バリー(読み)ばりー(英語表記)Sir James Matthew Barrie

デジタル大辞泉 「バリー」の意味・読み・例文・類語

バリー(James Matthew Barrie)

[1860~1937]英国の劇作家・小説家。幻想と現実とを織り交ぜた、風刺・ユーモアに富む喜劇で知られる。戯曲「あっぱれクライトン」「ピーター=パン」など。

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精選版 日本国語大辞典 「バリー」の意味・読み・例文・類語

バリー

  1. [ 一 ] ( Sir James Matthew Barrie サー=ジェームズ=マシュー━ ) イギリスの劇作家、小説家。都会的な機知と感傷、軽妙な風刺のいりまじる喜劇を書いた。代表作、戯曲「あっぱれクライトン」「ピーター=パン」など。(一八六〇‐一九三七
  2. [ 二 ] ( Philip Barry フィリップ━ ) アメリカの劇作家。しゃれた会話のサロン風喜劇を得意とした。代表作「フィラデルフィア物語」。(一八九六━一九四九

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「バリー」の意味・わかりやすい解説

バリー(John Barry)
ばりー
John Barry
(1933―2011)

イギリスの映画音楽作曲家、指揮者、アレンジャートランペット奏者。本名ジョナサン・バリー・プレンダーギャストJonathan Barry Prendergast。『007』シリーズの音楽で知られる。父親が映画館主、母親がピアニストという環境のもと、ヨークに生まれる。映画と音楽に囲まれた少年時代を過ごす。地元の教会の聖歌隊長に作曲とピアノを師事、アレンジに興味をもつが、映画『楽聖ショパン』(1944)に感銘を受け、映画音楽に関心を寄せる。10代なかばまで家業の映画館で働きながら地元のバンドでトランペットを演奏。音楽学校を中退した後、18歳で陸軍に入隊。軍楽隊のアレンジを手がけながら腕を磨き、同時にジャズ・アレンジャーとして評価の高かったビル・ルッソBill Russo(1928―2003)の通信教育講座で編曲を学んだ。除隊後の1957年、軍楽隊の仲間とともにジャズ・ロック・バンド、ジョン・バリー・セブンを結成。いくつかのテレビ番組出演を果たした後、イギリスEMI傘下のパルラフォン・レーベルと専属契約。1958年から新人歌手アダム・フェイスAdam Faith(1940―2003)の伴奏を担当。フェイスの人気上昇とともに活動の場を広げていった。フェイスの初主演映画『狂っちゃいねえぜ』(1960)で初めて映画音楽を担当。1962年までEMIのアレンジャーとしても精力的な活動を行う。1962年、『007/ドクター・ノオ』(1962)の音楽担当を降板させられたモンティ・ノーマンMonty Norman(1928―2022)の後を引き継ぎ、ノーマン作曲の同作のテーマ曲(「ジェームズ・ボンドのテーマ」)をアレンジ、これが世界的大ヒットとなった。続く『007/ロシアより愛をこめて』(1963)から『007/リビング・デイライツ』(1987)まで、計11作の『007』シリーズを手がけて名声を不動のものとした。

 『ナック』(1965)あたりまでのバリーの映画音楽はエレクトリック・ギター、木管、マレット楽器(木琴やビブラフォンなど、音板を撥(ばち)で叩く楽器の総称)などのソロを巧みに生かしたクールなジャズ・サウンドを持ち味としていたが、アカデミー最優秀作曲賞および同主題歌賞に輝いた『野生のエルザ』(1966)から饒舌(じょうぜつ)なストリングスを中心に据えたアレンジを好むようになる。ふたたびアカデミー賞に輝いた『冬のライオン』(1968)で教会旋法を独自にアレンジしたスコアを披露、クラシック音楽への造詣(ぞうけい)の深さを示した。このほか『国際諜報員(ちょうほういん)』(1965)、『真夜中のカーボーイ』(1969)などに、楽器固有の音色を生かしながらハーモニーを印象深く響かせる、バリー独特の手法の好例を聴くことができる。1970年代以降はオーケストラの客演指揮者としての活動が増えたせいもあり、作風は一層クラシカルなものに傾いていった。『レイズ・ザ・タイタニック』と『ある日どこかで』(ともに1980)で伝統的なオーケストラを用いたスコアは、バリーがイギリス・クラシック音楽の正当な嫡子(ちゃくし)であることをみごとに物語っている。

 こうしたロマンティシズム溢(あふ)れる映画音楽作品を発表する一方、1980年代には『白いドレスの女』(1981)、『コットンクラブ』(1984)で自らのルーツであるジャズを再検証する興味深い仕事を手がけた。その後、陶酔的な弦楽セクションと雄大なホルンの響きを前面に出した『愛と哀しみの果て』(1985)と『ダンス・ウィズ・ウルブズ』(1990)でアカデミー最優秀作曲賞を受賞し、後期ロマン派の音楽スタイルをそのまま踏襲したバリーの作風を、広く一般に印象づけた。

 1988年に重傷を負ったため再起が危ぶまれたが、映画音楽作曲の本数は確実に減ったものの、1990年代も1年に約1本のペースで仕事をこなしていた。1975年(昭和50)に来日。

[前島秀国]

『Eddi FilegelJohn Barry; A Sixties Theme (1998, Constable and Company , London)』『Geoff Leonard, Pete Walker, Gareth BramleyJohn Barry; A life in Music(1998, Sansom, Bristol)』


バリー(Sir James Matthew Barrie)
ばりー
Sir James Matthew Barrie
(1860―1937)

イギリスの劇作家。スコットランド出身。ジャーナリスト、小説家を経て劇作家となり、感傷的な男女の喜劇『お屋敷町』(1901)、風刺と皮肉の喜劇『あっぱれクライトン』(1902)をはじめ、『女なら誰(だれ)でも知っていること』(1908)、『12ポンドの目』(1910)などで人気を博した。しかし彼の名を世界的にしたのは『ピーター・パン』(1904)で、この幻想的なおとぎ劇の傑作は今日でも少年少女を喜ばせ、イギリスではクリスマスの季節に欠かせない景物の一つである。『ピーターとウェンディ』(1911)はその小説版である。

[冨原芳彰]


バリー(Sir Charles Barry)
ばりー
Sir Charles Barry
(1795―1860)

イギリスの建築家。ロンドンに生まれ、同地に没。1817年から3年間にわたってギリシア、イタリア、中近東を旅行したのち、ブライトンのセント・ピーター教会堂(1817~20)をゴシック様式で建て、続いてマンチェスターの王立美術協会(1824~35)を古典主義様式で設計した。しかし、彼本来の嗜好(しこう)は、むしろイタリア・ルネサンス様式にあり、ロンドンの旅行者クラブ(1829~31)やリフォーム・クラブ(1837~41)はこの様式で建てられている。彼はロンドンの個人的な邸宅も手がけたが、なかでもブリッジウォーター・ハウス(1847)がとりわけ優れている。34年に焼失した国会議事堂の再建設計競技(1836)では、ピュージンの協力を得てみごと一等に入選。これが彼の代表作となった(1836~60)。しかし真の設計者をめぐって論議が沸き、現在では全体の構想はバリーのもの、内装や外観にみられるゴシック様式の細部はピュージンのものと考えられている。

[谷田博行]


バリー(Antoine Louis Barye)
ばりー
Antoine Louis Barye
(1796―1875)

フランスの彫刻家。パリに生まれ、同地に没。金工家の父と彫刻家ボジオに師事し、のちグロに絵画を学ぶ。ローマ賞受賞に失敗後は動物彫刻に専念し、1831年サロン出品の『鰐(わに)を襲う虎(とら)』、33年の『蛇を押しつぶすライオン』(ともにルーブル美術館)によって、ロマン派からの賞賛とともに、アカデミックな彫刻家からの反感をも得ている。このため37年のサロンに落選、以後48年まで不出品。のち、彼はルーブルの鋳造品販売部長、自然博物館の素描講師、万国博覧会の審査員などに任じられた。動物の激しい動きと生命力の把握は、ロマン主義の典型的な側面であり、また近代彫刻への第一歩でもあった。ルーブルのドノン門およびリシュリュー門の群像彫刻も彼の手になる。

[中山公男]


バリー(Philip Barry)
ばりー
Philip Barry
(1896―1949)

アメリカの劇作家。1920~30年代を中心に軽い笑劇から宗教色の濃い重い劇まで多数の戯曲を発表した。だが主題は一貫して愛と死と個人の生命力について追究。深刻な意欲作『道化たちがやって来る』(1938)なども評価されているが、どちらかというと都会的センスにあふれた喜劇に本領が発揮され、代表作『ホリデー』(1928)、『フィラデルフィア物語』(1939)など今日も新鮮な魅力をもつ。

[楠原偕子]

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改訂新版 世界大百科事典 「バリー」の意味・わかりやすい解説

バリー
James Matthew Barrie
生没年:1860-1937

イギリスの劇作家,小説家。スコットランドに生まれ,ジャーナリストとなってロンドンに出る。1880年代初めから戯曲や小説を書き始めたが,当初はあまり成功せず,やがてみずからの少年時代を素材にした感傷的な小説によって注目されるようになった。しかし90年代末ごろからは主として劇作を仕事とし,自作の小説を脚色した《ピーター・パン》(1904初演)によって名声を不動のものとした。これは,ある家の子どもたちがピーター・パンという永遠に成長しない少年とともに不思議な島で種々の冒険に遭遇するという物語で,児童劇の古典として今も愛好される。他の戯曲には,同じく感傷的で空想的な《ねえブルータス》(1917),《メアリー・ローズ》(1920),上流社会を風刺した喜劇《あっぱれクライトン》(1902)などがあるが,今日では古風で感傷的なものとしておおむね軽視されている。1913年サーの称号を与えられた。
執筆者:


バリー
Antoine Louis Barye
生没年:1796-1875

フランスの彫刻家。パリに生まれ,彫刻家ボジオF.Bosio,画家グロに学ぶ。ローマ賞に不合格後,動物彫刻に専念。1831年のサロン(官展)に初出品し,賞賛も受けるが,反対者も多かった。彼の庇護者であったオルレアン公の死後,37年のサロンに落選し,以後48年まで不出品。その間,ルイ・フィリップの王政に対する民衆の抵抗を表現するライオン像(1840)をバスティーユ広場の円柱に制作した。48年以後,国立自然史博物館の素描教授,ルーブル美術館鋳造部長などの職に就き,またルーブル宮殿の〈ドノン館〉などにも彫像を制作。彼は,的確な観察力と生命への感動に基づく動物彫刻によって,ロマン主義のテーマを実現し,また,18世紀の装飾的な動物彫刻を躍動的な量塊としての近代彫刻に高めた。ロダンは〈もっとも多くを受けとったのはバリーからである〉と,たたえている。
執筆者:


バリー
Charles Barry
生没年:1795-1860

イギリスの建築家。イギリス国会議事堂の設計で知られる。ロンドンに生まれ,グランド・ツアー(1817-20)後しばらくは,セント・ピーター教会(ブライトン,1826)などゴシック様式による聖堂を建て,その正確な様式復元はゴシック・リバイバルの先駆となった。しかし元来の好みは,自由党クラブ(ロンドン,1837)にみられるイタリア・ルネサンス様式で,ハリファクスの市庁舎(1862)などの主要作品はこの様式で設計した。国会議事堂の設計競争(1836)ではピュージンの協力を得て1等入選を果たした。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「バリー」の意味・わかりやすい解説

バリー
Barry

イギリスウェールズ南東部,ベールオブグラモーガン南東部の都市。ベールオブグラモーガンの行政府所在地。ウェールズ語では Y Barri。ブリストル海峡に臨む港湾都市で,カーディフの南西約 10kmに位置する。1881年には人口わずか 85の寒村であったが,1889年背後の南ウェールズ炭田のための石炭積出港が建設されてから急速に発展。第1次世界大戦後にこの地域の石炭産業が衰えると,市の経済も大きな打撃を受けたが,1960年代以降はさまざまな貨物を扱うようになり再興を果たした。バナナや石油などの輸入品も扱う。ベールオブグラモーガンの商業やサービスの中心地。美しい砂浜海岸や各種の娯楽施設があり,海浜保養地としても知られる。人口 5万661(2001)。

バリー
Barry, Sir Charles

[生]1795.5.23. ロンドン
[没]1860.5.12. ロンドン
イギリスの建築家。ゴシック・リバイバル様式の代表者。イタリア,ギリシア,エジプト,パレスチナなどを建築の研究のために旅行し,1820年に帰国。 23年にブライトンのセント・ピーター聖堂の設計コンクールに当選。トラベラーズ・クラブ (1829~31) ,リフォーム・クラブ (37~41) の設計は古典様式によった。特に A.ピュージンとともに英国国会議事堂 (40~65) の設計者として知られる。 41年ロイヤル・アカデミー会員,52年ナイト爵。3人の息子,アルフレッド (26~1910) ,エドワード・ミドルトン (1830~80) ,ジョン・ウルフ (36~1918) もそれぞれ建築家として知られるが,特にエドワードはロンドンのナショナル・ギャラリーなどの設計者として知られ,ロイヤル・アカデミーの教授をつとめた (1873~80) 。

バリー
Barrie, Sir James (Matthew)

[生]1860.5.9. アンガス
[没]1937.6.19. ロンドン
イギリスの劇作家,小説家。スコットランド出身。エディンバラ大学に学ぶ。ノッティンガムで2年間ジャーナリストとして働いたのち,ロンドンに出,小説で好評を博し,さらに劇作に進出。代表的戯曲は,風刺的風習喜劇『あっぱれクライトン』 The Admirable Crichton (1902) ,永遠の童心を扱った幻想的作品『ピーター・パン』 Peter Pan (04) ,『親愛なるブルータス』 Dear Brutus (17) など。 1930年エディンバラ大学名誉総長。

バリー
Barry, John

[生]1745. アイルランド,ウェクスフォード
[没]1803.9.13. フィラデルフィア
アメリカの軍人。 21歳でフィラデルフィアの商船の船長となり,アメリカ独立戦争の開始とともに,1775年秋,最初のアメリカ艦隊を整え,『レキシントン』『エフィンガム』『ローリー』などのフリゲート艦長として活躍。 80年『アライアンス』の艦長としてフランスに向い,洋上でイギリス艦2隻を破った。一度退役したが,94年に再び『ユナイテッド・ステーツ』の艦長を命じられた。 98~1800年の対仏紛争では西インド艦隊を指揮。晩年は S.ディケーター,R.サマーズらの後進を育成,「海軍の父」と呼ばれた。

バリー
Barry, James

[生]1741.10.11. コーク
[没]1806.2.22. ロンドン
イギリスの画家。 1766~70年イタリアで絵を学び,71年ロンドンで『アダムとイブ』 (ダブリン,ナショナル・ギャラリー) を発表。 73年にロイヤル・アカデミー会員となり,82年にアカデミーの絵画教授に指名されたが,同僚と折合わず 99年に除名された。その他の主要作品『ウルフ将軍の死』 (1776) ,ロイヤル・ソサエティの広間のために制作した『人類文化の発展』 (77~83) 。

バリー
Barry, Philip

[生]1896.6.18. ニューヨーク,ロチェスター
[没]1949.12.3. ニューヨーク
アメリカの劇作家。エール大学卒業後ハーバード大学の G.ベーカーのもとで劇作を学び,愛情と結婚の問題をアイロニカルに描いた高級喜劇 (ハイ・コメディー) にすぐれた作品を残した。代表作『動物王国』 The Animal Kingdom (1932) ,『フィラデルフィア物語』 The Philadelphia Story (39) 。

バリー
Barye, Antoine Louis

[生]1796.9.24. パリ
[没]1875.6.25. パリ
フランスの彫刻家。 19世紀前半のロマン派彫刻を代表する。青年時代にパリの植物園で動物標本制作の鋳金工として雇われていたときの経験を生かした,動感と緊張をもった動物彫刻で有名。代表作『蛇と戦う獅子』 (1833,ルーブル美術館) ,『すわる獅子』 (47,オルセー美術館) 。

バリー
Barre

アメリカ合衆国,バーモント州中部の都市。 1788年入植,1894年市制施行。 19世紀初めから花崗岩の切出しが行われ,現在も主産業である。ほかに電気器具の製造などがある。人口 9482 (1990) 。

バリー(男)
バリー[だん]

「セシル」のページをご覧ください。

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百科事典マイペディア 「バリー」の意味・わかりやすい解説

バリー

英国の建築家。ロンドン生れ。初期には教会堂建築を多く手がける。1840年に6年前に焼失した国会議事堂の建築に着手し,1852年完成。ビクトリア朝最初の大規模な建築であり,ゴシック・リバイバルの代表作とされる。
→関連項目イギリス国会議事堂国会議事堂

バリー

イギリスの映画音楽作曲家。ヨークシャーの出身。父は映画館や劇場を経営,母はピアニスト。1959年,映画音楽作曲家としてデビュー。60年代前半から,映画《007シリーズ》の編曲・作曲で頭角をあらわし,66年,《野生のエルザ》でアカデミー作曲賞,主題歌賞を受賞。ゴールデングローブ賞とアカデミー賞をあわせて5回受賞する。代表作に《愛と哀しみの果て》,《ダンス・ウィズ・ウルブス》,《チャーリー》がある。

バリー

英国の劇作家,小説家。スコットランド生れ。喜劇にすぐれ,《あっぱれクライトン》(1902年)など風刺とユーモアと空想にあふれた作品で成功した。永遠の少年を描く《ピーター・パン》によって知られる。

バリー

フランスの彫刻家。パリ生れ。最初は金工家でのち彫刻に移り,従来のアカデミックな伝統にとらわれない,劇的動感にみちた動物彫刻を多く手がけた。代表作は《ワニを食べる虎》(1831年,ルーブル美術館蔵)など。

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デジタル大辞泉プラス 「バリー」の解説

バリー

スイス、サン・ベルナール修道院で飼われていた犬。1800年生まれ。山岳救助犬として多くの遭難者を救助した。スイスの国犬でもあるセントバーナードの原種にあたる。

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世界大百科事典(旧版)内のバリーの言及

【児童文学】より

…少年小説もまたT.ヒューズの《トム・ブラウンの学校生活》(1857),R.バランタインの《サンゴ島》(1857),ウィーダOuidaの《フランダースの犬》(1872),シューエルA.Sewellの《黒馬物語》(1877)のあとをうけて,R.L.スティーブンソンの《宝島》(1883)で完成した。架空世界を取り扱った物語は,J.インジェローの《妖精モプサ》(1869),G.マクドナルドの《北風のうしろの国》(1871),R.キップリングの《ジャングル・ブック》(1894),E.ネズビットの《砂の妖精》(1902),K.グレアムの《たのしい川べ》(1908),J.M.バリーの《ピーター・パンとウェンディ(ピーター・パン)》(1911),W.デ・ラ・メアの《3びきのサル王子たち》(1910)にうけつがれ,ファージョンE.Farjeon《リンゴ畑のマーティン・ピピン》(1921)は空想と現実の美しい織物を織り上げた。さらにA.A.ミルンの《クマのプーさん》(1926)が新領域をひらき,J.R.R.トールキンの《ホビットの冒険》(1937),《指輪物語》(1954‐55)は妖精物語を大成する。…

【男性と女性】より

…第1次世界大戦直後のアメリカ女性の性風俗をもっとも大胆にエロティックに描いて,ハリウッド史上類のない物議をかもし,〈デミル伝説〉を生んだ風俗映画。原作は《ピーター・パン》の作者として知られるJ.M.バリーの戯曲《あっぱれクライトン》(1902)で,女優出身のジーニー・マクファーソンが映画用の台本を書いた。時代の先端をいく女たち,いわゆる〈フラッパー〉の台頭を察知したデミルは,清純でも妖艶でもない新しいタイプの女優グロリア・スワンソンを起用して,《夫を換ゆる勿(なか)れ》《連理の枝》(ともに1919)をつくったが,これに続くこの《男性と女性》では,孤島に漂着した執事(トマス・ミーガン)が女主人(スワンソン)たちをこき使うというシチュエーションにおいて,イギリスの貴族と使用人の主従関係の逆転を風刺的に描いた。…

【ピーター・パン】より

…イギリスの劇作家J.M.バリーの同名の戯曲(1904初演)の主人公。最初に登場したのは小説《小さな白い鳥》(1902)においてであった。…

【イギリス国会議事堂】より

…当時は〈ウェストミンスター新宮殿〉と呼ばれた。設計者はバリー。細部の設計はピュージンによる。…

【ネオ・ルネサンス様式】より

…ドイツのゲルトナーFriedrich von Gärtner(1792‐1847)はミュンヘンに建てたルートウィヒ教会(1829‐40)および国立図書館(1831‐40)で,イタリアのロマネスク様式やルネサンス様式に近い単純な煉瓦造りの半円アーチ様式を採用したが,これが石材に乏しいドイツの状況によく適合して流行し,やがてゼンパーによるドレスデンの宮廷歌劇場(1838‐41)のような優雅なルネサンス様式の採用に変化した。イギリスでは,C.バリーのロンドンの旅行家クラブ(1830‐32)や自由党クラブ(1838‐41)のような,パラッツォの様式を採用したクラブ建築が流行し,フランスでも,ラブルーストのサント・ジュヌビエーブ図書館(1838‐40)や,デュケネーのパリ東駅(1847‐52。95‐99改築)のような秀作が造られた。…

※「バリー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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