ドイツの思想家。8月25日、東プロイセンのモールンゲンに小学校教師の子として生まれる。ケーニヒスベルク大学で神学と哲学とを学び、カントの影響を受けるとともに神秘的思想家J・G・ハーマンに私淑した。1764年リガ(ラトビア共和国の首都)の司教座聖堂付属学校教師となり、『近代ドイツ文学断想』(1767)、『批評論叢(ろんそう)』(1769)を発表し若くして名を知られた。1769年、リガを去りフランス・南ドイツへ旅したが、『旅日記』(1769)に「わがゆく道はゴシックの仄(ほの)暗いアーチをくぐり緑の並木の下翳(したかげ)を辿(たど)る」と、フランスとは異なる自国文化への魂の自覚を記している。ストラスブール(シュトラスブルク)で若いゲーテと出会い、「シュトゥルム・ウント・ドラング」(疾風怒濤(しっぷうどとう))運動のきっかけをつくった。1771年ビュッケブルクの宮廷牧師となり、1776年ゲーテの推薦でワイマールの教区総監督に迎えられ、その地で終生過ごした。1803年12月18日没。
彼の思索活動はきわめて多岐にわたるが、まず文芸理論の分野では『オシアン論』(1773)、『シェークスピア論』(1773)、『民謡集』(1778~1779)、『ヘブライ文学の精神』(1782~1783)などがあげられる。いずれも啓蒙(けいもう)思想の主知主義的文芸観に変革をもたらした画期的著作で、在来の文学観の基礎にあった、いわゆる三統一の法則および古典古代の作品を文芸一般の規範とみなす見方を退け、創造精神の自由こそ文学の原理であるとし、同時に民族の歴史と風土を文学芸術成立の基盤とみる立場を確立した。また言語思想の面では『言語起源論』(1772)ほかがあり、言語とは事物や観念の単なる恣意(しい)的な符丁(ふちょう)ではないとし、言語と意識と事物の関係を人間論的に問うとともに、言語をとりわけ母国語の面から民族の文化形成との関連によりとらえたことは、フンボルトの言語哲学への礎石を据えるものとなった。さらに歴史哲学の領域では、主要著作として、『人間性形成のための歴史哲学異説』(1774)、『イデーン(人間史の哲学の諸理念)』(1784~1791)がある。歴史を自然に対立する概念とみなすのが通常一般のとらえ方であるとすれば、これを転換して、人間精神と自然世界とを統一的立場により把握する独自な歴史観を確立した。とくに『異説』では、民族や時代について歴史事象の個体性の観念を導き入れ、後の歴史主義へと道を開く一方、『諸理念』では、人間文化の展開の諸相を、人間性の発展の理念のもとに終末観の枠組みによりとらえたところに特徴がある。これは、キリスト教的啓示概念の独自な把握に基づくものである。
聖職者としてワイマール教区を預かる地位にあったヘルダーは、またワイマール公国の宗教局評定官、のち長官の職についたが、もっとも腐心したのは公国内の教育制度の改革であった。彼の人間性の教育の理念はさいわい公国宰相ゲーテの支持を受け、幾多の実績をあげることとなる。ワイマール中央教会内に埋葬されている彼の墓碑銘には「光、愛、生命」Licht,Liebe,Lebenと記されている。
[七字慶紀 2018年8月21日]
『木村直司訳『言語起源論』(1972・大修館書店)』▽『登張正実訳『シェイクスピア』(『世界の名著38 ヘルダー他集』所収・1979・中央公論社)』▽『小栗浩・七字慶紀訳『人間性形成のための歴史哲学異説』(『世界の名著38 ヘルダー他集』所収・1979・中央公論社)』
ドイツの思想家,文学者。東プロイセンのモールンゲンに生まれ,極貧の少年期を経て,敬虔主義の影響を受ける。ケーニヒスベルク大学で医学,神学,哲学などを学び,カントとハーマンを師とする。1764年リガで教職につき,やがて牧師も兼ねる。この間に《近代ドイツ文学断想》(1767-68)により当代ドイツの文学が古典文学の模倣を超えて創造性を発揮しうる指針を示し,天才の覚醒を促した。《批評の森》(1769)では美学の人間学的根拠づけにも心をくだいた。69年にリガを去り,船でフランスへ行く。道中で記された《1769年のわが旅日記》は以後の思想的発展の萌芽を宿す。シュトラスブルク(現,ストラスブール)滞在中(1770-71)に若きゲーテに多大の影響を与え,シュトゥルム・ウント・ドラング運動の契機となる。71年からビュッケブルクで宮廷牧師を務め,この文学運動の綱領とされるオシアン論とシェークスピア論を73年に発表。76年ゲーテの仲介でワイマールの宮廷に移るが,ゲーテの古典主義を封建的現状に甘んじる諦念としてその民衆からの遊離を批判,晩年は孤立感を深め,同地に没した。
《言語起源論》(1772)では,言語の起源を人間の本質に求め,〈言語なくして理性なし,理性なくして言語なし〉と主張,言語を意識形成の媒体とするその言語哲学にはハーマンの影響がある。《人類形成への歴史の哲学》(1774)は,各時代,各民族の個性にそれぞれ独自の価値を認め,過去を当該の時代の諸条件から理解する歴史主義の先駆けとなる一方,過去は必然的に現在の視点から理解されているとの解釈学的認識をも示す。《人類の歴史哲学のための諸理念》(1784-91)では,人類史全体に神の作用を認めつつ,自然と歴史とを包括する発展の目標を人間性の形成にみる。人間を自己目的とするこのヒューマニズムは《人間性の促進のための書簡集》(1793-97)の基本思想となる。認識論ではカントに対抗し,《純粋理性批判のメタ批判》(1799)などで感覚的経験が悟性に先行することを強調。また,民衆の中に生きた伝承である民謡に文学の原点を求め,ヨーロッパ各地から収集,翻訳して《民謡集》(1778-79)を編んだ。
執筆者:高橋 輝暁
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1744~1803
ドイツの哲学者。啓蒙期の合理主義に反対して,宗教感情や民族性,風土性を強調した。詩は人間の持つ創造性の端的な所産であるとするが,個人の詩ではなく民謡こそ民族精神の表現であるとする。主著『人類史哲学の理念』(1784~91年)。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…しかし,古代のヘロドトスやストラボンから近世のボダンやモンテスキューに至るまで,土地柄を規定する主因として素朴に気候が取り上げられ,現代でも風土すなわち気候とみなされやすい。われわれを包みこむ全環境としての風土を包括的に体系化したのは,ヘルダーJ.G.Herderであった。彼は《歴史哲学の理念》(1784‐91)の中で,各場所の森羅万象が風土に即していることを強調し,〈土地の高低,その性質,その産物,飲食物,生活様式,労働,衣服,娯楽,技芸などのすべてが,風土の描きだしたもの〉とみ,〈人間にも,動物にも,植物にも,固有の風土があり,いずれもその風土の外的作用を特有の仕方で受けとめ,組織し,編みなおすものである〉と論じて,人間史の基礎に主体的な風土を位置づけた。…
…18世紀後半にスコットランドの詩人マクファーソンが英訳として《古歌の断章》(1760),《フィンガル》(1762),《テモラ》(1763)の3巻を出版したことによりヨーロッパ中に知られるようになった。北方の荒々しい自然を背景に繰り広げられる戦士たちの壮絶な死闘と,彼らを慕う娘たちの愛と死の歌物語は,フランスやイギリスのロマン主義運動に大きな影響を与えたが,ドイツではヘルダーの《オシアン書簡》(1773)によって真価が見いだされたあと,ゲーテの《若きウェルターの悩み》第2部の終りに,その一部がきわめて効果的な仕方で挿入されたことにより,不朽の生命を得ることになった。日本では,1971年の中村徳三郎訳によって作品の全貌が初めて明らかにされた。…
…レッシングらにおいて,人類史を開化に向けての人類の教育と見る考え,またビュフォンらにおいて人類をも一環とした,より包括的な自然の歴史,生命の歴史への関心が見られることは注目に値する。啓蒙の歴史哲学の普遍主義的な一面性は,ヘルダー以下ロマン主義以降の歴史主義の個性尊重の思潮の中で批判されることとなる。イギリス経験論自由思想家ロマン主義【坂部 恵】。…
…この言葉は,もともと,18世紀後半から19世紀にかけて,とくにドイツにおいてつくられたもので,〈民族精神Volksgeist〉という概念の形成と相関している。ヘルダーは,民族的な精神文化,とくに民俗的,地方的な言語や詩に深い関心を寄せるとともに,人類史を人間精神の完成に向かう普遍的歴史としてとらえる考え方を提示し,〈もろもろの時代の精神〉を示す〈諸民族の精神〉,〈諸民族の天才〉などの概念を用いた。さらに,ヘーゲルは,〈民族精神〉(近代国民国家の形成にともない〈国民精神〉ともなる)を,人類史(世界史)の発展の諸段階における普遍的な〈世界精神Weltgeist〉の顕現と考え,民族精神の歴史的,時代制約的性格を明確にした。…
…E.ヤングの感性的な個性の独創性を重視する天才論,ルソーの自然への復帰を唱える文明論などの影響を受け,シェークスピア,オシアンを文学上の模範とした。先駆者には,レッシング,クロプシュトック,ハーマンなどいるが,この運動の芸術的要請はJ.G.ヘルダーによって表現された。《近代ドイツ文学論》(1767),《1769年のわが旅の記》などであるが,彼の小冊子《ドイツの特性と芸術について》(1773)に載せたシェークスピア論と《オシアンと古代諸民族の歌謡について》は,この文学運動の出生証書とみなされている。…
… このように地球上にはかつて相対的に完結した複数の個別的世界が存在し,おのおの個別的世界史をなしたが,ルネサンス期の地理上の発見(大航海時代)によってヨーロッパ人は非ヨーロッパ世界のあることを発見し,その社会も文化もヨーロッパとちがうことに目を開いた。18世紀の啓蒙思想は神学からはなれて,人類や人間性の同一,その発展を信じてアジアからアメリカまで視野にとりこみ,ボルテールは一般史,チュルゴは普遍史,ヘルダーは人類史という名称を用い,理念的傾向が強かったとしても,世界史の本格的成立の基礎をつくった。ドイツ観念論哲学のなかでは,ヘーゲルは世界史は精神が自己の本質を知ろうとする表現で,精神の本性たる自由の発展を内容とすると考え,人間の自由という点からアジア世界,ギリシア世界,ローマ世界,ゲルマン世界をとりあげ,理念から歴史現実へ下降していった。…
…しかし,古代のヘロドトスやストラボンから近世のボダンやモンテスキューに至るまで,土地柄を規定する主因として素朴に気候が取り上げられ,現代でも風土すなわち気候とみなされやすい。われわれを包みこむ全環境としての風土を包括的に体系化したのは,ヘルダーJ.G.Herderであった。彼は《歴史哲学の理念》(1784‐91)の中で,各場所の森羅万象が風土に即していることを強調し,〈土地の高低,その性質,その産物,飲食物,生活様式,労働,衣服,娯楽,技芸などのすべてが,風土の描きだしたもの〉とみ,〈人間にも,動物にも,植物にも,固有の風土があり,いずれもその風土の外的作用を特有の仕方で受けとめ,組織し,編みなおすものである〉と論じて,人間史の基礎に主体的な風土を位置づけた。…
… 近世では兵士集団や下層民衆を指す蔑称として使われた。18世紀末ヘルダーはこの言葉に,啓蒙主義やフランス革命の理念で主張された普遍的市民観にたつ国民とは異なる,共通の言語を基礎に歴史的に生成した,特有の個性を持つ文化共同体,との内容を与え,現在の民族に近い語に昇格させた。同時に,ヘルダーは民族間の平等と,民族文化の担い手としての民衆を強調したため,この語は,外に対する区別に重点を置く民族・国民と,民衆・人民の二義性を内包することになり,ナショナリズム運動や後の政治的右翼勢力では前者の意味で,また民主主義者や社会主義者など左翼では後者の意味で使われるという,その後現在まで長く続く2系統の使い分けを生み出した。…
※「ヘルダー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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