アメリカの映画音楽作曲家、指揮者。ユダヤ系ロシア移民の子としてニューヨークに生まれる。実作品を通じて映画音楽の美学的可能性を追求し、ドイツ系作曲家が支配していたハリウッド映画音楽にアメリカ固有の音楽表現をもたらした先駆者。幼いころからバイオリンを習い、13歳でベルリオーズ著『近代の楽器法と管弦楽法』 Traité d'Instrumentation et d'Orchestration(1844)を読んで一念発起し、音楽の道に進むことを決意。ニューヨーク大学でアルバート・ストーセルAlbert Stoessel(1894―1943)に指揮を師事、その後、ストーセルの強い薦(すす)めでジュリアード音楽院に移り、アーロン・コープランドらの知己を得た。ふたたびニューヨーク大学に戻り、パーシー・グレインジャーPercy Grainger(1882―1961)の講義に出席。卒業後の1933年にはニュー・チェンバー・オーケストラを指揮して指揮者デビューを飾り、翌1934年、CBS放送局に音楽アシスタントとして入社。CBS交響楽団指揮者および番組編成者として辣腕(らつわん)をふるった。放送現場で知り合ったマーキュリー劇団の主宰者オーソン・ウェルズと意気投合。1938年、ウェルズ演出・出演およびハーマン音楽のラジオドラマ『宇宙戦争』では、そのリアリティゆえに聴取者が本当に宇宙人が襲来したと誤解し全米がパニックに陥った。この余勢を駆ってウェルズがハリウッドに進出した監督第一作『市民ケーン』(1941)でもハーマンが音楽を担当、映画音楽作曲家としてのデビューを果たし、同年手がけた『悪魔の金』で初のアカデミー最優秀作曲賞を受賞した。
CBS交響楽団の指揮を務めながらウェルズ監督第二作『偉大なるアンバーソン家の人々』(1942)およびウェルズ主演作『ジェーン・エア』(1944)などの音楽を担当したが、放送局の縮小にともない1951年にCBS交響楽団の指揮者の職を失ったハーマンはハリウッドで本格的な活動を開始。20世紀フォックス音楽部長だったアルフレッド・ニューマンAlfred Newman(1901―1970)に認められ、『地球の静止する日』(1951)、『キリマンジャロの雪』(1952)、『十二哩(マイル)の暗礁の下に』(1953)などのフォックス作品に優れた音楽を提供した。1955年、『ハリーの災難』で初めて組んだアルフレッド・ヒッチコック監督と息の合った共同作業を開始。『知りすぎていた男』(1956)、『めまい』(1958)、『北北西に進路を取れ』(1959)、『サイコ』(1960)、『マーニー』(1964)など、ハーマンの音楽はヒッチコックのサスペンス演出において重要な役割を占めるようになった。このほか、同時期の重要な仕事として、レイ・ハリーハウゼンが制作した『シンドバッド七回目の航海』(1958)、『アルゴ探険隊の大冒険』(1963)などの特撮物、およびテレビ番組「ミステリー・ゾーン」(1959~1965)があげられる。
1966年、『引き裂かれたカーテン』の音楽がヒッチコックにより却下され、10年におよんだ共同作業は決裂。失望したハーマンはロンドンに移住し、指揮活動に専念。しかしフランソワ・トリュフォーやブライアン・デ・パルマなど、ヒッチコックを信奉する監督に請われ、前者のために『華氏(かし)451』(1966)、『黒衣の花嫁』(1968)、後者のために『悪魔のシスター』(1973)、『愛のメモリー』(1976)の音楽を作曲した。1975年、マーティン・スコセッシ監督の『タクシードライバー』(1976)録音作業のため、久方ぶりにハリウッドに戻ったが、同作の録音を完了した晩に心臓発作で永眠した。
印象的な主題曲を鳴らすのではなく、音楽を用いて映画のなかに内在する劇的構造や深層心理を明らかにし、もっとも効果的な手段で観客に伝えることが、ハーマンのすべての作品を貫く方法論である。演出や撮影といった要素と同じレベルで、音楽が映画評論の対象となりえたのは、ひとえにハーマンの優れた映画音楽が存在したからである。また、映画作家や作曲家への影響にとどまらず、エサ・ペッカ・サロネンEsa-Pekka Salonen(1958― )やクレメラータ・バルティカ(ラトビア出身のバイオリニスト、ギドン・クレーメルが1997年に設立した室内管弦楽団)による演奏や、多くのロック・ミュージシャンもハーマンの楽曲を好んでカバーしていることは注目に値しよう。先鋭的なコード進行とリズムの使用、瞬時のうちに耳をとらえる考えぬかれたオーケストレーションを特徴とするハーマンの作品は、映画音楽という狭い枠を超え、20世紀アメリカが生みだした一つの文化的現象である。
カンタータ「白鯨」(1938)、「交響曲」(1941)、オペラ「嵐が丘」(1951)などの演奏会用作品はいずれも自作自演の録音が残されているほか、イギリス、デッカ・レコードの録音にコンサート指揮者としての在りし日のハーマンを聴くことができる。
[前島秀国]
『Steven C. SmithA Heart at Fire's Center; The Life and Music of Bernard Herrmann (1991, University of California Press, Berkeley)』
ドイツの宗教的思想家。8月27日ケーニヒスベルク(現、ロシア領カリーニングラード)に生まれ、敬虔(けいけん)主義の雰囲気のなかで育った。故郷の大学で学んだが、学業を完成しないままに、家庭教師を経て、商社員としてロンドンに駐在した。仕事はうまくいかなかったが、聖書講義から深い感銘を受け、回心を体験した。1759年ケーニヒスベルクへ帰って病気の父の看病のかたわら、独自の文筆活動を始めた。一連の小冊子を発行し、その内容は、一人の敬虔なキリスト者の時代精神、とくに啓蒙(けいもう)主義との対決にあった。1767年以後は故郷に定住して、女中のシューマッハAnna Regina Schumacher(1736―1789)と「良心的自由の結婚」に入り、下級官吏を勤めた。1787年退職してミュンスターへ旅行し、帰途につこうとした1788年6月21日同地で没した。カントのほか、ヘルダー、M・メンデルスゾーン、F・ニコライ、F・H・ヤコービらと広い交友関係を保った。
啓蒙思想の理性主義を批判して、感性的経験を重んじ、この立場に基づいて聖書を通して神の言の啓示から人間と世界、信仰と言語と救済の解明を試みた。その文体は、読者を二つの命題の間にたたせて、読者自身の認識によって言外の隠喩(いんゆ)的意味へと向かわせるといった独特の形をとる。19世紀以後、彼は、シュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤(どとう))の文学運動、敬虔主義の信仰覚醒(かくせい)運動の鼓舞者、ドイツ・ロマン主義の先駆者として、高く評価された。のみならず、キルケゴールも、自由主義神学者も、弁証法神学者も、それぞれの立場から彼の思想を高く評価し、神学的再評価の動きもみられる。
[森田雄三郎 2015年3月19日]
アメリカのジャズ・クラリネット奏者、歌手、指揮者。ウィスコンシン州生まれ。1933年に楽団を結成したが失敗。34年アイシャム・ジョーンズ楽団に参加。36年に同楽団が解散、その主要メンバーを集めて自らの名を冠した楽団を結成、ブルース演奏で人気を得た。40年代後半にビ・バップの手法を導入、モダン・ビッグ・バンドとして大成功を収め、スタン・ゲッツら大スターを輩出した。
[青木 啓]
ドイツの哲学者,プロテスタント思想家。〈北方の賢者〉とも呼ばれ,啓蒙的合理主義がなお強い影響力をもつ時代のただ中にあって,それに対する徹底した批判を展開し,後のロマン主義や実存主義に連なる道を開いた。ケーニヒスベルクに生まれ,もとは商用で渡ったロンドンに滞在中決定的な回心を体験する。生地にもどって著作活動にたずさわるかたわら,カントの斡旋で下級税務官吏の職につく。カントの理性批判の哲学にたいしては,普遍的概念に定位する理性の純粋主義を鋭く批判し,理性よりは具体的啓示の言葉に対する信仰による聴従の必要を説いた。詩は人類の母語であるとして,あくまでも生きた具体的言葉を尊重し,また自然をも含めた世界を徹底してできごとと歴史の相において見る行き方は,ヘルダー,F.H.ヤコビらに決定的影響を与え,ゲーテやヘーゲルも彼を重んじた。ビーコと並んで今日再評価の機運の強い思想家である。
執筆者:坂部 恵
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