ハイチ(英語表記)Haiti

翻訳|Haiti

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ハイチ
Haiti

正式名称 ハイチ共和国 République d'Haïti。
面積 2万7700km2
人口 972万(2011推計)。
首都 ポルトープランス

西インド諸島中部にある国。大アンティル諸島中部,ヒスパニオラ島の西3分の1を占め,東寄りの3分の2を占めるドミニカ共和国と国境を接する。国土は西に突出する山がちの二つの半島からなり,両半島を分けるゴナブ湾の湾奥にアルティボニト川流域平野と首都の位置する中央平野がある。最高点は南東端部のラセル峰 (2674m) 。沿岸にいくつかの島があり,おもなものはゴナブ湾内のゴナブ島,北部沿岸のトルチュ島。熱帯気候区の北限近くにあるが,海洋と山地地形の影響で,気温,降水量など地域差が大きい。住民の約 95%は黒人で,その他はムラットと呼ばれる黒人と白人の混血。公用語はフランス語とクレオル語 (現地語化したフランス語) 。ヒスパニオラ島は 1492年コロンブスの来航以来約 200年間スペイン領であったが,スペイン人植民地は東部に偏在していたため,17世紀後半西部はフランス人の海賊が根拠地として利用,1697年島の西3分の1が正式にフランス領となり,サンドマングと名づけられた。 18世紀アフリカから大量の黒人奴隷を導入,サトウキビ,コーヒー,カカオなどを栽培,輸出して繁栄し,人口も急増。同世紀末フランス革命の影響を受けて奴隷が反乱を起こした結果,1794年奴隷制廃止。 1801年解放奴隷 F.D.トゥーサン・ルベルテュールが全島を制圧したが,1803年ナポレオン軍に捕えられ,獄死。その直後奴隷制復活の噂に抗して J.J.デサリーヌの指導下に再び黒人が蜂起,1804年ハイチの名のもとに全島の独立が宣言され,1825年フランスによって承認された (東部の旧スペイン領は 1844年ハイチの支配を排し,ドミニカ共和国として独立) 。独立後のハイチでは革命,指導者暗殺などが繰り返され,1915~34年にはアメリカ合衆国海兵隊による占領を受け,またスペイン系住民の多いドミニカとの間の紛争や,学生,労働者の暴動もあり,政情は不安定であった。 1957~86年にはデュバリエ親子の独裁が続き,その後もクーデターが相次いで政情は不安定。人口5%のムラットが政治と経済を支配。国民総生産 GNPは世界最低ランクにあり,貧富の差も大きい。主産業は農業であるが,人口圧が高いため国土の大半が耕地化され,零細化,地味の疲弊が進行した結果,生産性の低下という困難に直面している。コーヒーが同国第1の輸出品で,ほかにサトウキビ,サイザルアサも重要な輸出用作物である。近年観光業が発展し,農業に次ぐ第2の収入源となっているが,政治的混乱のため伸び悩んでいる。工業は農産物加工が中心。鉄道はサトウキビ運搬用に限られ,国内交通はもっぱら自動車に依存しているが,道路網はあまり整備されていない。

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知恵蔵の解説

ハイチ

正式名称はハイチ共和国。カリブ海にあるイスパニョーラ島の西部約3分の1を占める後発開発途上国。南北アメリカで最も貧しい国とされる。島東部のドミニカ共和国と国境を接する。中南米最初の独立国であり、黒人が建国した世界初の共和国である。
1492年にコロンブスによってイスパニョーラ島が「発見」され、1697年にフランス領となったのが、現在の国土。先住民はスペイン人征服者によって絶滅させられ、フランスがアフリカの黒人を奴隷労働に従事させてプランテーション経済を発展させた。解放黒人奴隷らによる独立運動の末、1804年に独立を宣言したが、独立後も内乱が続き、1915年から34年まで米国が海兵隊を上陸させて占領。その後も軍事政権やクーデターが相次ぐなど政情が安定せず、2004年以降は国連ハイチ安定化ミッション(MINUSTAH)が駐留し、治安の回復などに当たっている。
面積は約2万8千平方キロメートルで、北海道の3分の1程度の大きさ。湾を囲んでコの字型に広がる国土は山がちで、沿岸部を中心に平野が広がる。人口は約1千万人(08年)で、黒人が約95%を占める。最大の都市は、湾奥の平野部に位置する首都ポルトープランス。コーヒー、サトウキビ栽培などの農業を主産業とし、国内総生産(GDP)は約70億ドル(08年)。
しばしばハリケーンなどの自然災害に襲われるが、無秩序な森林伐採やインフラ整備の遅れが被害を拡大する傾向にある。2010年1月には、マグニチュード7.0の大地震が発生し、死者11万人を超す甚大な被害を出した。

(原田英美  ライター / 2010年)

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百科事典マイペディアの解説

ハイチ

◎正式名称−ハイチ共和国Republic of Haiti。◎面積−2万7065km2。◎人口−992万人(2009)。◎首都−ポルトープランスPort-au-Prince(88万人,2009)。◎住民−黒人90%,ムラート10%。◎宗教−カトリック(国教)80%,プロテスタント10%のほか,農村部ではブードゥーが信仰されている。◎言語−フランス語,クレオール語(いずれも公用語)。◎通貨−グールドGourde。◎元首−大統領,ミシェル・マルテリーMichel Martelly(2011年5月就任,任期5年)。◎首相−エバンス・ポール(2015年1月発足)。◎憲法−1987年3月制定。◎国会−二院制。上院(定員30,任期6年),下院(定員99,任期4年)。最近の選挙は2011年3月。◎GDP−70億ドル(2008)。◎1人当りGNP−480ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−64%(1997)。◎平均寿命−男61.2歳,女65.0歳(2013)。◎乳児死亡率−70‰(2010)。◎識字率−48.7%(2006)。    *    *中米,西インド諸島,イスパニオラ島の西側約3分の1を占める共和国。島の東側はドミニカ共和国。国土の北部と南部をほぼ東西に走る山脈が半島状にのび,その間にゴナイブ湾をかかえる。熱帯に属するが北東貿易風の影響で,気候は比較的温暖。農業国で,コーヒー豆,サイザル麻,砂糖,綿花,カカオを生産し,コーヒー豆が最大の輸出品。失業率は70%以上とされる。 1492年コロンブスが到来,スペイン植民地を経て,1697年フランス領となった。フランスは黒人奴隷を連れてきてサトウキビ,綿花,コーヒーなどの栽培を行った。解放奴隷トゥサン・ルベルチュールの指導下に独立運動が起こり,1804年独立を宣言,世界で最初の黒人共和国が誕生した。1821年隣国ドミニカを征服し,全島を支配したが,1844年ドミニカは独立した。1915年―1934年米国海兵隊の占領下に置かれた。1957年以降,デュバリエ父子による独裁が続いたが,1986年反政府運動により打倒された。1990年の大統領選で,解放の神学を唱えるアリスティド神父が当選したが,1991年軍部がクーデタを起こした。1994年米軍主導の多国籍軍による軍事介入寸前で軍部は政権を放棄し,民政が回復した。2000年11月の大統領選挙で,アリスティド元大統領が復帰。その後,大統領退陣を求める反政府勢力の蜂起による混乱のなかで,2004年2月末アリスティド大統領が辞任を表明,国外脱出した。同年3月に発足した暫定政権の下,2006年2月大統領選挙が実施され,希望党のプレバル元大統領が当選。2010年1月,首都ポルトープランス郊外を震源とする大地震が発生。首都周辺を中心に甚大な被害が発生。
→関連項目ハイチ大地震

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世界大百科事典 第2版の解説

ハイチ【Haiti】

正式名称=ハイチ共和国République d’Haïti面積=2万7700km2人口(1996)=673万人首都=ポルトー・プランスPort‐au‐Prince(日本との時差=-14時間)主要言語=フランス語(公用語),クレオール語通貨=グールドGourdeカリブ海,西インド諸島のイスパニオラ島の西部3分の1を占める共和国。ドミニカ共和国と隣接している。国名は先住民のカリブ族がアイチー(〈山の多い土地〉の意)と呼んでいたことによる。

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大辞林 第三版の解説

ハイチ【Haiti】

中部アメリカ、カリブ海のイスパニョーラ島の西半分を占める共和国。東部はドミニカと国境を接する。コーヒー・砂糖・バナナなどを産する。1804年フランスから独立。主要言語はフランス語・フランス語系クレオール(ハイチ語)。首都ポルトープランス。面積2万8千平方キロメートル。人口850万( 2005)。正称、ハイチ共和国。
イスパニョーラ島の旧称。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ハイチ
はいち
Republic of Haiti英語
Rpublique d'Hatiフランス語

西インド諸島中部の国。カリブ海の北側をとりまく大アンティル諸島のなかでキューバ島に次いで二番目に大きいイスパニョーラ(エスパニョーラ)島の西側3分の1を占める。東をドミニカ共和国と接する。正式名称はハイチ共和国Rpublique d'Hati。1804年、南北アメリカ大陸ではアメリカ合衆国に次いで二番目に、ラテンアメリカ(中南米)では最初に独立を達成した。また、フランス語を公用語とするラテンアメリカ唯一の国である。面積は秋田県と岩手県をあわせたほどの2万7750平方キロメートルで、人口813万2000(2001)、1030万(2012)。首都はポルトー・プランスで人口は約200万。ポルトー・プランスは2010年1月の直下型大地震(マグニチュード7.1)で壊滅状態になった。[国本伊代]

自然

ハイチとは先住民アラワクのことばで「山の多い土地」を意味する。平地は国土の17%にすぎず、北部のサン・ニコラス半島には隣国ドミニカ共和国から続く北部山脈が、南部の細長いジャクメル半島にはオット山脈とラ・セル山脈が連なっている。山脈と山脈の間には、北部平野、アルティボニート平野、中央平野などの山間盆地があり、おもな農業地帯となっている。北部沿岸沖にトルチュ島、西部沿岸沖にゴナーブ島がある。イスパニョーラ島は北アメリカプレートとカリブプレートの重なる地点にあるため、過去にも大きな地震があり、1751年にはマグニチュード7.5という大地震を経験している。
 気候は熱帯に属し、夏は南東、冬は北東の貿易風が吹き、雨季(4~10月)と乾季(11~3月)に分かれる。年間降水量は地域によって異なり、貿易風の風下にあるポルトー・プランスでは約1250ミリメートルで、年間平均気温もアンティル諸島の都市のなかでもっとも高い。年間平均気温は海岸地帯で27℃、山間地帯で18~22℃。9月から11月にかけてハリケーンが襲来する。2008年には立て続けに大型ハリケーンに襲われて大きな被害を出し、約800人が死亡した。[国本伊代]

歴史

イスパニョーラ島はコロンブスが1492年の第一次航海で上陸した島で、スペイン人が最初に植民地を建設した地である。最初の港ラナビダをはじめ、島の西部(現在のハイチ)でいくつかの港の建設が試みられたがいずれも失敗し、島の東部(現在のドミニカ共和国)にサント・ドミンゴが建設されて以来、スペイン人の関心はつねに島の東部に集中した。当時の先住民はスペイン人の攻撃によって絶滅。17世紀初めに、イスパニョーラ島の北西に浮かぶ小さなトルチュ島を基地にしたフランス人とイギリス人の海賊が、「新大陸」からスペインに運ぶ財宝を狙ってスペインの交易船を襲撃し、やがて彼らはイスパニョーラ島の西部に定住するようになった。その後、フランス人はイギリス人を追い出し、入植した数少ないスペイン人と衝突した。1697年に締結された国際条約ライスワイク条約によってフランスが島の西側3分の1の領有権を獲得して、この植民地をサン・ドマングと名づけた。サン・ドマング植民地経済の中心はサトウキビの栽培と砂糖の生産であった。サトウキビのプランテーションは、北部海岸のカパイシェン(カプ・ハイティエン)からアルティボニート平野、中央平野にまで拡大してカリブ海域で最大の砂糖生産地となり、フランスが所有する植民地のなかでももっとも富を生み出す植民地となった。その労働力として、ヨーロッパ・アフリカ・カリブ海地域の三角貿易により、アフリカ人が奴隷として大量に連れてこられ、18世紀末には4万人の白人に対してアフリカ人奴隷が50万人を数えるまでに増大した。このような状況の1791年に、フランス革命の影響を受けたムラート(黒人と白人の混血)と所有者から解放された自由黒人が蜂起(ほうき)し、大反乱へと発展して独立戦争の発端となった。フランス本国は5万人の兵力を援軍として送り反乱を鎮圧しようとしたが失敗し、1804年に独立運動の指導者デサリーヌによって独立が達成された。しかしデサリーヌはナポレオンにならって皇帝として即位し、ヨーロッパ系の白人を追放してアフリカ系の黒人帝国として独立を宣言、国名をハイチとした。1806年に共和制へ移行したが、内紛によって国土を南北に二分する対立が起きた。その後、1820年大統領ボアイエJean Pierre Boyer(1776―1850)によって統一された。1822年にはイスパニョーラ島東側のドミニカ共和国(1821年独立を宣言)を占領し、1844年までイスパニョーラ島全体を支配した。
 独立後のハイチの歴史は内紛と反乱、そして独裁者の出現の繰り返しであった。1915年にアメリカは自国民の保護を名目に軍事干渉を行い、税関の管理権を握った。1934年に大統領F・ルーズベルトの善隣政策によって軍隊を撤退させたが、関税の徴収権を返還したのは1941年である。1957年の大統領選挙で選出されたフランソワ・デュバリエは近代化政策を推進した。デュバリエはパパ・ドックとよばれて国民の信望を集めたが、他方で市民義勇兵の名で集められたデュバリエの親衛隊トントン・マクート(秘密警察)を使って反対勢力を一掃し、言論統制、集会の禁止、反デュバリエ派の投獄などを行って警察国家をつくりあげ、1964年に憲法を改正して自ら終身大統領となった。
 デュバリエの死後、1971年に息子のジャン・クロード・デュバリエJean-Claude Duvalier(1951―2014)が20歳で大統領に就任して独裁制を保持した。彼は当初、父親の大統領時代の側近の政治的影響を強く受けたが、やがて黒人、白人、ムラートの協力を取り付けてジャン・クローディズムとよばれる独自の利益誘導型政治を行った。しかし警察国家としての基本的性格は変わらず、1985年11月に首都の北方150キロメートルのゴナイブで食料と仕事を求める大規模なデモが行われたのを発端に、蓄積していた社会的不満が爆発し、デモは全国に波及した。政府は騒乱状態を鎮圧できず、1986年2月に大統領とその家族はアメリカの軍用機でハイチから脱出してフランスに亡命し、29年にわたるデュバリエ親子による独裁体制は崩壊した。
 独裁体制の崩壊によって、陸軍参謀長アンリ・ナンフィHenri Namphy(1932― )を議長とする国家閣僚評議会が政権を握ったが、1990年に国際選挙監視団が監視するなかで行われた大統領選挙でキリスト教「解放の神学派」の神父ジャン・B・アリスティドJean-Bertrand Aristide(1953― )が大統領に選出された。しかし軍部はクーデターを起こして大統領を追放した。その後、国際的な非難と経済制裁のなかで1994年に送り込まれたアメリカ軍を主力とする多国籍軍の支援の下でアリスティドの政権復帰が実現した。この間、軍部と警察による反対派の国民に対する弾圧と人権侵害は過酷をきわめ、治安の悪化と経済の困窮から小舟でアメリカへ向かうボートピープルが急増して国際的な注目を集めた。アリスティドの政権復帰後も国連平和維持部隊が駐留し、国際社会が見守るなかでアリスティド政権は新しい国づくりに取り組んだ。
 1995年の大統領選挙で選出された希望党のルネ・プレバルRen Garcia Prval(1943―2017)は、近隣諸国との関係改善に取り組み、社会主義国キューバとの国交を正常化したほか、ハイチ大統領として61年ぶりに隣国ドミニカ共和国を訪問した。2000年の大統領選挙では、アリスティドがふたたび選ばれ、野党連合が選挙の無効を主張するなかで、2001年に大統領に就任した。2004年にハイチは独立200周年を迎えたが、独裁色を強めるアリスティドに対して1月に退陣を求める大規模なデモが起こるなど国内は混乱した。2004年2月大統領辞任を求める反政府系武装集団と大統領派の衝突が続き、武装集団は地方都市を陥落させ、首都ポルトー・プランスへの進攻を宣言したため、2月24日には治安維持のためアメリカ海兵隊がポルトー・プランスに送り込まれた。フランスとアメリカの大統領退陣勧告を受けて、アリスティドは大統領を辞任し、隣国ドミニカ共和国に亡命した。
 その後の混乱を鎮静化するために、国連は国連ハイチ安定化ミッションを設立し、ブラジル軍を主力とする平和維持軍を派遣して秩序回復に努め、政治の民主化と安定および人権と人道支援のために数千名にのぼる要員を派遣した。このような国際社会の支援の下で、2006年の大統領選挙ではプレバルがふたたび選出された。しかし、2010年1月12日には大地震が発生しておよそ30万人の死者を出し、さらに同年10月にはコレラが大流行して死者数は1000人を超えるなど、国内情勢は極度に悪化した。2010年11月の大統領選挙では絶対多数を得た候補者がおらず、また選挙の不正疑惑を糾弾する市民運動が暴動へと発展したため、2011年3月に決選投票が行われた結果、ポピュラー歌手出身のマーテリーMichel Martelly(1961― )が大統領に選出され、同年5月に就任した。[国本伊代]

政治・外交

政体は共和制をとり、元首は国民の直接投票によって選出される大統領で、任期は5年である。連続再選は禁止されている。大統領が首相を指名するフランス型内閣制をとる。1987年に制定された現行憲法によって改正された議会は、上院(30議席)と下院(99議席)からなる二院制で、任期はそれぞれ6年と4年である。ラテンアメリカ唯一のフランス語国であることから伝統的に周辺諸国との関係は希薄で、とりわけ隣国ドミニカ共和国とは歴史的にも対立してきた。近年はドミニカ共和国におけるハイチ人不法移民の滞留問題でも対立関係にあるが、デュバリエ独裁体制の崩壊後国連をはじめとする国際組織の介入と多くの国の支援を受け入れ、近隣諸国との関係改善も進められていて、対外関係は大きく変化している。[国本伊代]

経済・産業

基幹産業は農業で、国内総生産(GDP)の26%(2009)、輸出の24%、労働人口の75%を占めている。コーヒー、砂糖、カカオ、米、トウモロコシが主要商品作物で、なかでもコーヒーが最大の輸出産品である。山腹斜面に植樹されたコーヒーは、ほとんど手入れされず野生味にあふれ、それが独特の香りをつくりだすことからフランスで珍重され、おもにフランスに輸出されている。農業の生産性は低く、農業国でありながら食糧は自給できずに輸入に依存している。かつてのフランス人の経営によるサトウキビのプランテーションが、1791年のハイチ革命以降破壊され、大農地が農民に分割されたことと、その後も内乱が続いたことによってハイチの農業が衰退の一途をたどったためである。
 工業は、2009年には国内総生産に占める割合を24%台にまで高めているが、依然として軽工業の段階を脱していない。輸出向け工業(野球用品、電気機器、電子部品)と国内向け工業(植物性油、履き物、金属製品)とに分けられ、輸出向け工業はアメリカ合衆国から原材料を輸入して完成品を輸出する組立て工業である。その成長要因として、同国との地理的近接性、税制上の優遇措置に加えて、なによりも豊富で安価な労働力の存在があげられる。アメリカで使用される野球用品の硬球、ソフトボールの大部分がハイチで生産されており、輸出入ともその5割をアメリカが占めている。
 建設業部門も1970年代後半から高い成長率を示したが、公共投資と外資による組立て工場の建設によって誘引されたものである。鉱業は農業と並んで重要な輸出部門であり、そのほとんどはボーキサイトである。通貨はグールド。[国本伊代]

社会・文化

国民の90%をアフリカ系黒人が占め、残りのほとんどはアフリカ系黒人とヨーロッパ系白人の混血ムラートである。そのほかにごく少数のヨーロッパ系白人が存在する。このような人種構成はこの国の文化に大きな特色を与えており、植民地時代の宗主国であったフランスの影響を強く受けながら、アフリカ的な慣習が色濃く残っている。公用語はフランス語とクレオール語で、アフリカ言語とフランス語の混じったクレオール語は日常語として広く使われている。また宗教はカトリック(約65%)が主流であるとはいえ、アフリカに起源をもつブーズー教(ブードゥー教)が民俗信仰として広く受け入れられている。そのほかに民衆音楽や伝統的舞踊などにもアフリカ的なものが強くみられ、隣国のドミニカ共和国が属するスペイン系文化圏とは著しく異なる世界をつくりあげている。教育制度はフランス制で、初等教育のみが義務教育となっている。1人当り国民総所得760ドル(2012)にはじまり、識字率(15歳以上人口)の48.7%(2006年推計)、平均寿命63歳(2011)など経済社会指標のほとんどがラテンアメリカ諸国の最低水準を示し、西半球でもっとも貧しい国となっている。ユネスコの世界遺産(文化遺産)にシタデル、サン・スーシ、ラミエの国立歴史公園が登録されている(1982)。[国本伊代]

日本との関係

ハイチと日本は1953年(昭和28)に国交を樹立した。ハイチで発生したハリケーンや地震の災害に対して日本は主要な援助国として積極的な緊急支援を実施している。貿易関係では、ハイチから日本へコーヒー豆を中心とする輸出があるが、日本からの自動車や機械類の輸入が際だっており、輸入額が輸出額を大幅に上回っている。人材交流はきわめて限定的である。[国本伊代]
『浜忠雄著『ハイチ革命とフランス革命』(1998・北海道大学図書刊行会) ▽エリック・ウィリアムズ著、川北稔訳『コロンブスからカストロまで――カリブ海域史、1492―1969』(2000・岩波書店) ▽浜忠雄著『ハイチの栄光と苦難――世界初の黒人共和国の行方』(2007・刀水書房)』

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世界大百科事典内のハイチの言及

【アンティル[諸島]】より

…ほとんどの地域が一年中貿易風,海風の影響下にあり,快適で過ごしやすく,サンゴ礁,熱帯植物などの美しい自然景観に恵まれている。 ヨーロッパでは,中世から大西洋の向こうにはアンティリアAntiliaと呼ばれる土地があると想像されていたが,コロンブスの新世界発見後,スペイン人がハイチをアンティリアにあて(1493),1502年の地図では諸島をスペイン語でアンティリャスAntillasと呼んだ。また小アンティル諸島のうちグレナダから北西にある島々は貿易風の恵みをうけるのでバルロベントBarlovento諸島,英語でウィンドワード諸島と呼び,ベネズエラ沖の島々をソタベントSotavento諸島(〈風下〉の意),英語でリーワード諸島と呼んでいる。…

【イスパニオラ[島]】より

…西インド諸島中部,大アンティル諸島の島。ヒスパニオラ島,ハイチ島,サント・ドミンゴ島などとも呼ばれる。キューバ(西)とプエルト・リコ(東)の間に位置し,西インド諸島中キューバに次ぐ第2の島。…

【ブードゥー】より

…ハイチにみられる民間信仰で,キューバのサンテリーアやブラジルのマクンバ,カンドンブレとともに,アフリカの原始宗教とカトリックとが混交した宗教。フランスの植民地時代に西アフリカのダホメー(現,ベニン)から奴隷としてキューバに連れて来られたフォン族がもたらしたものであるが,彼らはその後支配者の強制するキリスト教と父祖伝来のブードゥー教とを巧みに融和させ,これを部族宗教から民族宗教に発展させた。…

※「ハイチ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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