ウィリアム1世(読み)ウィリアムいっせい(その他表記)William I

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ウィリアム1世」の意味・わかりやすい解説

ウィリアム1世
ウィリアムいっせい
William I

[生]1027/1028. ノルマンディーファレーズ
[没]1087.9.9. ルーアン
イギリス,ノルマン朝初代のイングランド王 (在位 1066~87) 。「征服王」 the Conquerorと称される。ノルマンディー公ロベール1世の庶子。父の跡を継いで公となる (35) 。嫡出でない公に対して不満をもつ貴族の反乱を鎮圧して (47) ,公領の秩序を回復。 1066年イングランド王エドワード (懺悔王) が嫡子なく没し,義弟ハロルドが即位すると,ウィリアムはエドワードのいとこの子であること,またかつてエドワードより王位を約束されていたことなどを理由に,ノルマンディー,フランドル,ブルターニュ各地より集めた数千の騎士を率いてイギリスに侵入 (→ノルマン・コンクェスト ) ,ヘースティングズの戦いでハロルドを破って即位した。イングランド全土を没収して部下のノルマン騎士に分与し,新たに封建制度を導入して統治した。アングロ・サクソン人の慣習を尊重し,中央,地方行政を整備。カンタベリー大司教ランフランクとはかってローマ教皇権の干渉排除,また 86年直臣,陪臣を問わず全国のあらゆる土地所有者をソールズベリーに集めて忠誠を誓わせ,同年全国にわたる土地調査書「ドゥームズデイ・ブック」を作成させるなど,他国に例をみない集権的封建制基礎をつくった。フランス王フィリップ1世に対抗するためノルマンディーにおもむく途中,落馬して死亡

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改訂新版 世界大百科事典 「ウィリアム1世」の意味・わかりやすい解説

ウィリアム[1世]
William Ⅰ
生没年:1028?-87

ノルマン朝初代のイングランド王。在位1066-87年。〈征服王the Conqueror〉とも称される。ノルマンディー公ロベールの庶子で,1035年父をついで公となる。66年イングランドのエドワード懺悔王死に,その義弟ハロルド2世が王を称すると,ウィリアムは懺悔王の遠縁に当たることなどを理由に侵入,ヘースティングズの戦でハロルドを破ってイングランド王となった。イギリス史上これを〈ノルマン・コンクエスト〉という。即位後各地の反抗を抑え,没収した土地を部下のノルマン貴族に分与して,封建制度をもって統治した。また全国の土地所有者をソールズベリーに集めて自分に対する忠誠を誓わせ,全国土にわたる詳細な土地台帳《ドゥームズデー・ブック》を編纂させて徴税に便ならしめるなど,王権の強化に力を注いだ。87年フランス王フィリップ1世と交戦中,落馬が原因で没した。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ウィリアム1世」の解説

ウィリアム1世(征服王)(ウィリアムいっせい(せいふくおう))
William Ⅰ (the Conqueror)

1027頃~87(在位1066~87)

ノルマン朝初代のイングランド王。ノルマンディ公であったが,1066年イングランドでエドワード証聖王が死に,その義弟ハロルドが王位を継ぐと,証聖王の従兄弟の子として王位を要求して侵入,ヘースティングズの戦いでハロルドを破って即位した(ノルマン人の征服)。ノルマン貴族を各地に封じて封建制をもって統治し,1086年全国的検地帳ドゥームズデー・ブックを作成させ,同年全国の土地所有者をソールズベリに集めて忠誠を誓わせた。イングランドの特徴とされる集権的封建制の基礎を固めた。

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世界大百科事典(旧版)内のウィリアム1世の言及

【イギリス】より

…しかし16世紀に入り,司法体としてよりも立法機関としての議会に国家統治上の効用が見いだされたことや,王室財政の膨張に対する臣民の関心が強まったことなどの事情から,財政負担承認に優越的権能をもつ下院(庶民院House of Commons)の重要性と人気が高まった。 〈名誉革命〉後,王権による議会権能侵犯の危険が法的に抑制されたのに加え,ウィリアム3世の始めた長期にわたる大陸戦争の戦費調達を承認するため,定期的な議会開催が慣例となった結果,下院は上院(貴族院House of Lords)を凌ぐ有力な統治機関として確立された。予算承認と引換えに,内閣の人員構成を通して国王の統制を図る制度的基礎が固まり,内閣は事実上政府そのものとして認知されていく。…

【ウェールズ】より

…10世紀末からバイキングの攻撃は再び激しくなり,ウェールズは甚だしく荒廃したが,11世紀半ばグウィネッズ王グリフィズは,イングランド王エドワード懺悔王時代の混乱に乗じて,再三にわたってイングランド軍を破り,オファの塁壁をこえて東方に領土を拡大したが,彼も結局敗死した。
[ノルマン・コンクエスト以後]
 1066年の〈ノルマン・コンクエスト〉によりイングランドを征服した後,ウィリアム1世はウェールズ国境に三つの辺境伯をおいてウェールズに侵入した。しかしウェールズ諸首長はやがて反撃に転じ,イングランドのスティーブン王時代の内乱に乗じて自立を回復した。…

【カン】より

…第2次大戦末期に連合国軍の上陸作戦の戦場となり,市街の大部分が破壊されたが,西フランス有数の工業都市として復興した。【小野 有五】
[美術]
 カンはノルマン公国諸公のもとで,とりわけ11世紀,ウィリアム1世(征服王)の時代に発展をみた。征服王の創建になる男子修道院付属サンテティエンヌ教会(1077)と,それと対をなす王妃マティルダの創建になる女子修道院付属ラ・トリニテ教会(1066)は,共にカン産出の豊富な石材を使用したノルマン様式ロマネスク建築の代表例。…

【ドゥームズデー・ブック】より

…1086年にウィリアム1世の命により作成されたイングランドの検地帳。名称は,検地帳の記載内容の権威を〈最後の審判の日(ドゥームズデー)〉にたとえたもので,12世紀以降用いられるようになった。…

【ノルマン・コンクエスト】より

…ノルマン人のイングランド征服をいい,1066年ノルマンディー公ウィリアムがイングランドを征服して王となり,ノルマン朝を創始した事件。イギリス中世史上,一大画期をなす。…

【ノルマン朝】より

…1066年から1154年の間,イングランドを支配した王朝。ノルマン・コンクエストによってイングランドを征服して王となったウィリアム1世(在位1066‐87)は,封建制度を導入して,国土を臣下に分与する代りに軍役を奉仕させ,イングランド古来のシャイア(州)・ハンドレッド(郡)制を利用して支配したほか,全国の土地所有者をソールズベリーの野に集めて忠誠を誓わせ,徴税のための土地台帳(《ドゥームズデー・ブック》)を作成させるなど,集権的封建国家の基礎をつくった。次のウィリアム2世(在位1087‐1100)は,長兄のノルマンディー公ロベールと紛争を引き起こし,カンタベリー大司教アンセルムスと対立するなど失政が多かったため,貴族の不満が高まり,狩猟中無名の者の矢に当たって横死した。…

【バイユーのタピスリー】より

…約70m×0.5mの麻布地に,青,緑,黄等濃淡8色の毛織糸を使用。ノルマン人のイギリス征服のエピソード――ウェセックス公ハロルドの偽りの誓いがウィリアムによる征服とハロルドの敗北と死を招くという因果物語――が,様式化の中にものびやかに描かれる。11世紀の風俗を知るための最も確実な稀有の資料として,また当時重要な美術品のカテゴリーであったこの種の作品の唯一の残存例として貴重。…

【ヘースティングズの戦】より

…エドワード懺悔王の死後,イングランド王位をめぐって争ったノルマンディー公ギヨーム(のちのウィリアム1世)とイングランドのウェセックス伯ハロルドとの間の決戦。1066年9月末,ギヨームはノルマン騎士を率いてイングランド南岸に上陸,ヘースティングズHastingsに橋頭堡を築いた。…

【ロンドン塔】より

…イングランド王ウィリアム1世が1078年,ロンドンの支配と防衛のため,テムズ川の北岸,ローマ時代の市壁の内側に築いたホワイト・タワーに起源する城塞。全域は18エーカー(約7ha)。…

※「ウィリアム1世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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