日本大百科全書(ニッポニカ) 「バレンシア(スペイン)」の意味・わかりやすい解説
バレンシア(スペイン)
ばれんしあ
Valencia
スペイン東部、バレンシア地方バレンシア県の県都。イベリカ山脈のクエンカ山塊から流下するトゥリア川が形成する三角州低地にあり、地中海岸より約3キロメートルの河岸に位置する。人口73万8441(2001)。首都マドリード、バルセロナに次ぐスペイン第三の都市。1500年創立のバレンシア大学、美術館、多くの史跡があり、1238年以来大司教座の所在地。都市周辺の沃野(よくや)にかつてアラゴンの貴族、カタルーニャ人騎士や農民が入植したが、南部の地中海沿岸にはイスラム支配時代すでに定住が行われ、灌漑(かんがい)施設が整えられて米、果実などが栽培されていた。現在は13世紀以来の灌漑施設が充実され、灌漑畑ウエルタhuertaが広がる豊かな農業地域となっている。とくにオレンジ栽培が盛んで、大経営が多く、収穫期には多数の季節労働者が雇われる。南に広がる水田地帯は広大で、スペインでもっとも盛んな米作地帯をなす。当市はこれら農産物の一大集散地で、市街地の北3キロメートルにあるグラオ港から輸出される。製紙、化学、自動車、造船、繊維などの工業も立地している。
市街地は旧市街と新市街とからなり、旧市街には高さ65メートルの八角形の鐘楼ミゲレーテをもつゴシック様式の大聖堂、絹の取引所(1483~93)、宮殿(1586~94)や城門、スペイン有数の絵画コレクションをもつ県立美術館、国立陶器美術館などがある。新市街は道路沿いに発展し、大学も新しい部分はトゥリア川の左岸に建設されている。近年の人口増加により、旧市街も再開発が行われ、近代化されてきている。
バレンシア地方は地中海に面するスペイン東部の歴史的地方で面積2万3305平方キロメートル、人口416万2776(2001)。アリカンテ、カステリョン・デ・ラ・プラナ、バレンシアの3県からなる。カタルーニャの影響下にあったため、カタルーニャ語の一方言が話される。1983年より自治州を構成している。
[田辺 裕・滝沢由美子]
歴史
ギリシア人が紀元前3世紀ごろに、当市の近郊に交易のため植民市を建設したことに始まる。ローマ支配ののち、西ゴート人、イスラム教徒の支配を受け、11世紀以降はレコンキスタ(国土回復戦争)の重要目標となって、イスラム教徒、アラゴン王国、カスティーリャ王国の争奪戦が繰り返される。13世紀なかばにアラゴン王国への帰属が決まるとともに、バレンシア地域全体に特権が付与された。しかし、1519年の都市手工業者の反王権反乱が鎮圧され、17世紀初頭に農業を担っていた改宗キリスト教徒が追放されたため、商工業、農業ともに衰退した。18世紀初頭の王位継承戦争ではハプスブルク家カール大公を支持したため、ブルボン家フェリペ5世の勝利によって特権が剥奪(はくだつ)された。18世紀後半の経済発展は、19世紀の戦争と内乱によって停滞した。左翼勢力が強く、1936年のスペイン内戦では共和国側支配地域となり、中央政府がマドリードから一時移されたが、39年3月、フランコ側に占領された。
[中塚次郎]