イギリス出身の映画監督。1940年以降はおもにアメリカで活躍。スリラー、サスペンス映画では他の追随を許さぬ第一人者で、観客をはらはらさせながら自在にその気持ちを誘導する「ヒッチコック・タッチ」とよばれる話術で、世界の映画ファンを魅了した。
1899年8月13日ロンドン郊外に生まれる。ロンドン大学で美術を学び、タイトル書きなどを経て1925年監督になる。第三作で早くもスリラーの『下宿人』(1926)を発表、無実の罪を晴らそうとする男などの、後年再三描かれるモチーフをみせた。トーキー第一作『恐喝(ゆすり)』(1929)で声価を高め、一連のスパイもの『暗殺者の家』(1934)、『三十九夜』(1935)、『間諜(かんちょう)最後の日』(1936)、『バルカン超特急』(1938)などイギリスでの代表作を残して、1939年に渡米した。アメリカでの第一作『レベッカ』(1940)でアカデミー作品賞を受賞。『疑惑の影』(1943)などで名を高め、とくに『見知らぬ乗客』(1951)以後、『ダイヤルMを廻(まわ)せ!』『裏窓』(ともに1954)、『めまい』(1958)、『北北西に進路を取れ』(1959)、『サイコ』(1960)、『鳥』(1963)などの傑作群を生み、大ヒットさせた。
イングリッド・バーグマン、グレース・ケリーなどの美人女優とケーリー・グラント、ジェームズ・スチュアートなどの二枚目を使っての華麗なロマンスと、ワン・ショットでドラマを描こうとした『ロープ』(1948)にみられるような創意工夫、観客に想像をたくましくさせる巧みな描写、小道具を効果的に用いる演出などは、一般観客だけでなく、批評家時代のエリック・ロメール、フランソワ・トリュフォーらにより1950年代に高く評価され、その人気は以降衰えることがない。晩年『フレンジー』(1972)、『ファミリー・プロット』(1976)を撮り、1980年4月29日80歳で死去。テレビ映画のシリーズ『ヒッチコック劇場』(1955~1962)、『ヒッチコック・サスペンス』(1962~1965)は、彼自身のユーモラスな解説で親しまれ、また自作映画にほんのすこし姿を見せることでも知られる。
[出口丈人]
快楽の園 The Pleasure Garden(1925)
山鷲 The Mountain Eagle(1926)
下宿人 The Lodger : A Story of the London Fog(1926)
ふしだらな女 The Ring(1927)
リング The Ring(1927)
ダウンヒル Downhill(1927)
農夫の妻 The Farmer's Wife(1928)
シャンパーニュ Champagne(1928)
マンクスマン The Manxman(1929)
恐喝 Blackmail(1929)
ジュノーと孔雀 Juno and the Paycock(1929)
エルストリー・コーリング Elstree Calling(1930)
殺人! Murder!(1930)
スキン・ゲーム The Skin Game(1931)
リッチ・アンド・ストレンジ Rich and Strange(1931)
第十七番 Number Seventeen(1932)
暗殺者の家 The Man Who Knew Too Much(1934)
三十九夜 The 39 Steps(1935)
間諜最後の日 Secret Agent(1936)
サボタージュ Sabotage(1936)
第3逃亡者 Young and Innocent(1937)
バルカン超特急 The Lady Vanishes(1938)
巌窟の野獣 Jamaica Inn(1939)
レベッカ Rebecca(1940)
海外特派員 Foreign Correspondent(1940)
スミス夫妻 Mr. & Mrs. Smith(1941)
断崖 Suspicion(1941)
逃走迷路 Saboteur(1942)
疑惑の影 Shadow of a Doubt(1943)
マダガスカルの冒険 Aventure Malgache(1944)
闇の逃避行 Bon Voyage(1944)
救命艇 Lifeboat(1944)
白い恐怖 Spellbound(1945)
汚名 Notorious(1946)
パラダイン夫人の恋 The Paradine Case(1947)
ロープ Rope(1948)
山羊座のもとに Under Capricorn(1949)
舞台恐怖症 Stage Fright(1950)
見知らぬ乗客 Strangers on a Train(1951)
私は告白する I Confess(1953)
ダイヤルMを廻せ! Dial M for Murder(1954)
泥棒成金 To Catch a Thief(1954)
裏窓 Rear Window(1954)
ハリーの災難 The Trouble with Harry(1955)
知りすぎていた男 The Man Who Knew Too Much(1956)
間違えられた男 The Wrong Man(1956)
めまい Vertigo(1958)
北北西に進路を取れ North by Northwest(1959)
サイコ Psycho(1960)
鳥 The Birds(1963)
マーニー Marnie(1964)
引き裂かれたカーテン Torn Curtain(1966)
トパーズ Topaz(1969)
フレンジー Frenzy(1972)
ファミリー・プロット Family Plot(1976)
『ドナルド・スポトー著、勝矢桂子他訳『ヒッチコック――映画と生涯』上下(1988・早川書房)』▽『フランソワ・トリュフォー著、山田宏一・蓮實重彦訳『定本 映画術――ヒッチコック・トリュフォー』改訂版(1990・晶文社)』▽『ドナルド・スポトー著、関美冬訳『アート・オブ・ヒッチコック――53本の映画術』(1994・キネマ旬報社)』▽『スラヴォイ・ジジェク監修、露崎俊和他訳『ヒッチコックによるラカン――映画的欲望の経済(エコノミー)』(1994・リブロポート)』▽『ロバート・A・ハリス他著、日笠千晶訳『アルフレッド・ヒッチコック――サスペンスの魔術師』(1995・シンコー・ミュージック)』▽『アルフレッド・ヒッチコック著、鈴木圭介訳『ヒッチコック映画自身』(1999・筑摩書房)』▽『『Hitch ; The Art of Suspense――アルフレッド・ヒッチコックの世界』(2000・ネコ・パブリッシング)』▽『筈見有弘著『ヒッチコック』(講談社現代新書)』
イギリスおよびアメリカの映画監督。〈スリラーの神さま〉〈サスペンスの巨匠〉と呼ばれた。ロンドン郊外に生まれ,厳格なカトリックの環境で育った。広告デザインの仕事から,1920年,サイレント映画の字幕のデザイナーとして映画界入り。助監督,美術,脚本の仕事をへて,監督に昇進。英独合作の《快楽の園》(1925)が初の監督作品だが,ヒッチコック自身は,第3作のサスペンス・ドラマ《下宿人》(1926)を〈真の処女作〉と考えている。1925年から39年までのイギリス時代に23本の映画をつくったが,そのなかで《暗殺者の家》(1934)がイギリス内外でヒットし,つづく《三十九夜》(1935)がさらに好評を得て〈スリラーの名匠〉として国際的に認められた。《バルカン超特急》(1938)でニューヨーク映画批評家協会の監督賞を受賞し,ハリウッドのプロデューサー,デビッド・O.セルズニックに招かれてアメリカに渡り,ハリウッドで撮った最初の作品《レベッカ》(1940)がアカデミー作品賞を受賞し,監督賞にもノミネートされた。以後,年1本のペースで恐怖とサスペンスにみちた〈ヒッチコック映画〉を撮りつづける。
ヒッチコックを世界最高の映画監督と評価し,ヒッチコック映画の神髄を究明した名著《映画術 ヒッチコック/トリュフォー》(1966)を出したフランスの映画監督フランソワ・トリュフォーによれば,〈ヒッチコック映画〉には《疑惑の影》(1943),《舞台恐怖症》(1950),《ダイヤルMを廻せ!》(1954),《サイコ》(1960)など殺人犯の末路を描いた系列と,《三十九夜》(1935),《私は告白する》(1952),《間違えられた男》(1957),《北北西に進路を取れ》(1959)など無実の罪で追われる人間の苦闘を描いた系列があり,そのほか《裏窓》(1954),《めまい》(1958),《鳥》(1963)などによって,それまで二流の映画のジャンルとみなされていたスリラー映画を〈もっとも映画的な〉ジャンルとしての高みにまでもち上げた。フランスの〈ヌーベル・バーグ〉世代にはとくに大きな影響をあたえたことは,トリュフォーをはじめクロード・シャブロルやエリック・ロメールといった監督が何よりもまずヒッチコック研究家であったことからもうかがえる。《ファミリー・プロット》(1976)を最後に53本の劇場用長編映画を残し,またテレビ映画シリーズ《ヒッチコック劇場》(1955-62),《ヒッチコック・サスペンス》(1962-65)も知られている。68年にアカデミー特別賞のアービング・タルバーグ賞,69年にフランス芸術文化勲章,79年にアメリカ映画協会の功労賞とイギリスのナイトの称号を贈られた。
→スリラー映画
執筆者:柏倉 昌美
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…いずれにしても,怪奇映画は50年代のSF映画の台頭につれて影を潜めるが,これは,放射能や科学実験による突然変異としての生物の巨大化(《放射能X》1953,《ハエ男の恐怖》1958,など)や,人間が縮小したため相対的に生物の巨大化と同じパニックに陥る(《縮みゆく人間》1957)といった設定で,つまりはSFがモンスターの肩代りをしたともいえる。
[1960年代以降]
60年代は,毒々しい色彩効果によるエロティシズムとサディズムを加味したイギリスのハマー・プロ作品(テレンス・フィッシャー監督,クリストファー・リー,ピーター・カッシング主演《吸血鬼ドラキュラ》1958,等々)と,一連の〈エドガー・アラン・ポー物〉によって,異常心理がらみの幻想劇という独自のイメージを繰り広げたアメリカのAIP作品(ロジャー・コーマン監督,ビンセント・プライス主演《アッシャー家の惨劇》1960,等々)が活況を呈する一方,フランスではジョルジュ・フランジュ監督《顔のない眼》(1960),ロジェ・バディム監督《血とバラ》(1960)といったポエティックな怪奇幻想の心理劇がつくられたが,もっとも注目すべきはヒッチコックの《サイコ》(1960)という真にエポックを画する恐怖映画が生まれたことで,以後の怪奇,SF,恐怖映画のジャンルは,すべて〈サイコ以後〉の名でくくることも可能なくらい決定的に《サイコ》の,ヒッチコックの影響を受けることになる。ウィリアム・キャッスル監督《第三の犯罪》(1961),《血だらけの惨劇》(1964),ロバート・アルドリッチ監督《何がジェーンに起ったか?》(1962)から1970‐80年代の〈モダン・ホラー・ムービー〉(怪奇的なムードで話を運び,結末のどんでん返しを利かせたものが多い)に至るまで,そうである。…
…1960年製作のアメリカ映画。アルフレッド・ヒッチコックが《北北西に進路を取れ》(1959)と《鳥》(1963)の間につくった作品。三面記事的な実話をもとにして書かれたロバート・ブロックの小説が原作で,10年前に母とその愛人を殺害し,母の死体を墓から掘り出して死体といっしょに暮らしている息子の,〈異常心理〉による殺人事件を描いた白黒の〈スリラー映画〉,もしくは〈ショッカーshocker映画〉である。…
…〈犯罪映画crime movie〉〈暗黒映画black cinema〉〈私立探偵映画private eye film(shamus film)〉ともよばれたが,映画のジャンルとしては〈スリラー映画〉が一般的呼称になった。 古くはD.W.グリフィスの《東への道》(1920)や《嵐の孤児》(1922)のクライマックスでサスペンスが意図され,またドイツの表現主義映画《カリガリ博士》(1919)には,すでにスリラー映画の要素があると指摘する映画史家もいて,最初につくられたスリラー映画を追跡するのはイギリスの最初の民謡を追跡するようなものであるといわれるが,〈スリラーの開祖〉として知られるのはアルフレッド・ヒッチコック監督で,有名な〈切り裂きジャック〉事件をモデルにしたベロック・ローンズの小説を下宿屋の女主人の視点だけにしぼって映画化したイギリス時代のサイレント作品《下宿人》(1926)がその最初の〈スリラー映画〉である。次いでヒッチコックは,スリラー映画の原型となる《三十九夜》(1935)をつくり,またハリウッドへ渡って《レベッカ》(1940),《断崖》(1941),《疑惑の影》(1943)でスリラー映画流行のきっかけをつくった。…
…最後の作品は《日曜日が待ち遠しい》(1983)。著書に,尊敬する映画作家アルフレッド・ヒッチコックへのインタビューによる研究《映画術 ヒッチコック/トリュフォー》(1966),映画批評集《映画の夢,夢の批評》《わが人生 わが映画》などがある。【宇田川 幸洋】。…
…1959年製作のアメリカ映画。アルフレッド・ヒッチコック監督作品。1人の人間がある日突然自分のあずかり知らぬ不可解な事件に巻きこまれてしまうというヒッチコックのサスペンス映画のパターンが,アクション映画の基本的な型の一つである〈追っかけ〉の極致に達した一編。…
※「ヒッチコック」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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