精選版 日本国語大辞典 「ハイチ」の意味・読み・例文・類語
ハイチ
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西インド諸島中部の国。カリブ海の北側をとりまく大アンティル諸島のなかでキューバ島に次いで二番目に大きいイスパニョーラ(エスパニョーラ)島の西側3分の1を占める。東をドミニカ共和国と接する。正式名称はハイチ共和国République d'Haïti。1804年、南北アメリカ大陸ではアメリカ合衆国に次いで二番目に、ラテンアメリカ(中南米)では最初に独立を達成した。また、フランス語を公用語とするラテンアメリカ唯一の国である。面積は秋田県と岩手県をあわせたほどの2万7750平方キロメートルで、人口813万2000(2001)、1030万(2012)。首都はポルトー・プランスで人口は約200万。ポルトー・プランスは2010年1月の直下型大地震(マグニチュード7.1)で壊滅状態になった。
[国本伊代]
ハイチとは先住民アラワクのことばで「山の多い土地」を意味する。平地は国土の17%にすぎず、北部のサン・ニコラス半島には隣国ドミニカ共和国から続く北部山脈が、南部の細長いジャクメル半島にはオット山脈とラ・セル山脈が連なっている。山脈と山脈の間には、北部平野、アルティボニート平野、中央平野などの山間盆地があり、おもな農業地帯となっている。北部沿岸沖にトルチュ島、西部沿岸沖にゴナーブ島がある。イスパニョーラ島は北アメリカプレートとカリブプレートの重なる地点にあるため、過去にも大きな地震があり、1751年にはマグニチュード7.5という大地震を経験している。
気候は熱帯に属し、夏は南東、冬は北東の貿易風が吹き、雨季(4~10月)と乾季(11~3月)に分かれる。年間降水量は地域によって異なり、貿易風の風下にあるポルトー・プランスでは約1250ミリメートルで、年間平均気温もアンティル諸島の都市のなかでもっとも高い。年間平均気温は海岸地帯で27℃、山間地帯で18~22℃。9月から11月にかけてハリケーンが襲来する。2008年には立て続けに大型ハリケーンに襲われて大きな被害を出し、約800人が死亡した。
[国本伊代]
イスパニョーラ島はコロンブスが1492年の第一次航海で上陸した島で、スペイン人が最初に植民地を建設した地である。最初の港ラナビダをはじめ、島の西部(現在のハイチ)でいくつかの港の建設が試みられたがいずれも失敗し、島の東部(現在のドミニカ共和国)にサント・ドミンゴが建設されて以来、スペイン人の関心はつねに島の東部に集中した。当時の先住民はスペイン人の攻撃によって絶滅。17世紀初めに、イスパニョーラ島の北西に浮かぶ小さなトルチュ島を基地にしたフランス人とイギリス人の海賊が、「新大陸」からスペインに運ぶ財宝を狙ってスペインの交易船を襲撃し、やがて彼らはイスパニョーラ島の西部に定住するようになった。その後、フランス人はイギリス人を追い出し、入植した数少ないスペイン人と衝突した。1697年に締結された国際条約ライスワイク条約によってフランスが島の西側3分の1の領有権を獲得して、この植民地をサン・ドマングと名づけた。サン・ドマング植民地経済の中心はサトウキビの栽培と砂糖の生産であった。サトウキビのプランテーションは、北部海岸のカパイシェン(カプ・ハイティエン)からアルティボニート平野、中央平野にまで拡大してカリブ海域で最大の砂糖生産地となり、フランスが所有する植民地のなかでももっとも富を生み出す植民地となった。その労働力として、ヨーロッパ・アフリカ・カリブ海地域の三角貿易により、アフリカ人が奴隷として大量に連れてこられ、18世紀末には4万人の白人に対してアフリカ人奴隷が50万人を数えるまでに増大した。このような状況の1791年に、フランス革命の影響を受けたムラート(黒人と白人の混血)と所有者から解放された自由黒人が蜂起(ほうき)し、大反乱へと発展して独立戦争の発端となった。フランス本国は5万人の兵力を援軍として送り反乱を鎮圧しようとしたが失敗し、1804年に独立運動の指導者デサリーヌによって独立が達成された。しかしデサリーヌはナポレオンにならって皇帝として即位し、ヨーロッパ系の白人を追放してアフリカ系の黒人帝国として独立を宣言、国名をハイチとした。1806年に共和制へ移行したが、内紛によって国土を南北に二分する対立が起きた。その後、1820年大統領ボアイエJean Pierre Boyer(1776―1850)によって統一された。1822年にはイスパニョーラ島東側のドミニカ共和国(1821年独立を宣言)を占領し、1844年までイスパニョーラ島全体を支配した。
独立後のハイチの歴史は内紛と反乱、そして独裁者の出現の繰り返しであった。1915年にアメリカは自国民の保護を名目に軍事干渉を行い、税関の管理権を握った。1934年に大統領F・ルーズベルトの善隣政策によって軍隊を撤退させたが、関税の徴収権を返還したのは1941年である。1957年の大統領選挙で選出されたフランソワ・デュバリエは近代化政策を推進した。デュバリエはパパ・ドックとよばれて国民の信望を集めたが、他方で市民義勇兵の名で集められたデュバリエの親衛隊トントン・マクート(秘密警察)を使って反対勢力を一掃し、言論統制、集会の禁止、反デュバリエ派の投獄などを行って警察国家をつくりあげ、1964年に憲法を改正して自ら終身大統領となった。
デュバリエの死後、1971年に息子のジャン・クロード・デュバリエJean-Claude Duvalier(1951―2014)が20歳で大統領に就任して独裁制を保持した。彼は当初、父親の大統領時代の側近の政治的影響を強く受けたが、やがて黒人、白人、ムラートの協力を取り付けてジャン・クローディズムとよばれる独自の利益誘導型政治を行った。しかし警察国家としての基本的性格は変わらず、1985年11月に首都の北方150キロメートルのゴナイブで食料と仕事を求める大規模なデモが行われたのを発端に、蓄積していた社会的不満が爆発し、デモは全国に波及した。政府は騒乱状態を鎮圧できず、1986年2月に大統領とその家族はアメリカの軍用機でハイチから脱出してフランスに亡命し、29年にわたるデュバリエ親子による独裁体制は崩壊した。
独裁体制の崩壊によって、陸軍参謀長アンリ・ナンフィHenri Namphy(1932― )を議長とする国家閣僚評議会が政権を握ったが、1990年に国際選挙監視団が監視するなかで行われた大統領選挙でキリスト教「解放の神学派」の神父ジャン・B・アリスティドJean-Bertrand Aristide(1953― )が大統領に選出された。しかし軍部はクーデターを起こして大統領を追放した。その後、国際的な非難と経済制裁のなかで1994年に送り込まれたアメリカ軍を主力とする多国籍軍の支援の下でアリスティドの政権復帰が実現した。この間、軍部と警察による反対派の国民に対する弾圧と人権侵害は過酷をきわめ、治安の悪化と経済の困窮から小舟でアメリカへ向かうボートピープルが急増して国際的な注目を集めた。アリスティドの政権復帰後も国連平和維持部隊が駐留し、国際社会が見守るなかでアリスティド政権は新しい国づくりに取り組んだ。
1995年の大統領選挙で選出された希望党のルネ・プレバルRené Garcia Préval(1943―2017)は、近隣諸国との関係改善に取り組み、社会主義国キューバとの国交を正常化したほか、ハイチ大統領として61年ぶりに隣国ドミニカ共和国を訪問した。2000年の大統領選挙では、アリスティドがふたたび選ばれ、野党連合が選挙の無効を主張するなかで、2001年に大統領に就任した。2004年にハイチは独立200周年を迎えたが、独裁色を強めるアリスティドに対して1月に退陣を求める大規模なデモが起こるなど国内は混乱した。2004年2月大統領辞任を求める反政府系武装集団と大統領派の衝突が続き、武装集団は地方都市を陥落させ、首都ポルトー・プランスへの進攻を宣言したため、2月24日には治安維持のためアメリカ海兵隊がポルトー・プランスに送り込まれた。フランスとアメリカの大統領退陣勧告を受けて、アリスティドは大統領を辞任し、隣国ドミニカ共和国に亡命した。
その後の混乱を鎮静化するために、国連は国連ハイチ安定化ミッションを設立し、ブラジル軍を主力とする平和維持軍を派遣して秩序回復に努め、政治の民主化と安定および人権と人道支援のために数千名にのぼる要員を派遣した。このような国際社会の支援の下で、2006年の大統領選挙ではプレバルがふたたび選出された。しかし、2010年1月12日には大地震が発生しておよそ30万人の死者を出し、さらに同年10月にはコレラが大流行して死者数は1000人を超えるなど、国内情勢は極度に悪化した。2010年11月の大統領選挙では絶対多数を得た候補者がおらず、また選挙の不正疑惑を糾弾する市民運動が暴動へと発展したため、2011年3月に決選投票が行われた結果、ポピュラー歌手出身のマーテリーMichel Martelly(1961― )が大統領に選出され、同年5月に就任した。
[国本伊代]
政体は共和制をとり、元首は国民の直接投票によって選出される大統領で、任期は5年である。連続再選は禁止されている。大統領が首相を指名するフランス型内閣制をとる。1987年に制定された現行憲法によって改正された議会は、上院(30議席)と下院(99議席)からなる二院制で、任期はそれぞれ6年と4年である。ラテンアメリカ唯一のフランス語国であることから伝統的に周辺諸国との関係は希薄で、とりわけ隣国ドミニカ共和国とは歴史的にも対立してきた。近年はドミニカ共和国におけるハイチ人不法移民の滞留問題でも対立関係にあるが、デュバリエ独裁体制の崩壊後国連をはじめとする国際組織の介入と多くの国の支援を受け入れ、近隣諸国との関係改善も進められていて、対外関係は大きく変化している。
[国本伊代]
基幹産業は農業で、国内総生産(GDP)の26%(2009)、輸出の24%、労働人口の75%を占めている。コーヒー、砂糖、カカオ、米、トウモロコシが主要商品作物で、なかでもコーヒーが最大の輸出産品である。山腹斜面に植樹されたコーヒーは、ほとんど手入れされず野生味にあふれ、それが独特の香りをつくりだすことからフランスで珍重され、おもにフランスに輸出されている。農業の生産性は低く、農業国でありながら食糧は自給できずに輸入に依存している。かつてのフランス人の経営によるサトウキビのプランテーションが、1791年のハイチ革命以降破壊され、大農地が農民に分割されたことと、その後も内乱が続いたことによってハイチの農業が衰退の一途をたどったためである。
工業は、2009年には国内総生産に占める割合を24%台にまで高めているが、依然として軽工業の段階を脱していない。輸出向け工業(野球用品、電気機器、電子部品)と国内向け工業(植物性油、履き物、金属製品)とに分けられ、輸出向け工業はアメリカ合衆国から原材料を輸入して完成品を輸出する組立て工業である。その成長要因として、同国との地理的近接性、税制上の優遇措置に加えて、なによりも豊富で安価な労働力の存在があげられる。アメリカで使用される野球用品の硬球、ソフトボールの大部分がハイチで生産されており、輸出入ともその5割をアメリカが占めている。
建設業部門も1970年代後半から高い成長率を示したが、公共投資と外資による組立て工場の建設によって誘引されたものである。鉱業は農業と並んで重要な輸出部門であり、そのほとんどはボーキサイトである。通貨はグールド。
[国本伊代]
国民の90%をアフリカ系黒人が占め、残りのほとんどはアフリカ系黒人とヨーロッパ系白人の混血ムラートである。そのほかにごく少数のヨーロッパ系白人が存在する。このような人種構成はこの国の文化に大きな特色を与えており、植民地時代の宗主国であったフランスの影響を強く受けながら、アフリカ的な慣習が色濃く残っている。公用語はフランス語とクレオール語で、アフリカ言語とフランス語の混じったクレオール語は日常語として広く使われている。また宗教はカトリック(約65%)が主流であるとはいえ、アフリカに起源をもつブーズー教(ブードゥー教)が民俗信仰として広く受け入れられている。そのほかに民衆音楽や伝統的舞踊などにもアフリカ的なものが強くみられ、隣国のドミニカ共和国が属するスペイン系文化圏とは著しく異なる世界をつくりあげている。教育制度はフランス制で、初等教育のみが義務教育となっている。1人当り国民総所得760ドル(2012)にはじまり、識字率(15歳以上人口)の48.7%(2006年推計)、平均寿命63歳(2011)など経済社会指標のほとんどがラテンアメリカ諸国の最低水準を示し、西半球でもっとも貧しい国となっている。ユネスコの世界遺産(文化遺産)にシタデル、サン・スーシ、ラミエの国立歴史公園が登録されている(1982)。
[国本伊代]
ハイチと日本は1953年(昭和28)に国交を樹立した。ハイチで発生したハリケーンや地震の災害に対して日本は主要な援助国として積極的な緊急支援を実施している。貿易関係では、ハイチから日本へコーヒー豆を中心とする輸出があるが、日本からの自動車や機械類の輸入が際だっており、輸入額が輸出額を大幅に上回っている。人材交流はきわめて限定的である。
[国本伊代]
『浜忠雄著『ハイチ革命とフランス革命』(1998・北海道大学図書刊行会)』▽『エリック・ウィリアムズ著、川北稔訳『コロンブスからカストロまで――カリブ海域史、1492―1969』Ⅰ、Ⅱ(2000・岩波書店)』▽『浜忠雄著『ハイチの栄光と苦難――世界初の黒人共和国の行方』(2007・刀水書房)』
基本情報
正式名称=ハイチ共和国République d'Haïti
面積=2万7750km2
人口(2010)=1009万人
首都=ポルトー・プランスPort-au-Prince(日本との時差=-14時間)
主要言語=フランス語(公用語),クレオール語
通貨=グールドGourde
カリブ海,西インド諸島のイスパニオラ島の西部3分の1を占める共和国。ドミニカ共和国と隣接している。国名は先住民のカリブ族がアイチー(〈山の多い土地〉の意)と呼んでいたことによる。面積は長野,岐阜,山梨の3県を合わせたほどの,こぢんまりした国であるが,1804年ラテン・アメリカで最初に誕生した独立国であり,世界最初の黒人の共和国として知られている。国旗も,黒と赤に二分された地の真ん中にヤシの木などをあしらった図柄となっており,黒は黒人の団結力,赤は独立のために流された血を象徴すると説明されている。
北部では北部山脈が,中部ではノアール山脈が,南部では南部山脈とラ・セル山脈がそれぞれ連なっていて,国土の3分の2が山地である。最高峰は南部のラ・セル山(2680m)。それらの支脈にコーヒー農園,低地にサトウキビ農場が散在している。気候は熱帯性で,年平均気温は26.6℃。行政区域は九つの州に分かれている。
全人口の90%は黒人,10%は混血。公用語はフランス語であるが,それを主として使用しているのは〈エリート〉といわれる混血であり,人口の大多数を占める黒人はクレオール語を話している。黒人,混血の人種構成のために人種差別はみられないが,貧富の差がはなはだしいので,同一人種間でも階級対立が顕著である。宗教はカトリック80%,プロテスタント10%,その他10%であるが,カトリックとアフリカ原始宗教との混合宗教であるブードゥーが農村に広く分布している。ブードゥーはハイチにおいて大きな影響力をもっており,独立革命の前ぶれとなった1791年の奴隷反乱では,ブードゥーを信仰する奴隷たちが守護神を奉持して蜂起したし,1957年に大統領に選出されたフランソア・デュバリエは熱心なブードゥー教徒として知られている。
1971年に憲法が改正され,終身大統領制が成立した。この結果,フランソア・デュバリエに続いて息子ジャン・クロード・デュバリエによる世襲制が誕生した。政党は,デュバリエの結成した民族統一党の一党独裁で,ハイチ共産党などの既成政党は非合法状態に置かれた。デュバリエ独裁体制の下で,ハイチは平均寿命が50歳,非識字人口が80%に達し,また〈トントン・マクート〉といわれる秘密警察によって言論・結社の自由を奪われた。しかし,1985年秋に始まった国民の暴動によって86年2月,大統領は国外へ脱出し,29年間続いたデュバリエ一族の独裁は崩壊した。
その後,暫定軍事政権が発足し,87年3月に国民投票で新憲法が制定され,88年1月の大統領選挙を経て,同年8月民政に移行した。しかし軍部が同年6月にクーデタで大統領を追放し,再び軍政にもどった。90年3月に大衆のデモによって軍事政権が倒れるとともに,同年12月に実施された大統領選挙では解放の神学を唱え〈ラバラス運動〉を組織したジャン・ベルトラン・アリスティード神父が圧倒的多数で当選した。しかしそれも束の間,91年9月にラウール・セドラ将軍のクーデタで大統領はアメリカへの亡命を余儀なくされ,軍政は94年まで続いた。その間アメリカや国連の圧力がかかり,同年アリスティード大統領は帰国するとともに,セドラ将軍はパナマへ亡命した。95年に実施された大統領選挙ではアリスティード路線を継承するルネ・プレバルが当選したが,ハイチでは暴力行為,麻薬の密輸,高い失業率,物価の上昇などの問題が山積し,政治の安定化にはほど遠い状況にある。
労働人口の70%が農業に従事している典型的な農業国。おもな農産物はコーヒー,砂糖,バナナ,サイザル麻,綿花,タバコなどで,このうちコーヒーの輸出額は全体の50%に達している。農業のほかには,ボーキサイト,銅などの鉱物資源があるが,工業とともに未発達の状態にある。農業部門においても外国資本に依存している部分が多く,ユナイテッド・ブランズ(バナナ),ソシエテ・アイシエンヌ・アメリケーヌ(サイザル麻),ハスコ(砂糖)などの外国系大企業の活動が目だっている。また貿易は輸出入とも60%をアメリカ合衆国に依存していて,ハイチ経済は合衆国市場をぬきにしては考えられない。1人当り年間所得が300ドル以下というラテン・アメリカでは最も低水準の国であり,職を求めて合衆国,ドミニカ共和国などへの出国者はあとを絶たない。
日本との国交は第2次大戦中断絶していたが,1953年に再開された。日本へはコーヒーなどの農産物を輸出し,鉄鋼,機械類を輸入しているが,対日貿易収支は赤字を続けている。
ハイチは1492年12月6日コロンブスによって〈発見〉され,イスパニオラ島と名づけられた。先住民カリブ族は金鉱採掘に酷使されたため間もなく絶滅し,早くも1503年にアフリカから黒人奴隷が導入された。1627年北部沿岸のトルチュー島(トルトゥガ島)にフランスの海賊が定住し,その後イスパニオラ島の西3分の1を占領したため,1697年のリスウィック条約で正式にその部分がフランスへ割譲された。フランスはここをサン・ドマングと命名し,奴隷労働に基づく綿花,砂糖,コーヒー栽培を行い,18世紀末には奴隷人口は40万人に達した。1791年8月,フランス大革命の影響を受けて奴隷反乱が発生し,解放奴隷トゥサン・ルベルチュールの指導下でそれが独立革命に発展した。1801年に憲法が制定され彼は終身総督となったが,ナポレオンは2万5000の兵士を派遣して革命の鎮圧に当たった結果,ルベルチュールは捕らえられ,03年フランスで獄死した。しかしルベルチュールの後継者であるデサリーヌJean-Jacques Dessalines(1758-1806)とペシヨンAlexandre Sabès Pétion(1770-1818)は闘争を続け,フランス軍を撃退して,04年1月ハイチの独立が宣言された。こうして,ハイチは世界で最初の黒人共和国,ラテン・アメリカで最初の独立国となったのである。その後デサリーヌや彼の後を継いだクリストフHenry Christophe(1767-1820)は皇帝を名のったが,20年以降はふたたび共和制に移行した。
しかし19世紀半ばから20世紀初頭にかけて内乱が絶えず,その間大統領が22回も交代し,就任した大統領はみずから終身制を宣言する政治的混乱期が続いた。そして1915年独裁者ギヨーム・サム大統領が暗殺されると,アメリカ合衆国はハイチにおける権益を保護する名目で海兵隊をこの国に派遣し,その占領状態が19年間に及んだ。第2次大戦に入ると,合衆国の支持で大統領に就任したエリ・レスコは41年枢軸国と断交し,ハイチは食糧補給国として好況を迎えたが,戦後の不況期に入ると46年にレスコ大統領はゼネストで倒れ,次いで元首に選出されたデュマルセ・エスティメもポール・マグロアールも,労働者の攻勢によって引退せざるをえなかった。しかもマグロアールの引退後,57年9月にフランソア・デュバリエが大統領に選出されるまでの数ヵ月間は,1915年以来最悪の政治的混迷期にあたり,その間6回にわたって臨時政府が交代する状態が続いた。
F.デュバリエの登場は,よかれあしかれその混迷期に終止符を打ち,新しい政治体制を実現した点で,ハイチ政治史上に一時期を画したといえる。しかし〈パパ・ドック(F. デュバリエ)〉時代の14年間はもちろん,その後の15年間の〈ベビー・ドック(J.C. デュバリエ)〉時代にも,ハイチでは独裁制が維持されて国民は貧困に苦しみ,世界でも最高の非識字人口(1995年,15歳以上で60%)を抱える国になったのである。
執筆者:神代 修
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(原田英美 ライター / 2010年)
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アイチともいう。エスパニョラ島西部の共和国。初めスペイン領だったが,1697年フランス領となり,世界の砂糖の総生産量の約半分を産出した。フランス革命のとき,ムラート,黒人が白人支配階級に反乱を起こし,1804年,中南米のなかで最初の独立をなしとげた。19世紀末から20世紀初めにかけて政情は比較的安定していたが,その後の政治的混乱を収拾するため,アメリカは1915~34年軍事占領を行った。57~86年のデュヴァリエ親子の独裁をへて,貧困化と政治の混乱が続くなかで,90年代,国連平和維持軍や国連ミッションが駐留して治安を保った。使用言語はフランス語,クレオール語。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…ほとんどの地域が一年中貿易風,海風の影響下にあり,快適で過ごしやすく,サンゴ礁,熱帯植物などの美しい自然景観に恵まれている。 ヨーロッパでは,中世から大西洋の向こうにはアンティリアAntiliaと呼ばれる土地があると想像されていたが,コロンブスの新世界発見後,スペイン人がハイチをアンティリアにあて(1493),1502年の地図では諸島をスペイン語でアンティリャスAntillasと呼んだ。また小アンティル諸島のうちグレナダから北西にある島々は貿易風の恵みをうけるのでバルロベントBarlovento諸島,英語でウィンドワード諸島と呼び,ベネズエラ沖の島々をソタベントSotavento諸島(〈風下〉の意),英語でリーワード諸島と呼んでいる。…
…西インド諸島中部,大アンティル諸島の島。ヒスパニオラ島,ハイチ島,サント・ドミンゴ島などとも呼ばれる。キューバ(西)とプエルト・リコ(東)の間に位置し,西インド諸島中キューバに次ぐ第2の島。…
…ハイチにみられる民間信仰で,キューバのサンテリーアやブラジルのマクンバ,カンドンブレとともに,アフリカの原始宗教とカトリックとが混交した宗教。フランスの植民地時代に西アフリカのダホメー(現,ベニン)から奴隷としてキューバに連れて来られたフォン族がもたらしたものであるが,彼らはその後支配者の強制するキリスト教と父祖伝来のブードゥー教とを巧みに融和させ,これを部族宗教から民族宗教に発展させた。…
※「ハイチ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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