地方の海岸に敵前上陸を敢行したことは有名である。
[江川 温]
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…イギリス領。フランスではノルマンディー諸島Îles Normandesと呼ぶ。フランスのコタンタン(ノルマンディー)半島の西,サン・マロ湾の入口に位置し,ジャージー,ガーンジー,オルダニー,サークの主要4島から構成され,総面積195km2,人口約15万(1995)。…
…クヌット2世はイングランド王だけでなく,やがてデンマーク王,ノルウェー王をも兼ねて,北海を内海とする一大帝国を樹立したが,それも約20年後彼の死とともに瓦解し,イングランドにはまもなくエドワード懺悔王が即位して,ウェセックス王家が復活した。しかし彼には嗣子がなかったため,1066年その死後王位をめぐる闘争が生じ,北フランスのノルマンディー公ギヨームが麾下の騎士を率いて侵入,イングランドを征服,ウィリアム1世(征服王)として即位してノルマン朝を開いた。イギリス史上これを〈ノルマン・コンクエスト〉という。…
…911年西フランクのシャルル3世単純王は,これらセーヌ・バイキングの首領ロロとの間に,彼らが現実に居住している地域を封土として与えるかわりに,シャルルを王としてその臣下となる封建的主従契約を結んだ。これ以後セーヌ川下流地方は〈ノルマン人の国〉すなわちノルマンディーと呼ばれ,ロロとその後継者はノルマンディー公となる。これに伴い,(1)のバイキング一般を指すノルマン人という用語法から分離して,ノルマンディー地方の北欧出身の騎士たちが〈ノルマン人〉の呼称を受け取り,さらにノルマンディー地方住民一般がノルマン人Normandsと呼ばれるようになっていった。…
※「ノルマンディー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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