フランス西部,大西洋岸に突き出したブルターニュ半島を中心とした地方で,そこにあった旧州名,公国名でもある。現在はそれよりやや狭い行政区画としての地域région名でもある。面積は半島で約2万8000km2,人口は地域で約304万(2005),旧州で約300万。中心都市は半島の付け根の中央部にあるレンヌである。三方を海で囲まれ,フランスの中で最も閉鎖的な僻地といわれる。
この土地の骨格をなすのは,古生代のヘルシニア期に生成されたカコウ岩,砂岩よりなるアルモリカン山地である。浸食を受けて高原状をなし,わずかに残る400m足らずのモン・ダレやモンターニュ・ノアールでも高山の趣をもつ。海岸は屈曲に富み,断崖と砂浜が交錯し,ブレスト湾をはじめ多くの小湾入をつくり,湾内に多くの良港を抱く。川はビレーヌ川のほかはだいたい短いが,相互を連結する運河によって内陸水運は活発である。
ブルターニュは地下資源やエネルギー資源を欠き,工業化に遅れたため,フランスで最も貧しい地方の一つである。たとえば他の地方に比べて,平均所得が低く,平均寿命が短く,テレビ,洗濯機など耐久消費財の普及率や水道,手洗,風呂などの屋内設備の設置率も最低の部類に属する。人口流出が激しく,とくに若年労働力はパリやル・アーブルなどに吸引されて,老人層の比率が増加している。したがって1939年までフランス全体より高かった出生率がむしろ低くなり,とくに農村部における人口の高齢化と過疎化が激しい。
半島は大きく,ブルトン語で〈森の国〉を指すアルゴアArcoatと,同じく〈海の国〉を指すアルモルArmorに分けられる。それぞれ農牧業,水産業を主要産業とする。農家は,家族経営の小規模な小作が多く,バター生産を中心とした酪農のための牧草,トウモロコシや小麦を栽培している。しかし酸性で石灰分を欠くやせた土壌と機械化を妨げるボカージュ(小農地を囲む畦畔林)の存在によって,低い生産性に悩まされている。1960年代に耕地整理のためボカージュを伐採したところ,卓越する西風によって土壌が乾燥し,干害を引き起こしてしまった。このためボカージュは今なお広く残されている。また冷涼な夏に適したソバの生産が多く,これを食べるために発達したクレープ料理は,シードル(リンゴ酒)とともにこの地方の代表的なメニューである。
他方,沿岸部では温暖な気候を利用したイチゴ,インゲン,アルティショ(アーティチョーク),キャベツなどの露地栽培が行われ,園芸農業が発達している。水産業では,モン・サン・ミシェル湾のムール貝やモルビアン湾のカキの養殖が有名であるが,ロリアン,コンカルノ,ドゥアルヌネ,サン・マロなどを根拠地とした各種の漁業が発達している。沿岸漁業では,6~9月のイワシ漁,冬のヒラメなどの底引漁やエビ漁,沖合漁業ではアイルランド,アイスランドまで出漁するマグロ,タラ,ニシン漁が主要なものであるが,一部は遠洋漁業としてラブラドル,ニューファンドランド,グリーンランド沖のタラ漁,西アフリカ沖のマグロ漁に従事し,フランス随一の漁業の中心となっている。
1960年以降,フランス政府の工業地方分散政策と潮力発電所(ランス河口)や原子力発電所(ブレンニリ)などの建設によって,工業化も進められているが,ナント,サン・ナゼールの三角江の重化学工業,食品工業やレンヌの自動車工業を除けば,まだ零細な家内工業の域を出ない作業所が散在するだけである。むしろブレストやロリアンの海軍工厰に依存する機械工業,小規模な公共事業に依存する建設業がこの地方の第2次産業において重要な位置を占めており,工業化は遅れているといえる。
住民の多くはフランス国民ではあるが,ケルト系のブルトンであるとの意識をもち,民族衣装,民族音楽,民話あるいは風俗・習慣などに独自の文化を誇っている。とくにブルトン語は,今なおバス・ブルターニュと呼ばれる半島西部や内陸部で用いられており,現在はフランス語との2言語併用者が圧倒的に多くなってはいるが,老人にはブルトン語を日常語とするものがみられる。フランスの国営放送でも,この地方の放送局はブルトン語でニュースを送ることを許されている。
またフランスでカトリックの力が最も強く,公立学校よりもカトリック系私立学校へ通う子どもが多い。教会は農村にもあり,また公立学校より経費がかからないところから,低所得層の子どもが通学している。
ボカージュに囲まれた散村状に孤立した農家では,自家製のシードルを飲み,クレープを食べ,老人たちは木靴をはき,昔ながらの髪飾(コアッフcoiffe)をつけている。ブールbourgと呼ばれる村の中心には教会,村役場,よろず屋のカフェが集まり,中世以来のキリスト磔刑(たくけい)像(カルベールcalvaire)がみられ,分れ道には道祖神のような十字架が立っている。パルドン祭の行列があちこちの村で行われ,7月第4日曜日に行われるカンペールの民族祭はとくににぎやかである。
この伝統的生活と美しい自然,安い生活費と豊かな食品類が,近年多くの観光客や引退した年金生活者を引きつけており,観光・保養関連産業はこの地方で重要な産業となっている。
執筆者:田辺 裕
それぞれが固有の伝統をもつフランスの諸地方のなかでも,ブルターニュは,きわだって個性の強い地方である。それには,歴史に深く根ざした理由があった。第1に,ブルターニュは,ケルト文化の伝統を色濃く受け継ぎ,かつそれを自らのアイデンティティとしている点で独特の存在である。ローマやゲルマンの支配に先立つケルト時代にフランス文化の基層を求めようとする人びとにとっては,まさに魂のふるさととしての象徴的役割を担ってきた。第2には,中世の間長いこと独立公国であったブルターニュは,16世紀フランス王国と合併したのちも,自治の権利を強く主張してベルサイユやパリに対抗してきた点で,中央集権的性格の強いフランスにおいて,反中央のシンボル的存在であった。フランスの一部とはなったものの,ブルターニュは一貫して誇り高き辺境であり続けたのである。
ブルターニュの歴史は,しかし,ケルト時代に始まるのではない。それ以前にすでに,この半島には先住者の定着がみられ,独自の文化が生まれていた。フランスの巨石記念物の代表とされるカルナック列石やロクマリアケールのメンヒルやドルメンは,この先住者の遺産であって,新石器時代から青銅器時代初期(前3500-前1200)にかけてのものと推定されている。この巨石文化は,アイルランドやウェールズから大西洋岸沿いに南下し,地中海にまで及ぶ広大なひろがりをもつものであるが,ブルターニュは,その豊かな遺跡群を今日にまで伝える最も重要な地方の一つである。
ブルターニュに深い痕跡をとどめることになるケルト人がこの半島にまでやって来たのは,はるかのちの前6世紀のことであった。ここにケルト時代が始まるわけであるが,誤解されてはならないのは,このケルト文化が,そのまま中世にまで続いたのではないことである。その間,ブルターニュも,ガリアの他地域と同様に,前56年カエサルによる征服以来5世紀にわたりローマの支配下に置かれた。ローマ帝国の辺境であったとはいえ,その影響は無視できぬものである。半島内の基本的な交通路が,18世紀に至るまで,ローマ時代の道であったことなどにも,その一端がうかがえよう。さらに,ローマ帝国の末期には,ゲルマンの侵入がブルターニュにも及んでいる。
ブルターニュが真にその独自性をもつに至るのは,むしろその後のことである。5世紀末に,アングロ・サクソン人やスコット人の侵入によってイギリス南部を追われたケルト人が,大挙海峡を越えてブルターニュ半島の西部に渡来した。ガリアの中心部が,フランク王権の支配下に入ったまさにそのときに,ブルターニュは逆にケルト人のくにとして自立し始めたのであった。こうして,ブルターニュ,とくにその西半分(バス・ブルターニュ)は,アイルランドやウェールズと並んで,ケルト文化の中心地となる。ケルト諸語の一つであるブルトン語は最盛期の9世紀には,ナントとレンヌを結ぶ線のすぐ西側にまで達していた。絶対王政の成立をみる16世紀以降,言語の面でも中央集権化が進み,ブルトン語の領域は圧縮されてはいったものの,20世紀の初めに至っても,半島先端のフィニステール県では,住民の3分の2は教会でのフランス語による説教を理解しなかったという。言語ばかりでなく,ブルターニュのケルト文化は,独自の伝承・説話を生み,中世には騎士道物語の一環として,《トリスタンとイズー(イゾルデ)》の物語に代表されるような〈ブルターニュもの〉と呼ばれる一連の物語群を生む母胎となった。
政治的にも,ブルターニュには強い自主の意識がある。その発端は,9世紀半ば,バンヌ地方出身の貴族ノミノエNominoéの下にブルターニュ公国が形成され,カロリング王国に対しても,独立した地位を確保したことに始まる。公国の支配権そのものは,しばしば対立する家系の間で争われ,一貫したものではなかった。とくに14世紀には,公家の継承をめぐっての内戦状態となったりもしたが(〈ブルターニュ継承戦争〉),独立公国であったという誇りは,ブルターニュの人びとの意識に刻まれて,その連帯感の基盤となっている。15世紀末より,フランス王権は,ブルターニュ公国の併合を狙って執拗な結婚政策を展開,フランス国王とブルターニュ公女との結婚に成功する。こうした基礎の上に,1532年,ブルターニュ公国とフランス王国は合併するに至り,独立公国の歴史は幕を閉じた。しかし,合併の際の条件として,地方自治の象徴ともいうべき高等法院,地方三部会が維持され,さまざまな免税特権も付与された。王権による権力集中のかなめであった地方長官が置かれたのも,諸地方のなかで最も遅く,1689年になってのことである。新税の課税をきっかけに起こった1675年の〈赤帽子の乱〉(またの名〈印紙税一揆〉)は,ルイ14世治下の最も激しい反乱の一つであるが,ブルターニュ人の独立意識がここにも色濃く反映している。フランス革命に際しても,ジャコバン・クラブの前身となるブルトン・クラブをいち早く結成するなど,革命の精神に進んで呼応していたブルターニュが,聖職者基本法と徴兵令の施行をきっかけに,1794年,〈ふくろう党chouannerie〉の反乱を引き起こすのも,根強い反中央の観念を背景にしている。
19世紀以降の中央集権化は,言語の面でも教育の面でも,ブルターニュの独自の文化的伝統に対する抑圧を強めた。工業化の展開,とりわけ19世紀末の鉄道の開設や道路網の整備は,ブルターニュの孤立性を破り,伝統的農村社会の変容をもたらした。しかし,近代化の進展のなかにあっても,地方の独自性を守ろうとする意識は依然強烈であり,現在も,コルシカ,バスク,ラングドック中心のオクシタニーなどと並び,地域主義や少数派民族主義の運動が活発である。激しく闘われた半島の突端プロゴフの反原子力発電所運動なども,こうした長い伝統と結びつくものといえよう。
執筆者:二宮 宏之
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フランス北西部の歴史的地方名、旧州名。現在もコート・ダルモール、フィニステール、イル・エ・ビレーヌ、モルビアンの4県を含む範囲の行政地域の名称として用いられる。その面積は2万7208平方キロメートル、人口290万6197(1999)。中心都市はレンヌ。旧州名の場合にはロアール・アトランティク県をも包含する。英語名ブリタニーBrittany。地質的にはアルモリカン山系からなり、緩やかな起伏が広がる丘陵地である。当地方の骨格はブルターニュ半島からなり、大西洋に突出し、東西に細長く、長さ280キロメートル、幅180キロメートルに及ぶ。海洋に囲まれるため、湿潤温暖な気候である。農業生産が卓越し、小麦栽培を主体としてきたが、牧畜(ウシ、ブタ、ニワトリ)に比重が移行するにしたがい、飼料用の穀物(大麦、トウモロコシ)栽培も増加している。漁業は大きな発展はないが、ブルターニュ半島先端部から南岸にかけていまだ活発であり、缶詰工業も盛ん。地下資源、エネルギー源がないことと、首都から遠いために工業発展が遅れ、過疎化が進んだ。近年、道路網を整備し、工業立地を促進して、農業を近代化することによって低開発地域からの脱皮を図ろうとしている。半島西端の都市ブレストは、地中海岸のトゥーロンと並ぶフランス最大級の軍港都市である。
[高橋伸夫]
地名は、アングロ・サクソンの圧迫でこの地に移住したケルト系ブリトン人の居住地ブリタニアにちなむ。したがって住民はフランス人とは民族的に異なり、独自の言語・民俗を有し、歴史的にも特異な発展を遂げた。フランス革命によってフランスに完全に統合されたのちも独立運動が絶えない。
5世紀末フランク王クロービスに征服されたが反抗を続け、845年西フランクのシャルル(カール)2世から独立的地位を獲得した。さらにノルマン人の侵入を退けたのち、938年ブルターニュ公国を形成した。公国はいくつかの伯領に分かれ、貴族の下に自由民、不可譲渡小作人、少数の農奴が存在したが、しだいにフランス風封建化への道をたどった。1213年公女アリクスがカペー王朝ルイ6世の曽孫(そうそん)と結婚して以来、公位はブリトン系からフランス系に移った。その後、百年戦争に巻き込まれる形で戦われたブルターニュ継承戦争を経て、15世紀前半のジャン5世の時代は平和が続き、ラシャ織、カンバスなどの織物業や製塩が富をもたらし、ハンザ同盟諸都市やオランダ、イギリス、スペインなどとの交易が盛んとなり、芸術面でもブルトン・ゴシック様式の黄金時代を現出した。しかし15世紀後半に至り、公国併合を策するフランスとの抗争に敗れ、最後の公フランソア2世の娘アンヌがフランス王シャルル8世と結婚(1488)して以来、公国はフランスと同君連合を形成し、フランソア1世による王国編入に至った(1532)。アンヌの時代がブルターニュとしての最盛期といわれるが、王国編入後もブルターニュはある程度の自治を認められ、地方における王権の象徴たるアンタンダン(地方総監)の設置をブルターニュが受け入れたのは1688年のことであった。
フランス革命前年の1788年、王権は新税創設に伴い高等法院から建議権を取り上げたが、「ブルターニュの自由」を主張するレンヌ市民はこれに暴動でこたえ、この勅令を撤回させた。1789年ブルトン・クラブに拠(よ)ったブルターニュ議員は8月4日の封建特権買い戻し決議を出し、またブルターニュの自由を宣言するなど革命初期に活発な動きをみせたが、後期には国民公会の宗教政策に反発して激しい反革命暴動を繰り返した。
[石原 司]
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フランスのブルターニュ半島を中心とする地方名。主都市レンヌ。この地域は,民族大移動期のガリア・ケルト系,ローマ系住民の最後の拠点であり(地名はケルト系ブリトン人に由来する),今日も民族的に特異である。公の名は8~9世紀からみられるが,独立性が強く,1532年まで王領に併合されなかった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…ケルト語派のうちのブリタニック諸語の一つ。5~6世紀にかけてブリテン島南西部から対岸のブリタニー(ブルターニュ)に渡ったケルト人がもたらしたもので,現在も同地で行われるが,話者の大部分はフランス語との二重言語使用者である。コーンウォール語に近く,古期ブルトン語(900‐1100)の頃すでに語頭の鼻音変化の機能を失った。…
※「ブルターニュ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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