トリュフォー(読み)とりゅふぉー(英語表記)François Truffaut

日本大百科全書(ニッポニカ) 「トリュフォー」の意味・わかりやすい解説

トリュフォー
とりゅふぉー
François Truffaut
(1932―1984)

フランスの映画監督。2月6日パリに生まれる。少年時代から映画を愛好し、映画批評家アンドレ・バザン知己を得て、兵役を終えると映画雑誌などに筆をとりながら短編映画の製作を始めた。少年時代の体験に基づく自伝的な長編第一作『大人は判(わか)ってくれない』(1959)、ついでスリラーもののパロディーピアニストを撃て』(1960)、恋愛ものの傑作『突然炎のごとく』(1962)と発表ヌーベル・バーグのもっとも個性的な作家の一人となった。デビュー作とともに少年ドワネルの成長を追う四部作『二十歳の恋』(1962)、『夜霧の恋人たち』(1968)、『家庭』(1970)のほか、作品は多彩で、『華氏451』(1966)、『黒衣の花嫁』(1968)、『恋のエチュード』(1971)、『映画に愛をこめて アメリカの夜』(1973)、『アデルの恋の物語』(1975)、『トリュフォー思春期』(1976)、『緑色の部屋』(1978)、『終電車』(1980)などがある。また俳優として自作野性の少年』(1969)などに出演したほかアメリカ映画『未知との遭遇』(1977)にも出演、1962年には傾倒するヒッチコック監督に延べ50時間に及ぶインタビューを行って対談集『アルフレッド・ヒッチコックによる映画』(1966)を発表、貴重な記録になっている。1984年10月21日癌(がん)のため死去。

[村山匡一郎]

資料 監督作品一覧

あこがれ Les Mistons(1957)
水の話 Une histoire d'eau(1958)
大人は判ってくれない Les quatre cents coups(1959)
ピアニストを撃て Tirez sur le pianiste(1960)
突然炎のごとく Jules et Jim(1962)
二十歳の恋~「アントワーヌとコレット」L'Amour à vingt ans - Antoine et Colette(1962)
柔らかい肌 La peau douce(1964)
華氏451  Fahrenheit 451(1966)
黒衣の花嫁 La mariée était en noir(1968)
夜霧の恋人たち Baisers volés(1968)
暗くなるまでこの恋を La Sirène du Mississipi(1969)
野性の少年 L'enfant sauvage(1969)
家庭 Domicile conjugal(1970)
恋のエチュード Les deux Anglaises et le continent(1971)
私のように美しい娘 Une belle fille comme moi(1972)
映画に愛をこめて アメリカの夜 La nuit américaine(1973)
アデルの恋の物語 L'histoire d'Adèle H.(1975)
トリュフォーの思春期 L'argent de poche(1976)
恋愛日記 L'homme qui aimait les femmes(1977)
緑色の部屋 La chambre verte(1978)
逃げ去る恋 L'amour en fuite(1978)
終電車 Le dernier métro(1980)
隣の女 La femme d'à côté(1981)
日曜日が待ち遠しい! Vivement dimanche!(1982)

『トリュフォー著、山田宏一・蓮實重彦訳『わが人生・わが映画』『映画の夢・夢の批評』(1979・たざわ書房)』『山田宏一・蓮實重彦著『トリュフォーそして映画』(1980・話の特集)』『トリュフォー著、山田宏一・蓮實重彦訳『映画術 ヒッチコック』(1981・晶文社)』『山田宏一著『トリュフォー ある映画的人生』(1991・平凡社)』『山田宏一著『フランソワ・トリュフォー映画読本』(2003・平凡社)』『山田宏一著『トリュフォーの手紙』(2012・平凡社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「トリュフォー」の意味・わかりやすい解説

トリュフォー
Truffaut, François

[生]1932.2.6. パリ
[没]1984.10.21. ヌイイシュルセーヌ
フランスの映画監督,映画評論家。生後まもなく両親が離婚し,叔母のもとで育つ。初等教育を終えると工場で働き始めるが長続きせず職を転々とする。少年時代から映画を愛好し,15歳のときにシネクラブを主催,映画評論家アンドレ・バザンと出会う。兵役後の 1950年頃からバザンの紹介で『カイエ・デュ・シネマ』『アール』誌の映画欄を担当。フランス映画の巨匠たちを辛辣に批評し「フランス映画の墓堀人」とあだ名される。この頃から映画制作に乗リ出し,1954年に 16mm短編『ある訪問』Une visiteを監督。1956年にはロベルト・ロッセリーニの助手を務め,1957年制作会社レ・フィルム・デュ・キャロッスを設立し,初の 35mm短編『あこがれ』Les mistons(1958)を発表。1959年には少年時代の体験に基づく自伝的初長編『大人は判ってくれない』 Les Quatre Cents Coupsでカンヌ国際映画祭監督賞を受賞。ジャン=リュック・ゴダールと並んでヌーベルバーグの寵児となる。次作の『突然炎のごとく ジュールとジム』Jules et Jim(1962)以降はほぼ 1年に 1作のペースで作品を発表し,国際的な名声を不動のものとする。ほかに『二十歳の恋』Antoine et Colette(1962),『夜霧の恋人たち』Baisers volés(1968),『家庭』 Domicile conjugale(1970),『逃げ去る恋』L'Amour en Fuite(1978)などの『大人は判ってくれない』の少年ドワネルの成長を追うシリーズ,『アメリカの夜』La nuit Américaine(1973。アカデミー賞外国語映画賞),『トリュフォーの思春期』L'Argent de poche(1976),『日曜日が待ち遠しい!』Vivement dimanche(1982)など。著書に尊敬する映画監督アルフレッド・ジョーゼフ・ヒッチコックへのインタビューをまとめた『映画術』 Le cinéma selon Alfred Hitchcock(1966)がある。また俳優としてスティーブン・スピルバーグ監督の『未知との遭遇』Close Encounters of the Third Kind(1977)などにも出演している。

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