イギリスの映画音楽作曲家、指揮者、アレンジャー、トランペット奏者。本名ジョナサン・バリー・プレンダーギャストJonathan Barry Prendergast。『007』シリーズの音楽で知られる。父親が映画館主、母親がピアニストという環境のもと、ヨークに生まれる。映画と音楽に囲まれた少年時代を過ごす。地元の教会の聖歌隊長に作曲とピアノを師事、アレンジに興味をもつが、映画『楽聖ショパン』(1944)に感銘を受け、映画音楽に関心を寄せる。10代なかばまで家業の映画館で働きながら地元のバンドでトランペットを演奏。音楽学校を中退した後、18歳で陸軍に入隊。軍楽隊のアレンジを手がけながら腕を磨き、同時にジャズ・アレンジャーとして評価の高かったビル・ルッソBill Russo(1928―2003)の通信教育講座で編曲を学んだ。除隊後の1957年、軍楽隊の仲間とともにジャズ・ロック・バンド、ジョン・バリー・セブンを結成。いくつかのテレビ番組出演を果たした後、イギリスEMI傘下のパルラフォン・レーベルと専属契約。1958年から新人歌手アダム・フェイスAdam Faith(1940―2003)の伴奏を担当。フェイスの人気上昇とともに活動の場を広げていった。フェイスの初主演映画『狂っちゃいねえぜ』(1960)で初めて映画音楽を担当。1962年までEMIのアレンジャーとしても精力的な活動を行う。1962年、『007/ドクター・ノオ』(1962)の音楽担当を降板させられたモンティ・ノーマンMonty Norman(1928―2022)の後を引き継ぎ、ノーマン作曲の同作のテーマ曲(「ジェームズ・ボンドのテーマ」)をアレンジ、これが世界的大ヒットとなった。続く『007/ロシアより愛をこめて』(1963)から『007/リビング・デイライツ』(1987)まで、計11作の『007』シリーズを手がけて名声を不動のものとした。
『ナック』(1965)あたりまでのバリーの映画音楽はエレクトリック・ギター、木管、マレット楽器(木琴やビブラフォンなど、音板を撥(ばち)で叩く楽器の総称)などのソロを巧みに生かしたクールなジャズ・サウンドを持ち味としていたが、アカデミー最優秀作曲賞および同主題歌賞に輝いた『野生のエルザ』(1966)から饒舌(じょうぜつ)なストリングスを中心に据えたアレンジを好むようになる。ふたたびアカデミー賞に輝いた『冬のライオン』(1968)で教会旋法を独自にアレンジしたスコアを披露、クラシック音楽への造詣(ぞうけい)の深さを示した。このほか『国際諜報員(ちょうほういん)』(1965)、『真夜中のカーボーイ』(1969)などに、楽器固有の音色を生かしながらハーモニーを印象深く響かせる、バリー独特の手法の好例を聴くことができる。1970年代以降はオーケストラの客演指揮者としての活動が増えたせいもあり、作風は一層クラシカルなものに傾いていった。『レイズ・ザ・タイタニック』と『ある日どこかで』(ともに1980)で伝統的なオーケストラを用いたスコアは、バリーがイギリス・クラシック音楽の正当な嫡子(ちゃくし)であることをみごとに物語っている。
こうしたロマンティシズム溢(あふ)れる映画音楽作品を発表する一方、1980年代には『白いドレスの女』(1981)、『コットンクラブ』(1984)で自らのルーツであるジャズを再検証する興味深い仕事を手がけた。その後、陶酔的な弦楽セクションと雄大なホルンの響きを前面に出した『愛と哀しみの果て』(1985)と『ダンス・ウィズ・ウルブズ』(1990)でアカデミー最優秀作曲賞を受賞し、後期ロマン派の音楽スタイルをそのまま踏襲したバリーの作風を、広く一般に印象づけた。
1988年に重傷を負ったため再起が危ぶまれたが、映画音楽作曲の本数は確実に減ったものの、1990年代も1年に約1本のペースで仕事をこなしていた。1975年(昭和50)に来日。
[前島秀国]
『Eddi FilegelJohn Barry; A Sixties Theme (1998, Constable and Company , London)』▽『Geoff Leonard, Pete Walker, Gareth BramleyJohn Barry; A life in Music(1998, Sansom, Bristol)』
イギリスの劇作家。スコットランド出身。ジャーナリスト、小説家を経て劇作家となり、感傷的な男女の喜劇『お屋敷町』(1901)、風刺と皮肉の喜劇『あっぱれクライトン』(1902)をはじめ、『女なら誰(だれ)でも知っていること』(1908)、『12ポンドの目』(1910)などで人気を博した。しかし彼の名を世界的にしたのは『ピーター・パン』(1904)で、この幻想的なおとぎ劇の傑作は今日でも少年少女を喜ばせ、イギリスではクリスマスの季節に欠かせない景物の一つである。『ピーターとウェンディ』(1911)はその小説版である。
[冨原芳彰]
イギリスの建築家。ロンドンに生まれ、同地に没。1817年から3年間にわたってギリシア、イタリア、中近東を旅行したのち、ブライトンのセント・ピーター教会堂(1817~20)をゴシック様式で建て、続いてマンチェスターの王立美術協会(1824~35)を古典主義様式で設計した。しかし、彼本来の嗜好(しこう)は、むしろイタリア・ルネサンス様式にあり、ロンドンの旅行者クラブ(1829~31)やリフォーム・クラブ(1837~41)はこの様式で建てられている。彼はロンドンの個人的な邸宅も手がけたが、なかでもブリッジウォーター・ハウス(1847)がとりわけ優れている。34年に焼失した国会議事堂の再建設計競技(1836)では、ピュージンの協力を得てみごと一等に入選。これが彼の代表作となった(1836~60)。しかし真の設計者をめぐって論議が沸き、現在では全体の構想はバリーのもの、内装や外観にみられるゴシック様式の細部はピュージンのものと考えられている。
[谷田博行]
フランスの彫刻家。パリに生まれ、同地に没。金工家の父と彫刻家ボジオに師事し、のちグロに絵画を学ぶ。ローマ賞受賞に失敗後は動物彫刻に専念し、1831年サロン出品の『鰐(わに)を襲う虎(とら)』、33年の『蛇を押しつぶすライオン』(ともにルーブル美術館)によって、ロマン派からの賞賛とともに、アカデミックな彫刻家からの反感をも得ている。このため37年のサロンに落選、以後48年まで不出品。のち、彼はルーブルの鋳造品販売部長、自然博物館の素描講師、万国博覧会の審査員などに任じられた。動物の激しい動きと生命力の把握は、ロマン主義の典型的な側面であり、また近代彫刻への第一歩でもあった。ルーブルのドノン門およびリシュリュー門の群像彫刻も彼の手になる。
[中山公男]
アメリカの劇作家。1920~30年代を中心に軽い笑劇から宗教色の濃い重い劇まで多数の戯曲を発表した。だが主題は一貫して愛と死と個人の生命力について追究。深刻な意欲作『道化たちがやって来る』(1938)なども評価されているが、どちらかというと都会的センスにあふれた喜劇に本領が発揮され、代表作『ホリデー』(1928)、『フィラデルフィア物語』(1939)など今日も新鮮な魅力をもつ。
[楠原偕子]
イギリスの劇作家,小説家。スコットランドに生まれ,ジャーナリストとなってロンドンに出る。1880年代初めから戯曲や小説を書き始めたが,当初はあまり成功せず,やがてみずからの少年時代を素材にした感傷的な小説によって注目されるようになった。しかし90年代末ごろからは主として劇作を仕事とし,自作の小説を脚色した《ピーター・パン》(1904初演)によって名声を不動のものとした。これは,ある家の子どもたちがピーター・パンという永遠に成長しない少年とともに不思議な島で種々の冒険に遭遇するという物語で,児童劇の古典として今も愛好される。他の戯曲には,同じく感傷的で空想的な《ねえブルータス》(1917),《メアリー・ローズ》(1920),上流社会を風刺した喜劇《あっぱれクライトン》(1902)などがあるが,今日では古風で感傷的なものとしておおむね軽視されている。1913年サーの称号を与えられた。
執筆者:喜志 哲雄
フランスの彫刻家。パリに生まれ,彫刻家ボジオF.Bosio,画家グロに学ぶ。ローマ賞に不合格後,動物彫刻に専念。1831年のサロン(官展)に初出品し,賞賛も受けるが,反対者も多かった。彼の庇護者であったオルレアン公の死後,37年のサロンに落選し,以後48年まで不出品。その間,ルイ・フィリップの王政に対する民衆の抵抗を表現するライオン像(1840)をバスティーユ広場の円柱に制作した。48年以後,国立自然史博物館の素描教授,ルーブル美術館鋳造部長などの職に就き,またルーブル宮殿の〈ドノン館〉などにも彫像を制作。彼は,的確な観察力と生命への感動に基づく動物彫刻によって,ロマン主義のテーマを実現し,また,18世紀の装飾的な動物彫刻を躍動的な量塊としての近代彫刻に高めた。ロダンは〈もっとも多くを受けとったのはバリーからである〉と,たたえている。
執筆者:中山 公男
イギリスの建築家。イギリス国会議事堂の設計で知られる。ロンドンに生まれ,グランド・ツアー(1817-20)後しばらくは,セント・ピーター教会(ブライトン,1826)などゴシック様式による聖堂を建て,その正確な様式復元はゴシック・リバイバルの先駆となった。しかし元来の好みは,自由党クラブ(ロンドン,1837)にみられるイタリア・ルネサンス様式で,ハリファクスの市庁舎(1862)などの主要作品はこの様式で設計した。国会議事堂の設計競争(1836)ではピュージンの協力を得て1等入選を果たした。
執筆者:星 和彦
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…少年小説もまたT.ヒューズの《トム・ブラウンの学校生活》(1857),R.バランタインの《サンゴ島》(1857),ウィーダOuidaの《フランダースの犬》(1872),シューエルA.Sewellの《黒馬物語》(1877)のあとをうけて,R.L.スティーブンソンの《宝島》(1883)で完成した。架空世界を取り扱った物語は,J.インジェローの《妖精モプサ》(1869),G.マクドナルドの《北風のうしろの国》(1871),R.キップリングの《ジャングル・ブック》(1894),E.ネズビットの《砂の妖精》(1902),K.グレアムの《たのしい川べ》(1908),J.M.バリーの《ピーター・パンとウェンディ(ピーター・パン)》(1911),W.デ・ラ・メアの《3びきのサル王子たち》(1910)にうけつがれ,ファージョンE.Farjeon《リンゴ畑のマーティン・ピピン》(1921)は空想と現実の美しい織物を織り上げた。さらにA.A.ミルンの《クマのプーさん》(1926)が新領域をひらき,J.R.R.トールキンの《ホビットの冒険》(1937),《指輪物語》(1954‐55)は妖精物語を大成する。…
…第1次世界大戦直後のアメリカ女性の性風俗をもっとも大胆にエロティックに描いて,ハリウッド史上類のない物議をかもし,〈デミル伝説〉を生んだ風俗映画。原作は《ピーター・パン》の作者として知られるJ.M.バリーの戯曲《あっぱれクライトン》(1902)で,女優出身のジーニー・マクファーソンが映画用の台本を書いた。時代の先端をいく女たち,いわゆる〈フラッパー〉の台頭を察知したデミルは,清純でも妖艶でもない新しいタイプの女優グロリア・スワンソンを起用して,《夫を換ゆる勿(なか)れ》《連理の枝》(ともに1919)をつくったが,これに続くこの《男性と女性》では,孤島に漂着した執事(トマス・ミーガン)が女主人(スワンソン)たちをこき使うというシチュエーションにおいて,イギリスの貴族と使用人の主従関係の逆転を風刺的に描いた。…
…イギリスの劇作家J.M.バリーの同名の戯曲(1904初演)の主人公。最初に登場したのは小説《小さな白い鳥》(1902)においてであった。…
…ドイツのゲルトナーFriedrich von Gärtner(1792‐1847)はミュンヘンに建てたルートウィヒ教会(1829‐40)および国立図書館(1831‐40)で,イタリアのロマネスク様式やルネサンス様式に近い単純な煉瓦造りの半円アーチ様式を採用したが,これが石材に乏しいドイツの状況によく適合して流行し,やがてゼンパーによるドレスデンの宮廷歌劇場(1838‐41)のような優雅なルネサンス様式の採用に変化した。イギリスでは,C.バリーのロンドンの旅行家クラブ(1830‐32)や自由党クラブ(1838‐41)のような,パラッツォの様式を採用したクラブ建築が流行し,フランスでも,ラブルーストのサント・ジュヌビエーブ図書館(1838‐40)や,デュケネーのパリ東駅(1847‐52。95‐99改築)のような秀作が造られた。…
※「バリー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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