マーティン(読み)まーてぃん(英語表記)Paul Martin

日本大百科全書(ニッポニカ) 「マーティン」の意味・わかりやすい解説

マーティン(Paul Martin)
まーてぃん
Paul Martin
(1938― )

カナダの実業家、政治家。カナダの累積債務削減の立役者。五大湖とハドソン湾に挟まれたオンタリオ州ウィンザーに生まれる。父は下院議員を33年、閣僚を四度務めた有力政治家であった。トロント大学で哲学と歴史を学んだ後、同大法科大学院を経て弁護士資格を取得、実業界入りした。カナダ電力公社役員や、国内海運大手カナダ汽船(CSL)の最高経営責任者に就任。その後、親会社がCSLの売却を発表したため、買い取った。

 1988年、50歳で連邦下院議員に当選し、政界入り。1993年、自由党のクレティエン政権下で財務相に任命され、国防支出や地方への補助金を削減、5期連続で財政黒字を達成した。評価が高まるにつれ、党首クレティエンとの主導権争いが本格化、2002年6月に財務相を解任される。しかし、この解任劇でクレティエンが逆に支持を失って退任を表明したため、2003年11月の自由党党首選挙で新党首に、翌12月には首相に就任した。2004年6月の総選挙では、自由党が議席を減らしたものの第一党の座を維持し、首相続投を果たしたが、政府広報費の不適切な支出等を理由として保守党が提出した内閣不信任案が2005年11月に可決され、翌2006年1月の下院解散に伴う総選挙で、ハーパーの率いる保守党に敗れた。

 カナダはクレティエン政権下で、アメリカのブッシュ政権が遂行したイラク戦争に反対し、対米関係が悪化したが、マーティン政権も、アメリカが求めたミサイル防衛計画(MD)への参加を拒否し、外交・軍事分野で南隣の超大国と一線を画す決断を下した。

[宮明 敬]


マーティン(John Martin)
まーてぃん

マーチン


マーティン(Kenneth Martin)
まーてぃん

マーチン


マーティン(Archer John Porter Martin)
まーてぃん

マーチン


マーティン(Dean Martin)
まーてぃん

マーチン

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マーティン」の意味・わかりやすい解説

マーティン
Martin, Steve

[生]1945.8.14. テキサス,ウェイコ
アメリカ合衆国の喜劇俳優,作家,プロデューサー。スタンダップ・コメディアンとして出発したのち,映画,テレビ,ブロードウェーなどで次々と成功を収めた。カリフォルニア州立大学に入学後,ディズニーランドでミュージシャンやマジシャンとして働くうちに,人前で演じる楽しさに目ざめる。ナイトクラブでバンジョー弾き語りスタイルのコメディを始め,まもなくカリフォルニア大学ロサンゼルス校 UCLAに移って演劇を専攻。在学中の 1967年,人気テレビ番組 "The Smothers Brothers Comedy Hour"の放送作家となり,1969年エミー賞を受賞する。1976年,NBCのバラエティ番組『サタデー・ナイト・ライブ』Saturday Night Liveへの出演を機に人気が沸騰し,数ヵ月でトップコメディアンとなる。1977年,みずから脚本を手がけた作品で映画デビュー。これ以後,脚本・監督・俳優を務めるカール・ライナーと長年にわたってコンビを組むようになり,『天国から落ちた男』The Jerk(1979)などのヒットコメディを世に送り出した。その後は,批評家受けするが一般受けしない作品に意欲的に取り組む一方で,『リトルショップ・オブ・ホラーズ』Little Shop of Horrors(1986)や『バックマン家の人々』Parenthood(1989)などの娯楽作で人気を維持した。劇作家としても活動し,"Picasso at the Lapin Agile"(1993初演)などのヒット作を手がけている。

マーティン
Martin, Paul

[生]1938.8.28. ウィンザー
カナダの政治家。首相(在任 2003~06)。フルネーム Paul Edgar Philippe Martin, Jr.。父は自由党所属の有力政治家だった。トロント大学で学び,1964年同大学ロースクールを修了。1966年に弁護士資格を取得したが弁護士業にはつかず,モントリオールのカナダ汽船に入社。国内貨物輸送業者だった同社を強大な多国籍企業に育て上げ,1981年に買収した。1988年自由党から立候補して下院議員に当選,1990年自由党党首選挙でジャン・クレティエンに敗れた。1993年選挙で自由党が圧勝してクレティエン政権が発足し,財務大臣に任命されると卓越した手腕を発揮。財政赤字を大幅に縮小させ,5期連続で財政黒字を達成するとともにカナダ史上最大の減税を実現した。クレティエン政権の主要閣僚として頭角を現したが,2002年財務相を解任された。翌 2003年クレティエンの辞意表明をうけて行なわれた党首選挙で勝利し,首相の座についた。2004年の選挙で自由党は 4期連続勝利を果たしたが,過半数に届かず少数政権党に転落した。2005年に政権の汚職疑惑を理由に内閣不信任案が下院で可決され,下院を解散して選挙を実施したが,自由党は敗北を喫した。同 2005年首相兼党首の座をおりた。

マーティン
Martin, Archer John Porter

[生]1910.3.1. ロンドン
[没]2002.7.28. ヘレフォード・ウースター,ランガロン
イギリスの生化学者。ケンブリッジ大学を卒業 (1932) ,1933年よりダン栄養研究所でビタミンEの研究,1938年よりリーズの羊毛調査協会でフェルトの研究に従事。ブーツ製薬会社生化学部長 (1946) ,国立医学研究所所員 (1948) ,同生化学部長,アボッツベリー研究所所長 (1959) を歴任。化学,生物学,医学に画期的な新技術を開拓した溶液の内容分割のためのガスクロマトグラフィーペーパークロマトグラフィーなどによる色層分析法を創始し,1952年同僚の R.L.M.シングとともにノーベル化学賞を受賞した。

マーティン
Martin, Luther

[生]1748頃.ニューブルンスウィック
[没]1826.7.10. ニューヨーク
アメリカの法律家。 1787年の憲法制定会議議員の一員。熱心な連邦主義者であり,T.ジェファーソンの州権思想と対立。 71年バージニアで弁護士となり,その後メリーランドに移り,78~1805年および 18~22年メリーランドの司法長官となった。ジェファーソン大統領時代の2つの有名な事件,すなわちチェーズ裁判官の弾劾事件とアーロン・バーの反逆罪事件において被告側弁護を指導した。その他合衆国形成期の重要な憲法訴訟多数に関係した。最も有名なのは連邦機関に対する州課税権の有無が争われたマカロック対メリーランド事件 (1819) である。この事件では連邦主義を捨て,州権を擁護したが,敗訴した。

マーティン
Martin, John

[生]1789.7.19. ノーサンバーランド,ヘイドン
[没]1854.2.9/17. ダグラス
イギリスの画家,版画家。 1806年ロンドンに出て大規模な構図の風景画および聖書や歴史に取材した版画,水彩画,油絵を数多く制作。作品は特にフランスで人気を博し,29年にシャルル 10世から金メダルを受け,また C.サント=ブーブや V.ユゴーらの文学者に好まれた。主要作品は『ソドムとゴモラの滅亡』 (1852,ニューカッスル,レイング・アート・ギャラリー) ,ミルトンの『失楽園』のメゾチント版挿絵。

マーティン
Martin, Homer Dodge

[生]1836.10.28. オールバニ
[没]1897.2.12. セントポール
アメリカの風景画家。 J.ハートに師事し,1874年国立デザイン・アカデミー会員。 76年にヨーロッパに行き,コロー,バルビゾン派の作品に感銘する。 77年アメリカ芸術家協会の創立委員として活躍。初期の作品にはハドソン川派の影響がみられるが,その後フランスのバルビゾン派の影響を受け,風景画家として独自の作風を確立した。しかし失明のため失意のうちに晩年をおくった。主要作品『ウェストチェスター丘陵』『風のハープ』。

マーティン
Martin, Glenn Luther

[生]1886.1.17. アイオワ,マックスバーグ
[没]1955.12.4. メリーランド,ボルティモア
アメリカの飛行機設計・製作家,飛行家。 1907年にグライダーを製作。 09年に教会の廃屋を利用してアメリカ最初の飛行機工場を設立。軍用機の設計,製作を行う一方,曲芸飛行士としても名をあげた。 18~19年にはアメリカ陸軍のためにマーティン爆撃機を設計。 29年ボルティモア付近に新工場を設置し,グレン・L.マーティン会社を設立した。彼の設計した爆撃機,飛行艇は第2次世界大戦で活躍したほか,大型旅客機も設計した。晩年は工学教育や自然保護に寄金し,その発展を援助した。

マーティン
Martin, William Alexander

[生]1827.4.10.
[没]1916.12.17.
アメリカの長老派宣教師。 1850年に宣教師として中国に渡って以来,各地で伝道に努め,また同文館校長 (1869~94) ,北京大学総長 (98~1900) ,清国政府顧問などの要職についた。彼の法律や経済についての英文および漢文の著書 (『万国公法』『富国策』など) は日本の近代化に貢献し,主著『天道溯源』は中国人のために書かれた伝道の書であるが,日本のキリスト教の普及にも寄与した。

マーティン
Martin, Mary

[生]1913.12.1. テキサス,ウェザーフォード
[没]1990.11.3. カリフォルニア,ランチョミラージュ
アメリカの歌手,ミュージカル女優。 1938年にブロードウェーのミュージカル『リーブ・イット・トゥー・ミー』でデビュー。映画に主演したのち,42年ブロードウェーに戻り,『南太平洋』 (1949) ,『サウンド・オブ・ミュージック』 (59) ,『ハロー・ドリー』 (65) などに主演し,3度トニー賞を受けた。

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改訂新版 世界大百科事典 「マーティン」の意味・わかりやすい解説

マーティン
John Martin
生没年:1789-1854

イギリス・ロマン派の代表的画家。ノーサンバーランドのヘイドン・ブリッジに生まれ,1806年以降ロンドンで活動。〈ソドムとゴモラの壊滅〉や〈バビロンの崩壊〉など黙示録的情景や,宇宙的規模の幻想,また奇怪なたたずまいの自然の中に展開する文学的主題を,その壮大さや荒涼たる雰囲気を誇張して大画面に描くことを得意とした。このような美意識は,当時のヨーロッパで流行していた〈崇高the sublime〉の美学的観念に合致するものとしてもてはやされ,その作品は国内のみならず,V.ユゴー,T.ゴーティエ,J.ミシュレなど,フランス・ロマン派作家たちの想像力を刺激した。しかし,あまりに文学的な質をもつ彼の芸術はかえって,J.コンスタブル,J.M.W.ターナーらが風景画における近代を構築しつつあったイギリス絵画史に対しては影響力をもちえず,没後は一時忘れられた形であった。しかし,近年再びその終末的危機感みなぎる絵画が見直されている。
執筆者:


マーティン
William Alexander Persons Martin
生没年:1827-1916

アメリカの宣教師,教育家。中国名は丁韓良。22歳で中国へ伝道に赴くが,教育によって官僚制内部に地歩を築くことにより伝道の基礎とするというイエズス会型の方針を抱くにいたる。1858年(咸豊8)の米中条約に通訳として貢献した功により,条約にキリスト教自由条項を加えることに成功する。中国の洋務運動に協力して法律・科学書の翻訳につとめる。ホイートンの国際法に関する著書を訳した《万国公法》は,もっとも大きな影響力をもち,中国のみならず広く幕末・維新の日本でも読まれた。
執筆者:

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「マーティン」の解説

マーティン Martin, William Alexander Parsons

1827-1916 アメリカの宣教師。
1827年4月10日生まれ。アメリカ長老派。1850年清(しん)(中国)にわたり,布教とともに教育・外交面で活躍。「万国公法」「格物入門」「天道溯原(そげん)」など中国語の著作をあらわし,日本でもひろく読まれた。1916年12月17日北京で死去。89歳。インディアナ州出身。中国名は丁韙良(てい-いりょう)。

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百科事典マイペディア 「マーティン」の意味・わかりやすい解説

マーティン

英国の化学者。ケンブリッジ大学で学び,ロンドンの医学研究所教授(1948年―1959年)などを歴任。M.ツベットのクロマトグラフィーと溶媒分配を合わせて分配クロマトグラフィーを創始,1944年ペーパークロマトグラフィーを完成し,複雑な有機化合物の分析,特にアミノ酸の微量分析に応用。1952年共同研究者のR.L.M.シングとともにノーベル化学賞。

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世界大百科事典(旧版)内のマーティンの言及

【イギリス美術】より

…ラファエル前派のロマン主義的自然主義に対し,フランス印象派により近い様式を代表するのが,J.A.M.ホイッスラーとJ.S.サージェントの2人のアメリカ人,それにスティーアPhilip Wilson Steer(1860‐1942)らである。なお,ラファエル前派に先立って活躍したJ.マーティンは壮大な文学的テーマを想像力を駆使しながら描いた特異な画家であり,世紀末のA.ビアズリーはもっぱらデッサン家,イラストレーターとして活躍した。後者はイギリスのアール・ヌーボーの代表者の一人で,その病的なまでに繊細で装飾的な線描は,デカダンスと唯美主義的な傾向をよく反映している。…

【格物致知】より

…のちに,博物学は格致と呼ばれるようになり(清代に《格致鏡原》という本が編まれている),19世紀後半,欧米の科学技術が中国に入ってきたとき,科学にもまた格致や格物という語があてられ,軍艦や鉄砲などの生産技術は伎芸や製造と呼ばれた。また,アメリカのW.A.P.マーティンは,丁韙良(ていいりよう)という中国名で自然科学の概説書《格物入門》(1868)をあらわしたし,中国における最初の理科専門学校の名は格致書院(1875創設)であった。日本では格物・格致より窮理の語が用いられたようである(帆足万里《窮理通》など)。…

【洋務運動】より

… 洋務の推進は,まず清朝政府が1861年(咸豊11),北京に総理衙門(そうりがもん)を設立したことに始まる。翌年そこに外国語学校である同文館が付設され,アメリカ人宣教師マーティンW.Martin(中国名は丁韙良)が校長として招かれた。主に八旗の子弟を,後には漢人も入学させた。…

※「マーティン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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