改訂新版 世界大百科事典 「ガスコーニュ」の意味・わかりやすい解説
ガスコーニュ
Gascogne
フランス南西部の旧州名。ピレネー山脈の西半分とその山麓(オート・ピレネー,ピレネーザトランティク両県,オート・ガロンヌ県西部),それにつらなるガロンヌ川中流域に向けて広がるアルマニャック丘陵(ジェル県),大西洋に面した広大なランド平野(ランド県)から成る。
ガスコーニュは,歴史上,その北のギュイエンヌと一体をなすことが多く,とくにギュイエンヌ南部との間には,なんらの自然的・文化的境界も存在しない。たとえば,ガスコン方言は,南仏オック語の中でも,きわめて特異で,スペイン北部の方言との類似を指摘されるが,その用いられる範囲は,ギュイエンヌ南部にも及んでいる。ガスコーニュの名称は,580年ころ,フランク王国の領域であったこの地域に,西ゴート王に追われピレネーを越えて移住してきたバスコン人Vascons(バスク人Basques)に由来する。この移住民が,その呼称にもかかわらず,実際にバスク人であったかについては異論もあるが,いずれにせよ,彼らはガロンヌ以南の地域に広く定住し,フランク王国の権威に抵抗し,その実質的な支配を許さなかった。10世紀には,ギヨーム・サンシュの公国がこの地域を統一するが,ほどなく血統が絶えてアキテーヌ公国に統合された。また,このころから大小の諸侯領が形成され,その間に絶え間のない抗争がくりひろげられる。とりわけ中世後期には,この地方諸侯の争いに仏英両王の戦いがからみ,複雑な様相を呈するが,なかでもフォアとベアルンを領有したガストン・フェビュス(1331-91)は,強大な武力と巧妙な均衡政策により,ピレネー地方に事実上独立の王国を樹立した。彼はまた文武にすぐれ,この時代の大領主の典型として伝説的な人物でもある。それに対してアルマニャック伯は,歴代,フランス王側に立って勢力をなすが,とりわけ百年戦争後期には,王太子シャルルを支持し,ブルゴーニュ公,イギリス王と戦う勢力の中核となった。こうした戦乱の伝統の生んだ勇猛で好戦的な気風は近代にも生き残り,多くの若者たちが土地の貧しさから,富と出世の機会を軍隊に求め故郷を離れた。デュマ作《三銃士》は,こうしたガスコーニュの若者たちを主人公に,彼らの冒険好きでほら吹きで,空威張りの気味はあるが友情に厚い気質(ガスコンかたぎ)をえがいている。
ピレネー地方には,西から,バスク,ベアルン,ビゴール,コマンジュの4地方が区別される。バスクは,スペインにかけて,独特の言語・習俗を守るバスク人の居住する地域で,バスク7州のうち,3州がフランス領に属している。ポーを中心とするベアルンは,ビゴールとともに,それを領有したブルボン家のアンリがフランス王位につく(アンリ4世)ことにより,フランス王領に統合されたが,王は住民の強い独立心により譲歩を迫られ,さまざまな自主的特権を与えて別個の州を構成することを認めた。コマンジュは,ピレネー山脈の中央に位置するが,その主都サン・ベルトラン・ド・コマンジュは,古代ローマ植民市として繁栄した歴史をもつ。今日のピレネー西部は,優れた自然景観のほか,リュション,ポーなどの保養地,巡礼地ルルドなど観光地にめぐまれ,牧畜がさかんであり,また山麓では飼料用トウモロコシの栽培を中心とした近代化された農業が行われている。機械・航空・化学などの工業も,バイヨンヌ,ポー,タルブを中心として発達している。それに対して,アルマニャック地方は,ほとんど工業化が進まず,観光資源にも恵まれず,フランスでもっとも衰退の著しい農村地帯の一つである。一部に有名なブランデーを産出するが,これも販売力の弱さから十分に市場を拡大できないでいる。
→ランド
執筆者:井上 尭裕
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報